ep.17 初任務(1)
裏山で術の練習をしていた少女の名は、日野あさぎ。年は九歳。
念のため保健室へ連れて行ったものの、到着する頃には傷がすべて完治していた。
気になることは山ほどある。
しかし、下手に問い詰めて、赴任初日から女子生徒に怪しまれるのは避けたい。
昨日は、好奇心を必死に抑え込んだのは言うまでもない。
「日野あさぎちゃん? ああ、双子のお兄ちゃんが有名なのよね」
翌日の昼休み。
青とつゆりの元同級生二人は、中庭で弁当を広げていた。
保健士としての仕事第一号となった記念すべき生徒。
その話の流れで、青が少女の名前を口にしたところだった。
「双子なんだ?」
「そうよ。日野家って、歴代の上士や特士を多く輩出している名家なの。そういう意味では、トウジュの家も同じね」
つゆりの情報通ぶりは、今も健在のようだ。
ちなみに、トウジュは中等課程の途中で飛び級し、青たちより一年早く下士になっている。季節の便りによれば、日々任務に追われているらしい。
「あさぎちゃんの双子のお兄ちゃん、よぎり君は有名よ。何度か飛び級していて、近々また飛び級して下士になるんじゃないかって噂」
「妹のあさぎちゃんは?」
——あの特異な体質は、周知の事実なのだろうか。
そんな意図での問いだったが、
「あさぎちゃんは、普通の子よ。飛び級とかはないけど、元気で、ハキハキした子」
つゆりの答えに、青が期待していた事実は含まれていなかった。
あさぎ本人に関する追加の情報は得られず、その後、つゆりの話題は他の子どもたちへと移っていった。
*
つゆりと昼食を共にした二日目の保健士勤務を終え、青はいったん軍の提供する寮へ帰宅した後、蟲之区へと向かった。
——大月青としてではなく、シユウとして。
医療従事者用の制服を脱ぎ、法軍人が一般的に着用する支給の黒服に袖を通す。腕章だけを装着した軽装に、鼻から下半分を覆う軍支給の覆面をつけた。さらに、目元を少し隠すための額当て付き鉢巻を深く締める。
そして最後に、狼の手甲を装着した。
「……暑い」
顔を隠す不快感は否めないが、仕方ない。慣れない格好のせいか、自分が不審者になったような気恥ずかしさもあり、足早に蟲之区へ駆け込んだ。
しかし、着いてみれば、自分と同じように顔を隠した者がちらほらと見受けられる。
さりげなく手元を盗み見ると、どれも真新しい狼の紋章が光っていた。
青は周囲を見渡し、自分と年齢が近そうな背格好の狼を探す。
工房へ移動すると、端の作業台に並ぶ十代と思しき二人組が目に入った。
手元では、黒い布に何かを縫い付けている。
「あの、作業中すみません」
声をかけると、二人は同時に顔を上げた。
一人は、体格と身長から見て女だろう。
青と同じ装いに、淡い山吹色の首巻を加えている。
長い黒髪を低い位置で結び、その留め紐も山吹色だった。
目元は完全に覆われ、表情はうかがえない。露出した唇には薄く紅が引かれている。
もう一人、縫い物をしていたのは男。
露出した目元は切れ長で、鼻と口元は覆面で隠されていた。
青よりも若干、年上に見える。
「どうしたの?」
応じたのは女の方だった。
柔らかな声音——青を年下と判断しているのだろう。
「僕、シユウと言います。まだ新米で……皆さん、どうやって顔を隠しているのか聞きたくて」
「え?」
男女が顔を見合わせ、それから青に視線を戻し——
「あははははは!」
突然、笑い出した。
静かな工房に、響き渡る笑い声。
二人はしばらく腹を抱えて笑い続けた。
「あの……」
戸惑う青。
「わ、悪い、悪い……」
ようやく息を整えた男が、手を伸ばして青の肩を軽く叩いた。
「俺たちもちょうどその話をしてたんだ」
男は、縫い物作業をしていた手元の布を持ち上げる。
「初任務の前に何とかしないとって、ここに来て作業してたら——こいつが声をかけてきてさ」
「こいつ」と言いながら、男は隣の女を指した。
「そうしてたら、君が来たってわけ」
今度は、女が「君」と言いながら青を指す。
男の務め名は庵。武具工の狼。
女の務め名は要。幻術の狼。
年齢については暗黙の了解で触れなかったが、雰囲気や体格から、自然と庵、要、青の順に落ち着いた。
「シユウ君、毒術なの? 珍しいんじゃない?」
青が名乗ると、要は庵へ目配せしながら同意を求めるような視線を送る。
「そうなのか?」
庵は手元で縫い物を続けたまま、特に関心を示さない。
「だってほら、毒は麒麟が不在だし」
困難が目に見えている道を選ぶ者は少ない——要はそう言った。
「麒麟がいないって、なんで?」
驚いて顔を上げるが、庵の手は止まらない。
「なんで知らないのよ」
要の唇が、不満げに尖った。
「時々いるわよね。自分のことしか見えてない人って」
呆れたように言いながらも、要は事情を説明してくれた。
話を聞いた庵は、心底驚いた様子で「知らなかった」と呟き、切れ長の瞳を丸くする。
「大変だな。何か困ったら相談しろよ?」
そんな庵の反応が、青にはむしろ新鮮だった。
この八年間、技能資格の界隈で青が耳にしてきたのは、毒術師に対する悪評ばかりだったのだから。
「だから、顔をどうやって隠すかで困ってるって言ってたじゃないの」
「そうだったな」
庵は切れ長の瞳を細め、手に持っていた布を広げた。
「幻術を仕込んだらどうかって、要と話してたところだったんだ」
「幻術を……仕込む?」
言葉の意味が飲み込めず、青が首を傾げる。
「見てな」
庵は広げた布を頭に被った。
額に当たる部分の裏側には薄い板が貼り付けられているようで、そこだけ質感が固い。
「俺の顔、どう見える?」
「どうって……」
目深に被った布の影が庵の目元を覆い、鼻と口元は覆面で隠されている。
ほぼ顔全体が見えない状態だ。
それを伝えると——
「その影が幻術なんだ。俺からは視界良好なんだけどな」
「え!?」
左右どこから見ても、屈んで下から覗き込んでも、庵の目は影に覆われたまま。
庵自身が首を動かしても、影はまるで固定されたかのように揺るがなかった。
「で、外すと——ほら、普通に」
額の布に指をかけ、軽く持ち上げると、涼やかな瞳が現れた。
「要が、この板の部分に幻術を封じたんだ。体に触れていれば自然と気が伝わって幻術が発動し、影を作り出す」
「なるほど!」
青が感嘆の声を上げると、庵は続けた。
「上位の技能師になると、仮面全体を幻術で作り出して維持できる人もいるらしい。でも、それじゃ気を食い過ぎる。少ない気でどうにかならないか考えて……これで十分だろってな」
「すごい……大発明じゃないですか!」
「だろ?」
目を輝かせて興奮する青の反応に、庵も満更ではなさそうだった。
「もっと研究して、使いやすく改良していこうと思ってさ」
「しょうがないから付き合ってやってるってわけ」
庵と要の掛け合いを、青は羨望の眼差しで見つめた。
武具工師の発想力と、幻術師の応用力——その融合を、目の前で体感したのだから。
「あの、僕も参加させてもらえませんか」
気がつけば、作業台に身を乗り出していた。
「例えばですけど……その、幻術を封じた物質に呪毒を仕込めば、敵に壊されにくくしたり、術の影響を受けにくくしたりできるかもしれません」
「毒術って、そんなこともできるの?」
「面白いね」
それから数時間。
三人の若き狼が、食事も忘れて工房に籠もる姿が、蟲之区の管理官たちに目撃されたという。
毒術師シユウに初任務の依頼が舞い込んだのは、それから三日後のことだった。




