ep.11 祈り(3)
「俺はここでもう少し話がある」
青を先に帰らせ、藍鬼は執務机の長へ向き直った。
背後の扉の向こうから「蟲之手形!? 大月君すごいです!」と女教師の声が響き、廊下でのやりとりが目に見えるようだ。
扉の前に立つ門衛も、抑えきれぬ失笑を漏らす。
次第に、教師と生徒の楽しそうな会話が、昇降機方面へ遠ざかっていった。
声が完全に消えたのを背中で確認してから、藍鬼は改めて長へ口を開く。
「蟲之手形の手配、感謝する」
「なに。誰が見ても文句のつけようがない成績だ」
長の指が、執務机上の資料の束を徒にめくる。
「君だって、そのために大突貫で一級を取らせたんだろう。四種も取ってくるとは、さすがに私も驚いたが」
「俺もだ」
黒い仮面と長の視線がかち合い、同時に小さく苦笑が漏れる。
「君もよく、あそこに入り浸っていたっけ」
仮面を見上げる長の瞳に、追憶の靄が揺れた。
「確かに」
向き合う黒い仮面の下から、笑みを含んだ声がこぼれる。
「あそこは楽しかった。稀覯資料や珍しい道具に素材……。きっと、あいつにとっても、良き師や友との出逢いがあるだろう」
「……」
執務机の主が沈黙すると――
「俺が教えられる範囲にも、限界がある。……それだけのことだ」
藍鬼は、少しばかりの後ろめたさを滲ませながら、言い添える。
「……君が禍地と出逢ったのも、あそこだったね」
「……」
今度は藍鬼が、言葉を飲み込む。
しばしの沈黙が、両者の間に降りた。
「なあ」
長の声が、その静寂を破る。
「君、本当は……」
語尾を遮るように、仮面が静かに首を横に振った。
「俺のケジメでもある。……もう、決めたことだ」
*
二日後。
明けの六つの刻より少し前。
青は森の小屋に向けて、小道を足早に進んでいた。
晩春の埃っぽさを洗い流した梅雨が明け、森は夏を呼ぶ朝雲に霞んでいる。肌に纏わりつく湿気を振り切るように、青は藪をかきわけた。
藍鬼と修行の約束をした日の朝も、こうして森を駆けた。
今日は何を教えてくれるのだろう――期待と高揚だけに満ちた時間。
「あ、もう来てる!」
小道が途切れ、木々の向こうに小屋の姿が現れる。
その前に立つ、人影。青の足が速まる。
「師……」
師匠、と呼びかけながら藪を抜け――足が止まった。
「あれ……?」
小屋の前には、藍鬼を含めて三人の人影があった。
藍鬼、ハクロ、ホタル。
いずれも薄青色の外套をまとい、裾は脛までを覆っている。それぞれ、荷を背負っていた。長旅を思わせる様相だ。
「青、来たか」
気配で既に察していたのあろう。藍鬼が青を見止め、片手を軽く上げる。
「師匠……? どうしたの、その格好……ハクロさん、ホタルさんも」
青は恐る恐る、一歩ずつ小屋の前へ進んだ。
ハクロとホタルは数歩引いた場所で直立し、静かに待っている。
「長い任務に出ることになった」
「……」
青は頷かなかった。
沈黙する弟子の前に、師は両膝を折り、目線を合わせた。
「任務……どれくらい?」
「わからない」
仮面はまっすぐ青を見つめていた。
至近でよく見れば、鬼豹の仮面の眼の部分には細い切り込みがある。その奥で、微かに瞬く瞳が見え隠れしていた。
「手を」
ふと、その瞳が伏せられる。
藍鬼の手が、青の左腕をとった。
半袖から露出した腕の内側を上向かせる。
青は、ただただ、何が行われようとしているのかを見つめるしかなかった。
「少しだけガマンだ」
藍鬼は腰の道具袋から符を一枚取り出し、青の細い腕に貼り付ける。
その上から、手のひらをしっかりと押し当て――
「印刻」
短く唱えた。
途端、符が赤く発光する。
「あつっ!」
刺すような痛みが走った。
反射的に腕を引こうとするも、藍鬼の手に強く掴まれ、逃げることができない。
皮膚を焼き、肉を刻むかのような、耐えがたい感覚。
符は白煙を上げながら、青の肌にその印を焼きつけていった。
「痛、痛い! ししょ……!」
体をよじらせ、涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにする弟子の腕を、師はそれでも離さず、抑え込む。
背後のハクロとホタルは、ただじっと佇んでいる。
一瞬が、青には耐え難いほど長く感じられた。
――「よし」
仮面の奥からの呟きと共に、腕が解放される。
煙がすっと消え失せ、痛みも嘘のように引いていた。
「あ、あれ……?」
あまりの痛みに吐き気さえ覚えていたが、それすらもケロリと退いている。
左腕の内側には、赤黒い模様が刻まれていた。
ミミズ腫れのように浮き上がっていたそれが、見る見る血色を失い、次第に肌色へと溶け込むように同化していく。
「……き、消えちゃった?」
指先で撫でてみるが、傷がついた感触は無い。
「お前の腕に、鍵を刻印した」
「鍵?」
「あるものを開ける鍵だ」
「何を開けるの?」
それが、藍鬼からの贈り物なのだろうか。
「その時が来たら、分かる」
藍鬼の指先が、青の目許の涙と汗を拭う。
「……師匠?」
そんなことをされたのは、初めてだった。
修行中に転んでも、尻もちをついても、師は決して手を差し伸べなかった。
その時とは、いつなのか。
これではまるで――
「課題」
「ん?」
「次の課題は何? 師匠が戻ってくるまでに、タッセイするから!」
「……」
繋げ止めたい――その一心で、口をついて出た言葉だった。
仮面の奥で、ほんのわずかに、瞳が揺れた気がした。
「課題は自分で探すものだ。お前はもう、それができる」
藍鬼の両手が、青の肩へと置かれる。
ズシリと重い。
手甲越しに、微かな温もりが伝わってきた。
「小屋は自由に使っていい。時々は掃除でもしておいてくれ」
「ふはっ」
何だそれー、と青が思わず笑いを零すと、仮面の向こうで瞳が細められる。
肩を掴む指が、一瞬、強く食い込んだ――のも束の間、藍鬼の両手は、ゆっくりと離れていった。
「師匠」
立ち上がりかけ、片膝をついた藍鬼へ、
「ご武運を」
青は、つゆりから習った「祈り」を手向けた。
「……」
仮面は、しばし真っ直ぐに青を見つめて動かない。
ざわりと、森から湿った風が吹き抜ける。
仮面の奥から、小さな吐息が聞こえた。
藍鬼の指が仮面の端を掴み、押し上げる。
涼やかな目許をした男の顔が、そこにあった。
「え!?」
青は口が、驚きに開く。
「一師……?!」
背後のハクロとホタルが、初めて反応を見せる。
妖鳥の面と白頭巾が、互いに顔を見合わせた。
「行ってくる」
その声は、あまりに静かで、優しかった。
柔らかな光を宿した薄色の瞳が、わずかに細められる。
「……」
青が返事をするよりも先に、藍鬼は再び仮面を下ろし、立ち上がった。
「待たせた」
外套の裾を翻し、青に背を向ける。
ハクロとホタルへ目配せを送ると、二人は戸惑いを見せたものの、すぐに頷きを返した。
朝を告げる森の鳥が、一声、高く啼く。
一陣の風が巻き起こり、三人の姿は、その場から掻き消えた。
西へ向かって、森の木々が波打つ。
「師匠……」
朝霧が晴れるまで、青は森を見上げたまま、立ち尽くしていた。




