ep. 53 継ぎ(2)
「ジャァアアアアァァッ!」
蛇腹が擦れる威嚇音が響く。
「ひっ……ひ……」
引き攣った呼気を漏らし、狸は全身をわなわなと震わせる。
蛇の濁った黄土色の瞳が、その場で最も非力な存在――狸へ、ぬらりと向けられた。
「うわぁぁぁんっ!」
それは被食者の本能だった。腹の底からの絶叫をあげ、狸は転がるように駆け出してしまう。
「シャァアアアア!」
鎌首が、逃げる狸を目掛けて鞭のようにしなる。
「動いちゃダメ!」
蛇の大口が食らいつくより速く、アキの腕が狸の丸い体を抱き寄せた。
「――っ!」
鋸のような歯がアキの腕を抉る。
鮮血が迸った。
「鎌鼬!」
狸を抱え倒れ込みながら放ったアキの風術が、蛇の鼻先の鱗を削ぐ。蛇は顔を振りながら仰け反った。
「アキ!」
「アキちゃん!」
天陽は倒れ込むアキへ駆け寄り、狸ごと片腕で抱き留める。アキの顔色は急速に血の気を失っていた。
「あさちゃん待て! 俺が――」
「地神……」
引き止める天陽の声を振り払い、あさぎが蛇に向かい地を蹴る。
「岩槌!」
石があさぎの両拳を覆って打撃の武器と化した。
「よくも!」
怒りに応えるように、みるみる石が変形して鋭い鋒を形作る。
振り下ろされた蛇の顔面を寸手でかわし、全体重を乗せた拳の鉾を、蛇の後頭部に叩き込んだ。
硬い破砕音と共に鱗が数枚、飛び散る。
「後ろだ!」
「――ぇっ」
背後から鋭い風音、丸太のような蛇尾が迫る――僅かにあさぎの反応が遅れた。
「きゃっ!」
無防備な背に一撃が叩き込まれ、あさぎの体が腐沼へ弾き飛ばされる。
「水陣!」
アキを抱えたまま天陽が叫び、顎を大きく開いた蛇の真正面に、逆巻く水の壁がせり上がった。
「ゴァアッ!」
短い咆哮と共に、蛇の口腔から灼熱の炎流が吐き出され水の壁に衝突、濛々《もうもう》と水蒸気が上がる。
崩れ落ちた水壁が、周囲に驟雨となって降り注いだ。
「こっの……!」
腐沼から這い出し、あさぎは再び蛇に立ち向かう。身体中に浴びた腐泥はとうに乾いて砂となり、無力化していた。
「――アキ!」
弟子の闘争心を止めることを諦め、天陽は姪に視線を落とした。ぐったりと体重を預けて虚ろな面持ちがそこにある。
右腕の手首から前腕にかけて走る傷口と、その周囲の皮膚は、おぞましい赤黒に変色していた。
「毒か……」
天陽は右腕と歯でアキの袖を千切り、上腕部をきつく縛る。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
涙声で謝罪を繰り返す狸が、小刻みに震えながら消火団法被の内側で何かをまさぐる。縫い付けられた小さな薬瓶を、必死にもぎ取った。
「こ、これ、自警団秘伝の傷薬、でス、解毒作用もあって……でも……」
「使ってみてくれ」
「は、はぃっ」
感情を抑え込んだ天陽の声に促され、狸は薬瓶の蓋を抜く。小さな瓶から薄桃色の液体が、傷口へ滴る。
しみるのか、アキの目元が僅かに痙攣した。
白く泡立つ薬が蛇毒と拮抗するように傷口を覆い始めるが、赤黒い染みの侵食速度が上回る。
アキの体が細かく震え始めた。
「毒のまわりが速い……っ、東雲天陽の名のもとに命ず!」
天陽は白妙村の方角へ式鳥を放つ。
シユウの元へ、一刻も早く知らせが届くことを願いながら。
「グゴッ!」
詰まった音がして顔を上げると、あさぎが岩に覆われた拳を、蛇の口内へ深々とねじ込む瞬間が見えた。
上腕まで呑み込まれた右腕に鋸状の牙が何本も食い込んで、蛇の口元が鮮血で塗れている。
「あさちゃん! やめろ!」
「だいじょーぶっ!」
気合いと共に、あさぎの拳を覆う岩が蛇の口内で膨張――岩の鉾が内側から、蛇の頬や額板を突き破った。
「ジャァアアアァア!」
怒りと苦痛の絶叫をあげ、蛇は狂ったように身をよじる。
「わ、わわっ!」
あさぎは片腕を食いつかれたまま激しく振り回され、投げ出された体が固い音と共に地面に叩きつけられた。
「っあ”!」
小柄な体が二度、三度と岩肌の上で弾み、転がり、木に衝突してようやく停止する。
「ぃた、ぁ……い」
あさぎは冷たい土の上で身を縮めて悶えた。呼吸ができず、懸命に腹から空気を押し出す。
噛み裂かれた腕の出血、どこか折れたであろう全身の痛みが通り過ぎるのを、じっと歯を食いしばって耐える。
「ヤロウ……っ!」
弟子の惨状を前に、天陽は咄嗟に腰を浮かせた。
その時、頭上に唐突な影が差す。
「――え……」
見上げる暇もなく鋭い一閃が眼前を走った。
暴れ狂っていた蛇の体がぴたりと硬直する。
静止した蛇の体が、徐々に、真縦に両断された。
「な、何……?」
ようやく首だけ持ち上げて、あさぎは目の前の光景を凝視する。
かすむ視界の中で、まるで蛇が二又に変化したように錯覚したが、違った。
赤黒く、臓器とも肉とも言い難い、腐汁が凝固したような裂け目が、左右に開いていく。
裂かれた肉塊は、土に落ちる端からどろりと崩れ溶けていった。
まるで何かの呪縛が解けたかのように。
「誰だ!」
天陽は警戒を露わに、アキを抱き寄せながら辺りの気配を探る。
微かな風切り音がして、どこから飛来してきたのか、天陽の前に青年が音もなく着地した。
羽織の裾が、大鳥の羽のように翻る。
歳は二十歳前後か、青年の肉付きの少ない細身で怜悧な貌、その姿から若さがうかがえる。
全身は黒を基調とした軍装、その上に藍、茶、黒などの縞模様の羽織を纏う。
手首と足首を護る手甲と脚半の造りは、五大国の法軍のそれにも似ていた。
青年は、意識のないアキの様子に、切れ長の瞳に苦々しい悔恨の色を浮かべる。
「介入が遅かっ……えっ!?」
物音に背後を振り返り、青年は瞠目した。
「いったぁ……」
動けないはずのあさぎが立ち上がり、一歩を踏み出そうという姿がそこにある。
「……アキちゃん!」
踏み出す一歩ごとに、肉を引き裂かれた右腕は塞がっていき、立ち上がるのに精一杯だった覚束ない足取りは力強くなっていった。
「……」
唖然とする青年の脇を駆け抜け、あさぎは泣きながらアキのもとへと駆け寄る。
アキの前腕から上腕へ、見る間に拡がる毒の染みを目の当たりにし、泣き顔を歪めた。
「ごめん……ごめんね……っ」
声を絞り出してアキに縋りつく。
「私が噛まれたら良かったのに――」
「馬鹿なことを言うな!」
「っ!」
天陽の峻烈な声に、あさぎの肩がびくりと震えた。
「村に式を送った。シユウ一師が気づいてくれるはずだ」
怖がらせないよう言葉を和らげたものの、天陽の目に、アキの容態は一刻を争う。
自警団の薬で表層の消毒はできたが、毒はすでに皮下組織に及び、広がり、アキの体へ達しようとしている。
手遅れになる前に、腕を切断するほか無いか――天陽は、失われた己の左腕を一瞥し、息と唾を飲み込んだ。
「待ってください」
「え……?」
俯きかけた天陽の肩を、青年の手が押し返す。
まるで、その覚悟を見透かしたかのように。
「もうすぐ追いつきますから」
青年はそう告げ、天陽から手を離すと背後の斜面を見上げた。
「誰が――」
ほどなくして、雑木林の斜面を駆け下りてくる新たな気配が近づき、目の前の藪が揺れる。
「ひゃっ」
狸が小さな悲鳴を漏らした。
藪を掻き分けて現れたのは、異形の仮面だった。
獣を象った黒漆塗りの面、その真ん中を、太い金継ぎの線が縦に走っている。
つづいて手足、体が藪から抜け出した。
青年と同じ黒の軍装の上に、青緑に染めた桔梗麻の葉模様の肩掛けを羽織っている。
腰や腕には皮革製の道具入れや刃物差しを巻いていた。
一人目の青年より物々しいいでたちながら、体や仮面に見え隠れする輪郭の線の華奢さや、黒髪を留める飾りから、まだ年若い女のようだ。
「お前らは、何者だ……」
法軍、自警団、白狼隊、いずれでもない。
敵意こそ感じられないが、天陽は警戒を緩めず、若者二人を見据えた。
「凪之国、法軍の方々ですね」
仮面の奥から聞こえた女の声はやはり若く、だがその口ぶりは落ち着き払っている。
「その方の、解毒と治療を私に任せて頂けませんか」
女は、天陽の腕の中のアキを指し示した。
黒い甲当てには金属板が嵌め込まれ、何かの紋が刻まれている。
「何……?」
「私は、毒使い――そちらで言うところの、毒術師です」
女の、丁寧で簡潔な口ぶりが、どこか不気味にすら感じられた。
「毒使い……」
「待って! センセイ、この人たち信用していいの?」
あさぎが、二人の前に立ち塞がった。不安と困惑に揺れる視線が、天陽と若者たちの間を行き交う。
「この子……とても興味深いけど」
金継ぎの面の奥の視線が、戸惑うあさぎへと向いた。頭の先から爪先まで値踏みするように視線が巡り、そして再び天陽へ向き直った。
「今はその方が最優先。手遅れになる前に、私を信じていただけませんか」
「アキちゃんに変なことしたらっ――」
喰ってかかろうとするあさぎを、
「あさちゃん」
天陽の声音が制した。
しばし仮面越しの女の瞳を見つめ、天陽は覚悟を決めたように、止めていた息とともに懇願を吐き出す。
「……頼む……助けてくれ」
そう告げ、天陽は細心の注意を払いながら、腕の中のアキをそっと草地に横たえた。
「お任せください」
女は頷いて、歩み寄る。
「天陽センセイ……!?」
アキから一歩身を引く天陽へ、あさぎは縋るように詰め寄った。
「あっ、こ、これも」
狸が慌てて上衣を脱ぎ、アキの頭の下に敷く。
「ありがとう」
天陽と狸と入れ替わりに、仮面の女はアキの側に膝をつく。
「アキちゃん、大丈夫、だよね……?」
天陽は、仮面の横顔を見据えたまま、動揺するあさぎの肩を宥めるようにそっと撫でる。
「少なくとも、あの『毒使い』は、信用できるかもしれない」
「どうして?」
恐々とあさぎが見守る中、仮面の女はアキの変色した右腕をとり、前腕に穿たれた傷を静かに観察しはじめた。
女の仮面は黒漆塗りで、金と銀の蒔絵によって幻獣の面差しが描かれている。
鼻や口、耳、角の凹凸が、滑らかな削りで象られていた。
顔の中心を縦断する太い金継ぎは、傷であると同時に、幻獣に威厳を添えている。
その幻獣は――鬼豹。
かつてこの意匠を仮面に採用した人物を、天陽は一人だけ知っていた。




