ep.8 任務(1)
二刻ほどが過ぎ、森の鳥の鳴き声が変わり始めた頃。
「か……じ……」
かすれた声が、奥の部屋から漏れ聞こえた。
「師匠??」
青が振り返ると、横たわる藍鬼の片腕が、宙を掴むように持ち上がる。
うなされていた。熱が上がったのかもしれない。
水の入った湯呑みと木匙を持ち、奥の部屋へ向かおうとして、青は足を止めた。
藍鬼の手が、巻かれた手ぬぐいに触れた。
「……何、だ……これ」
指先が目許をいじり、手拭いが外れた。
「……青?」
声がかかる。目を覚ました――青は慌てて背を向ける。
「仮面!」
「え?」
「そこに置いてあるから」
咄嗟に声をあげた。
見ていない、何も、見ていない。
「え、あぁ……」
まだ少し寝ぼけたような声と、床が軋む音が重なって、衣擦れの音も続いた。
「もう、いいぞ」
音が近づいたかと思うと、藍鬼の足が青の脇を通る。青が持っていた湯呑みが、筋張った長い指先に取り上げられる。もう片方の手には、仮面。
藍鬼は青に背を向けたまま、水を飲み干してから仮面を装着し、それからようやく振り向いた。
いつもの鬼豹面が、青の前に腰を下ろす。
藍鬼が何かを言い出す前に、
「悪い夢みてたの? うんうん言ってて苦しそうだったよ」
心配色の面持ちで、青は詰め寄った。
「……別に」
仮面の下から、低い息が漏れる。
「思い出したくない野郎の顔が出てきただけだ」
それより――と、藍鬼は脇腹を撫でる。青が手当をした箇所だ。
「世話をかけたようだな」
「僕はぜんぜん……」
青は、首を横に振る。
「ハクロさんっていう、鳥の仮面の人が解呪してくれたんだ。心配で戻ってきてくれたみたいだよ」
「そうか。ハクロが」
「師匠の顔、見なかったからね!」
「ああ……あの手ぬぐいも、お前か」
黒い仮面の下から、くぐもった苦笑が漏れた。
「ハクロさんに、『見たのか』ってすごい怒られそうだったんだ。何でダメなの?」
仮面の下で、二、三呼吸分ほどの沈黙が落ちる。
「……狼以上の技能師は、素性を隠さねばならない。仮面でなくとも良いがな。覆面の奴もいる」
「変な規則」
「大人の事情ってやつだ」
ふと、仮面が青の傍らに向き、長い腕が伸びた。
長い指が、二枚の証書を拾い上げる。
「これを、俺に見せに来たのか」
「あ、そうだった! うん!」
ぱっと、青が破顔する。今日、一番伝えたかったことだ。
そんな弟子の無邪気な様子と、合格証書を見比べる仮面の模様が、どこか感慨深そうにも見える。
つい一年前。
森で出逢った時は、物を知らない放浪の子であったのに。
「よくやったな」
師の手が、躊躇うように一瞬止まり、それから弟子の柔らかい髪をくしゃりとかき混ぜた。
「……」
青は動きを止めた。
初めて、褒められた気がする。
頭に置かれた手の温もりが、体の芯を通って広がっていく。
この優しさに、どこか懐かしさを覚えた。
「二級も、がんばるね」
師を喜ばせ、褒められたいという気持ちが、自然と言葉になった。
「……ああ」
細かい傷の多い手が、しばし黒髪をかき回し続けていた。
*
日が傾きかけた森を、並んで歩く二つの影がある。
青と藍鬼は、陣守の村へと向かう途中にあった。
「休んでいなくて大丈夫なの?」
青の目線は、ちょうど藍鬼の脇腹にある。
「俺も都に用がある。それに、寝不足だっただけだ」
「お腹に穴が空いてたくせに」
「ハクロが大丈夫だと言ってたのだろう? 薬術の獅子のお墨付きだ」
「ハクロさんって、師匠のブカ?」
恐ろしげな妖鳥の面が、いまだ青の脳裏に残ってチラつく。
「階級としてはそうだが、部下ではない」
青が覚えた技能職の階級表では、龍の下に、獅子が位置していた。
「ハクロさんって、どういう人なの」
「……あんなナリだが、珍しい善人だ」
「ふはっ」
思わず、青は吹き出した。
師匠も、あの仮面が変だと思っていたらしい。
「いずれ、薬術の麒麟になるだろうと言われている」
「麒麟に?! へぇ……」
青は前々から尋ねたかったことを口にした。
「じゃあ、毒術の麒麟って、どんな人?」
沈黙。
「師匠?」
見上げると、真っ直ぐ前を見据える鬼豹の仮面、その隙間から見える口元が、固く引き結ばれている。
「……ロクでもない野郎だ」
ぽつりと、それだけが返ってきた。
*
自称・弟子を都まで送り、別れた後、藍鬼は七重塔へ向かった。
七重塔は俗称であり、機能としての名は官邸および行政と法軍本部であるが、関係者も「七重塔」を通称として使っていた。
藍鬼は文字通り、真っ直ぐに長の執務室へ向かう。風を操り、跳び、外廊下から侵入するのがいつもの経路だ。誰もそれを咎めないし気に留めない。
「ケガをしたと聞いたが」
出迎える長も、藍鬼の闖入を黙認していた。
「寝不足だ」
「ここまで来られるなら元気だね。良かったよ」
長は、執務机上に両手を組み、袖を滑らせた。
「それで」
長の声が、柔らかな布の擦れる音に重なる。
「例の任務について……返事をくれるのかな」
「……その件だが」
鬼豹の仮面が肩越しにちらと、入口に立つ護衛官らを一瞥する。
長が片手を上げると、両者は無言のまま一礼し、室外へ去った。
扉が閉められ、気配が去るのを待ってから、藍鬼は再び口を開く。
「一年、待ってほしい」
「……あの子がいるから……か?」
仮面の返答に、長は軽く小首を傾げた。
仮面越しに、藍鬼の視線が逸らされる。
「いまさら、君が誰かに入れ込むなんて意外だとは言わないよ」
それを、無言の肯定を受け取って、長は机上の書類へ手を伸ばした。
「あの子――」
一枚を手に取って、おもむろに立ち上がる。
「二種で三級を獲ったらしいね。六歳だろう。誰かさんの、五歳の最年少記録が脅かされるとは」
誰かさん、で長の微笑を形作る両眼が、仮面の横顔へ向いた。
「今のところ、君が見込んだ通りの子だった……という訳だ」
長は、手元の書類を軽く指先で弾いた。表紙には「大月青」と氏名が記載されていた。
「平凡な難民孤児であれば、どこか子のいない夫婦に託して、地方の学校に通わすくらいが通例だ。君がわざわざ連絡をよこしてきたと思ったら、霽月院に入れて、都の学校に通わせて欲しい子がいるときた」
紙をひらりと机上に戻し、長は片眉を僅かに上げた。
また、しばしの沈黙。
「猶予は……あと一年で足りるのか……?」
「一年あればいい」
黒き仮面は、短く答える。
低く、確信のこもった声と共に、静かに頷いた。