ep. 52 早春の白露(3)
渡り廊下から気配が近づき、控えめな声が響いた。
「お話し中のところ、失礼いたします。七重塔より、至急の伝令です」
受付の医療士の声だ。
「……?!」
卓上の地図に視線を落としていた青とハクロは、同時に顔を上げた。
青は素早く額当てを引き、覆面を整える。
「何事だ」
ハクロが問うと、閉ざされた引き戸越しに、医療士の落ち着いた声が続いた。
「峡谷豺狼上士がご来訪です。シユウ一師に、ただちにご同行を願いたいとのこと」
「峡谷上士が……? あ……」
「それは大変だ。すぐに行きなさい、青」
椅子から身を浮かせた青の背を、ハクロの即答が押し出した。
「も、申し訳ありません……では」
青は立ち上がり、椅子の傍らに置かれた床机の上から、畳まれた外套と刀を掴み取る。
「すぐに出ます。峡谷上士にお伝えください」
「承知しました」
医療士の声が、玄関の方向へ遠ざかった。
装備を身につけ、最後に外套を羽織る。青は手際よく身支度を整え、最後に目の前のハクロへと改めて向き直った。
「今日は……お会いできて良かったです。また、伺ってもいいですか」
地図や紙で散らかったままの卓を名残惜しく一瞥し、青は遠慮がちに妖鳥の面へ眼差しを向ける。
「もちろんだ。気をつけて行ってきなさい」
師の深い頷きに、胸の奥に張った緊張が解けた。
「……はい」
ふと思い立ち、青は覆面を顎下へ引き下げた。
口元に笑みを湛える。
妖鳥の仮面からも、微笑が返ったように感じた。
「では、失礼します」
深く頭を下げ、青は迷いなく踵を返した。
覆面はそのままに。
渡り廊下へと駆けていく弟子の背を、ハクロは静かに、最後まで見送っていた。
「――悪い、急に」
長廊を抜けた先、玄関口に豺狼の姿があった。
青の姿を認めると、半歩、間合いを詰める。
「式を送るより、走った方が速いと思ってさ」
碧い瞳が、一瞬、覆面を下げた青の口元を見やった。
「大丈夫。何か緊急事態が?」
青は玄関に揃えられた脚絆鞜へ素早く足を通し、一動作で金具を締める。
「翡翠の陣守村へ同行してほしい。事情は道中で話す」
「翡翠へ……?」
青は息を呑んだ。
医院を飛び出す前に振り返る。
受付の医療士は、いつの間にか姿を消していた。
「分かった、すぐに――な、なに……?」
青は足を止める。
豺狼の視線が、自分の口元あたりに注がれていることに気づいた。覆面は顎下へと下げたままだ。
「顔色、良くなったな」
「そりゃあね」
青は自慢げに頬を撫で、指先で肌の弾力を確かめる。
「薬術の神麒様の治癒と、麒麟・ハクロ特師お手製の滋養酒入り薬湯のおかげで」
たった数日で、肌には艶が戻り、血色もよくなっている。自身でもその変化がはっきりと分かるほどだった。
「うわ、豪華。特士だってそんな待遇、なかなか受けられないぞ」
豺狼の端正な顔が、子どものようにくしゃりと緩んだ。釣られて青も「ふは」っと笑う。
「やっぱり半分でも見えると分かりやすくていい。今日はそのままでいろよ」
満足げに頷きながら、豺狼は玄関の引き戸を開ける。
早春の冷気が微かに入り込み、新たな季節の気配を帯びた風が、二人の頬をかすめた。
*
翡翠の陣守村へ到着してみれば、まず耳に流れてきたのは、慌ただしく行き交う士官たちの声だった。
「こっちだ」
先行した豺狼が外へと抜け、青も後に続く。
堂の出入り口を守る若い警備兵の一礼へ、青は片手を軽く挙げて応じた。青の濡羽色の外套の裾が、翡翠の春風に煽られる。
石畳の道の両脇に並ぶ四阿の下では、駐屯兵や士官たちがせわしなく動き回っている。指示を飛ばす声が飛び交い、事態の収拾に追われていた。
張り詰めた空気が辺りを覆い、ただならぬ事態の到来を物語っている。
前回の訪問時には、どこか花見でもしているような和やかさが見られたが、今日はさながら全ての四阿が軍議場と化していた。
机の上には大判の地図が広げられ、各所に設置された掲示板は、びっしりと紙で埋め尽くされている。
士官たちは深刻な表情で書面を見つめては、声をかけあっていた。
「……あれは?」
転送陣の堂を構える敷地を抜け、石畳の遊歩道を過ぎた先の、農村風景が広がる畦道。
その左右に、前回は目にしなかった小さく簡素な天蓋が、点在していた。
「避難してきた翡翠の人々だ」
「あぁ……」
この光景には見覚えがあった。
滴りの森の、難民村のそれに似ている。
道中に豺狼から受けた説明によると、露流河およびその支流に次々と異変が発生したのだという。
急激な氾濫で流された村もあれば、未知の獣や妖に襲撃された集落もあるとのこと。
「この辺りでは棲息していないはずの爬虫属が、目撃されるようになっている」
兵舎前広場に設置された本部の巨大天幕で、一色上士から改めて詳細が伝えられた。
机上には翡翠を中心とした広域地図が広げられ、目印用のコマがいくつも置かれている。
それぞれの地点には被害状況を記した書き付けが添えられ、紙面には各所の被害状況が、荒い筆致で記されていた。
「……南から北上してきた蜥蜴属でしょうか」
「炬の事変を、知っているのですね」
地図を見つめる青の低い呟きに、一色が即座に応じた。
机を囲むのは――チョウトクを代表し、隻腕の東雲天陽准士。
翡翠開拓隊から、猪牙上士と獣血人の檜前准士。
久方ぶりの顔ぶれではあったが、再会を喜ぶ余裕はない。
挨拶もそこそこに、一色を中心に、机上の地図を囲んだ軍議が始まっていた。
「支援任務で、滴りの森の難民村を訪れたことがあります」
青は、そこで蜥蜴族の襲撃を受けたこと、長から聞いた炬の現状と、翡翠の真南に位置する黒緋ノ國との関係性、および河の下流の枯渇現象――それらを簡潔に説明した。
一色は頷き、地図の数ヶ所を順に指し示す。
「現在、支流を含めた河川周辺で、被害の出ていない集落に士官を派遣し、地元の自警組織と協力して警邏を強化しています」
翡翠のような小国において、防御環境が整った集落は稀だ。
露流河の支流沿いの山間や深森には、小規模な村々が点在し、それぞれが心許ない自衛手段のみで生き延びている状況だ。
「幸いにも、自発的に周辺地域と連携を取ろうとする村落もあります。ここは比較的、自警組織が整っていて――」
「……」
青と豺狼の視線が交錯する。
一色の指が示す場所――それは、かつて青と豺狼が元チョウトクの自警団長・コウと出会った村だった。
机を囲む天陽へと目をやりそうになる衝動を抑え、青は意識的に一色へと顔を向ける。
「解毒薬や解呪要員は足りていますか。相手が爬虫属となれば、強力な毒を持つ個体が多いはずです」
青の問いに、一色は頷きながら帳簿を手元から押し出した。
「まさに、そこを相談したかったのです、一師」
青は帳簿を受け取り、表紙を捲る。
そこには、翡翠で活動する隊に支給されている解毒薬、解毒符、解呪符の在庫数と支給状況、さらには解呪を扱える「毒術・乙」以上の資格を持つ士官の名簿が記されていた。
「毒術師が足りない……ですね」
書面に目を走らせながら、青は額当ての下で眉間に皺を寄せる。
陣守村に常駐する治癒師、薬術師や医療士はいるものの、各地に派遣される隊に随行できる人材の数が、あまりに心許ない。
「何人か、後輩に心当たりがあるので、早急に当たってみます。それから、解呪符の備蓄も不足していますね。こちらも追加手配を進めます」
「ありがたい……!」
心から安堵した様子の一色を前に、青も内心で胸を撫で下ろした。
「心当たりのある後輩」とはすなわち、この三月ほどで指導を施してきた後輩毒術師たちに他ならない。
不摂生に体を壊しかけたものの、死に物狂いで鍛えた日々は無駄ではなかった。
青は静かに息を吐き、改めて帳簿に目を落とした。
「俺たちはどう動く? 一ヶ所ずつ村を巡るのも効率が悪そうだが、そうするしか無ぇか……。人が足りねぇな」
地図と睨み合いをしながら、猪牙が低く唸る。
「白狼ノ國から、増援の一隊が翡翠に向かっています」
一色の指が、地図上で大きく西へ――「狼の背骨」へと移動する。
「猪牙上士と峡谷上士隊には、白狼隊との連携をお願いしたいのです」
「うおっ!?!?」
「!?」
青たちの驚きの声は、猪牙一人の大音量に吹き飛ばされる。
「ってこたぁ、話はまとまったのか??」
猪牙が地図の上で腕を組みながら、にやりと笑みを浮かべた。
冬の始まりである睦月、白狼ノ國の王は凪へ書状を送った。
使者として陣守村へ派遣されたのは、王の実子である狩莅と狛。
書状はただちに凪の長・玄瑞の手に渡り、上層部で慎重に検討が進められていた。
長の下した決断は「段階的な関係性の構築」。
まずは白狼と翡翠の間で国交を活性化し、凪は『翡翠の親交国として、翡翠の外交施策を支持する』との公式見解を示す。そうすることで、婉曲的に翡翠を介し、白狼との国交を醸成していく方針が採られた。
これは、蒼狼をはじめとする以西の國々との摩擦を避けるための策でもあり、白狼、翡翠の両国もこの決定に理解を示したという。
「今回の白狼による『人道支援』は、翡翠と白狼間における外交施策の第一歩といったところでしょう」
一色が冷静に言葉を添える。
「そうかそうか、良い春風が吹きはじめてるじゃねぇか」
猪牙の豪快な笑いに似つかわしくない喩えだが、翡翠開拓隊を率いた彼にとって、この報せが感慨深いものであることは明白だった。
青はわずかに視線を横へ滑らせ、豺狼の横顔を窺った。
その端正な面差しには、どこか複雑な色を帯びた微笑が浮かんでいる。
「では、私は一度、都へ戻ります。さっそく、毒術師の追加派遣の手続きを――」
そう告げ、青が机を離れかけた、その時。
「――あ……お待ちください」
檜前の低く抑えた声が、青を引き留めた。
机を囲む全員の視線が、一斉に大柄な檜前へと注がれる。
檜前は、ゆっくりと顔を西へ向けた。
開け放たれた窓の方へと鼻を微かに鳴らし、鋭敏な嗅覚を研ぎ澄ませる。
「雲類鷲准士が、こちらへ向かっています」
「ということは、そろそろ白狼の一隊が到着される頃か……」
一色が窓辺へ歩み寄る。
視線の先、西の稜線を越え、一つの影が疾駆するように飛来している。天光を浴びた巨影は、大翼を折り畳み、風を裂くように急降下した。
誰からともなく窓辺から距離を置く。開け放たれた窓から、疾風と共に巨大な鷲が舞い込んだ。
強靭な翼がひと薙ぎされると、羽毛の小片が室内に舞い散る。
巻き起こる風が旋を描く。
その中心で、大鷲は青年――雲類鷲准士へと変じた。
全速力で翔んできたのか、床に片手をつき、荒く肩を上下させながら息を整えていた。
「ソラ、どうした。白狼隊はそろそろなのか」
檜前が声をかける。
雲類鷲は荒い呼吸を無理やり飲み込み、ぐっと背を伸ばして立ち上がった。
普段は涼やかな表情を崩さぬ彼が、今は汗に濡れた黒髪を乱し、額に細かな滴を浮かべている。
異変を察して押し黙った面々へ一礼すると、雲類鷲は大股で地図を広げた机へと歩み寄る。
「ただちに、露流河中流へ隊を派遣してください……!」
その声は切迫していた。
「何があったのです」
一色が問いかける。
その声音は冷静だ。
「これまでと比較にならない巨大な爬虫属の妖魔の出現を確認――人里に被害が及ぶのも時間の問題……白狼隊が先んじてそちらへ向かっています……!」
雲類鷲の指が地図上を滑り、東と西の境界線となる露流河の本流付近を指し示す。
そこは、白妙の村に迷い込んだ、あの山間の森だった。




