ep. 51 月籠る魂魄(こんぱく)(5)
「残念ながら、お前宛てではないんだ」
「一師……、藍鬼……!」
彼には珍しく、冗談めかした口ぶりだが、今は笑えない。
ハクロの声には、わずかな苛立ちが浮かんでいた。
「遺書くらい、珍しいものではないだろう。法軍人なら誰しも、備えるものだ」
「それは、そう、だが……」
実際、任務に赴く機会の多い法軍人のほとんどは、法務局に公的証書として遺書を預けている。
ハクロ自身も例外ではない。
それは半ば義務であり、事務的なもの。
だがこうして美麗な文箱に収められた様は、仰々しく、ハクロの胸の内を重く押し潰した。
「お前に、どうしても面と向かって伝えておきたかった。同期の友として、遠慮なくな」
「同期……」
その言葉が、ことさらハクロには感傷的に響く。
新米技能師として、同時期に狼の位を授かった、ハクロ、ホタル、藍鬼の三人。
蟲之区の資料室で、ホタルが書架から盛大に雪崩を起こして困り果てていたところに、手を差し伸べたのが藍鬼とハクロの二人だった。
そこから始まった、同期のよしみ。
十数年の後、共に命運を賭した旅へ踏み出すことになろうとは、あの頃の誰が想像しただろう。
「ハクロ。俺に万が一があれば……青のことを、頼みたい。そのために必要な金も、別口で用意してある」
「……縁起でも無いことを――」
今度はハクロが苦笑で返してやったが、ひとつも冗談のつもりがない藍鬼の様子に、息を呑む。
藍鬼の筋張った指が、文箱の蓋を押し上げる。
中に収められていたのは、遺書と共に、青へ身の回りの品々を譲渡するための書類や判。
その事務的で無機質さが、生々しい。
いよいよ彼の覚悟の大きさを知り、込み上げる吐き気を抑え込みながら、ハクロは黙って藍鬼の「遺言」を聞いていた。
「何故、これほどまでのものを、あの少年に……他に託すべきご家族は――」
そこまで口にして、ハクロは言葉を呑んだ。
「……出過ぎた詮索だった……申し訳ない」
「気にするな」
善良な友の反応に、藍鬼は仮面の奥で小さく笑う。
「俺の家族は少々……クセが強くてな。青の方が、よほどしっかりしている」
「……」
どこまでが本気か測りかね、ハクロは返す言葉を探しあぐねた。
「何をすれば、いいのだ……子どもの世話など、俺には……」
文箱に問いかけるように、ハクロは伏目がちに呟く。
視界の中で、藍鬼の両手で改まったように膝へ置かれるのが見えた。
「青が毒術の道を選ばぬよう、導いてやってほしい」
「――っえぇ! っむぐ」
腹の底からの驚きが飛び出るとともに、ハクロは弾かれるように顔を上げた。
思わず前のめりに傾く。不意に飛び出した素っ頓狂な声に驚き、思わず片手で仮面の嘴を押さえた。
「し、しかし、藍鬼、確かあの少年は……!」
「ああ」
しどろもどろなハクロへ、藍鬼はゆるりと頷き返す。
「強い闇の性質を宿している――『可能性』がある」
「『可能性』、なのか……?」
藍鬼の隠し子疑惑が技能師界隈で実しやかに囁かれていた頃――巷の与太話に疎いハクロが、青の存在を知ったのは、この小屋を訪れたときだった。
負傷した藍鬼に、覚束ない手際と知識ながら懸命に手当を施した痕跡が、健気に映ったのを覚えている。
その後、快復した藍鬼が語ったのは「森で拾った」という少年、青との出会いと成り行きだった。
『ガキがてらに三つ目猪とやりあった挙句、妖瘴にも平気な顔をしていたのでな。興味が沸いた』
と。
当時の藍鬼の報告を聞き、ハクロは絶句したものだった。
妖は静かに獲物を喰らう。
辺りがしじまに沈む時、それは妖の予兆――弱き獲物は音もなく喰われ、人知れず姿を消す。
痕跡なき失踪者を「妖餌」と呼び、失踪そのものを「妖の腹落ち」などと呼ぶ地域もあるほどだ。
妖が吼える時――それは対象を弱き「餌」ではなく「敵」と見定めた証である。
妖瘴、は取り憑いた者の気力や生命力を削る。
いかに肉体を鍛え抜いた強者であろうと、ひとたび蝕まれれば、ただちに四肢が痺れ、脱力し、動作がままならなくなる。
ましてや、体力も生命力も未熟な子どもならば、それは時に命取りともなる。
ゆえに、最優先で解呪を施さなければならない。
ところが青は、妖獣・三つ目猪を三度も咆哮させた。
さらに、小屋に連れ帰って体を診るまで、妖瘴に憑かれていることに気が付かなかったという。
「この二年間、俺はあいつを観てきた。いくつか気がかりな兆候は掴んだが、確証を得るには……時間が足りなかった」
膝に添えられた藍鬼の指先が、衣を掻き寄せた。
「……気がかりな兆候、とは?」
「まずは」
藍鬼は文箱に蓋をし、そっと脇に寄せる。
「以前にも言ったが、妖瘴の耐性」
これは後々、青を弟子に迎えたハクロも、たびたび目の当たりにする事になる。
「それから」
と藍鬼は二本指を立てる。
「極端に乏しい五神通術の術力。二年鍛えてあの火力では恐らく……今後も劇的に伸びることはないだろう」
淡々と語る鬼豹面の瞳が、ちらとハクロを見やった。
「光、あるいは闇の性質を備えた者は、それが強いほど、五神通術と相克する――それが定説であったな?」
「……」
「光あるいは闇の性質が五神通術を凌ぐほどに強ければ……光は術を増幅、変容させ、闇は術を支配し、制御する。あいつは初見で、水術と地術を掛け合わせ、水を引き込む技を成功させた」
学校で五神通術の授業で成果を出せず、青が藍鬼に泣きついた日のことだ。
「なんと……」
それまで静かに藍鬼の話に耳を傾けていたハクロだが、思わず驚きを漏らす。
属性が異なる術を繋ぎ、自然を操る――本来その技術は一朝一夕に修得できるものではないのだ。
「あとは……俺の目で見たわけではないから、断言はできんが……」
歯切れの悪い言葉を濁したまま、藍鬼は視線をそらし、床の隅をじっと見つめた。
しばしの沈黙の後、不意に目線がハクロを捉える。
「なあ」
「う、うん……?」
ハクロはわずかに身を強張らせた。
「妖獣・三つ目猪の特徴を、覚えているか」
「?」
問いの意図が分からず、ハクロは仮面の下で眉を寄せる。
「奴の表皮は、針鼠のように硬化した毛に覆われているはずだな」
「あ、ああ、そうだな……それが、どうしたのだ」
「いくら弱点とはいえ、あの硬い表皮を、たかが五歳のガキが投げた小刀が、深々と貫くものか……?」
あの夜――仕留められた猪の急所に突き立った青の小刀は、刀身の半ばまで肉に埋もれていた。
「子どもにそんな力技が……、あの小さな少年が、か?」
ハクロは苦笑を噛み殺した。
三つ目猪は、凪の都周辺の森にて、頻繁に目撃される妖獣だ。硬質な表皮、屈強な巨体、そして怪力を誇る。
凪の新米法軍人にとって、格好の実戦訓練・腕試しとなる相手である。
「青の母親は、どうやら薬草に明るかったようでな」
出会った時、青はすでに、森の薬草を用いた基本的な傷の手当を心得ていた。
ヨモギの効能について、「母さまが教えてくれた通りだった」とも口にした。
「小刀の刃先に、毒が塗られていた。恐らくはクサノオウとハシリドコロ――壊死や腐敗を早め、幻覚作用もある。致死に至るほどの毒性は無いが……」
「……」
「……」
二人は口を閉ざしたまま、互いに言葉を探すように、各々の視線を床や壁へと彷徨わせる。
「……藍鬼…………」
先に口を開いたのは、ハクロだった。
「聞く限りでは、少年は毒術師としての資質は申し分ないように思えるが……。それだけの、闇の性質の兆候を見出しながら、なぜ、諦めさせたいのだ……」
――闇の才ある者は毒術、呪術、幻術に秀でる。
後々のハクロも、青にそう語っている。
「……」
藍鬼からの答えはなかった。
黒い鬼豹面を、脇に置いた文箱に向けたまま、まだ何かに迷っているように沈黙している。
ハクロは言葉を継いだ。
「お前は、よく語っていたではないか……毒術師道を、凪の未来を、特に後進育成のあり方について、熱心に……だから、あの少年の才を見出し、認め、弟子にしたのではないのか」
語りあった相手――禍地の名は、伏せたまま。
ハクロは大きく息を吐き、仮面の奥で呼吸を整えた。
一息に想いをぶつけたその熱を、鎮めるように。
再びの沈黙の中、やがて藍鬼が再び口を開いた。
「……俺は」
ゆるりと、黒い仮面が白き仮面へと向き直る。
「このまま、毒術の麒麟の継承が、断たれてしまえばいいと……思っている」
「――え……」
思いもよらない答えに、ハクロは全身の震えを覚えた。




