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ep. 49 山吹ひらく(3)

 極東の最南、東方で凪から最も遠い地の一つ――それが朔之里である。


 この地は五大国いずれとも転送陣を直結せず、最寄りの陣守村から一山を越えなければならない。


 里の要人のみが知る地下道が存在するというが、その通行を許される外部の者は、各国の長ただ一人に限られる。


 闇の里――その呼び名のせいで、五大国の者たちは、凍てついて陰鬱な地を想像する。


 しかし、峠から見渡す朔の地は、静まり返った雪の野だった。


「……うわ……」

 雪の斜面を登りきった青は、感嘆の息を白く吐いた。


 冬晴れの空の下、光を受けた雪霧がほのかにきらめき、その向こうでは、川面が氷を透かして穏やかに流れている。


 青は外套の頭巾を深く被り、首元の襟巻に口元まで顔をうずめながら、深く息を吸って吐く。

 山の気配は穏やかで、風すら立っていない。


「里は……どこだ?」

 眼下に広がる白銀の野には、里どころか人の営みの痕跡が見当たらない。


 まさかこの、広大な雪野を越えなければ、目指す朔には辿り着けないのだろうか。


「病み上がりには、こたえるぞ……」

 豺狼から健康状態の悪さを指摘されたのは、つい先日のこと。


 若手育成計画の立ち上げが一段落を迎えたため、適切に休息をとり生活改善に務めているものの――この三月みつきの不摂生の帳消しや三日にして成らず、だ。


「誰もいない……」

 つぶやきは、足元の粉雪に吸い込まれて消えていく。

 この先で里への案内人と落ち合うはずだが、どこにも人影が見えない。


 耳鳴りがするほどの静寂の中、青はじわりと心細さを覚え始めていた。


「あ……」

 葛折の峠道を下り、平坦な道へと差し掛かった時。青の視界の先に、春の色が浮かんだ。


「……女の子?」

 傾斜が平地と交わるあたりから、門をなすように常緑樹の並木が続いている。


 その入り口に、幼い少女がひとり、佇んでいた。


 雪に閉ざされた荒野に、凍えた様子もなく、黄の着物の幼い少女がただひとり――否応なく、人ならざるものと分かる。


「…………」

 気配をさぐる青へ、少女は首を少し傾け、上半身を小さく折って一礼する。

 肩で切りそろえられた黒髪が、暖簾のように揺れた。


 少女がまとう黄の着物に緋の帯、結われた髪に巻かれた紅の紐。それらは、雪に閉ざされた景色の中でひときわ鮮やかだった。


「ごきげんよう、シユウ様。山吹のおばあちゃんは、こっちです」


 黄色の袖が、並木の奥を指し示す。


 青は傾斜の途中から目を凝らしたが、常緑樹が作る木立の向こうには、ただ白々と雪の野が広がるばかりだった。


「……あの。寒くはないのですか」

 並木に沿いに半歩先を行く少女の背へ、青は問いかける。


 そっと、少女の足元へと目をやると、紅の鼻緒がちらりと覗く。厚みのある草履は、雪に沈むことなく、粉雪を舞い上げることもない。


 うなじや首筋が外気に触れていても、少女が寒がる様子はない。薄桃色の唇から白い湯気がのぼることもなかった。


「ハクロ様と、おんなじですね」

「ハクロ特師と、同じ?」


 少女は青の質問には答えず、歩みを緩めることなく、まっすぐ雪野へと向かう。青は追求を早々に諦めて、大人しく後に続いた。


 雪を踏みしめながら、青は少女の正体を考察する。

 庵から、からくり仕掛け人形の話を聞いた事があったが、そうした作り物めいた硬質さは感じられない。


「重さ」を感じさせないところから、術によるもの――近いもので式術の類であろうと推測する。人形ひとがたとは珍しい。


「シユウ様」

 並木の終着地点が見え始めた頃、先行する少女の足が止まった。胸元ほどの高さから、感情の乗らない面持ちが、青を見上げている。


「ど、どうしました」

「……何も、ないですか?」

「何も、とは」


 尋ね返すと、


「くらくら、ぐらぐら、しませんか?」

「――え」


 青は思わず面食らった。


「いえ、あ、その……確かに最近は不摂生が続いていまして、本日までに整えが間に合わなかったのですが、せめて神麟様に酷い顔色をお見せしないようには気をつけますので――」

「大丈夫そうですね」

「……はい」


 無の表情でぴしゃりと締められて、青は我に帰る。


 また余計なことばかり口走っていた……と猛省する大人を置き去りに、少女は再び先を歩き出すのであった。


 ほどなくして常緑樹の並木が終わる。

 二人の眼前に、いよいよ際限のない白の荒野が広がった。


 紅い草履が、止まる。


「門を、開きます」

 万歳のように両手を持ち上げると、雪原に細氷が吹き上がった。

 氷結晶の霧が光を受けて輝き、やがて幕をなす。その奥に、輪郭のぼやけた巨大な影が浮かび、次第に門の形を成していった。


 やがて光が鎮まると、二人の前には簡素な冠木門かぶきもんが現れた。

 横木と門柱を組み合わせた、屋根のない門。飾り気のない造りながら、柱と門の朱が鮮やかに映えている。


「開錠」

 少女の両手が、言霊に応じるように淡い光を帯びた。


「……鍵?」

 光は、白い手のひらから手首にかけて刻まれた紋様から、浮かび上がっているように見える。


 門は、音もなく開かれた。

 扉の向こうに見えるはずの雪原はなく、細氷の幕が強い煌めきを瞬かせている。


「シユウ様、山吹のおばあちゃんは、こっちです」

「えっ……!」

 見えざる力が、青の腕を強く引いた。


 思わず体が傾ぎ、転びかけながらも、青は開かれた門の向こうへと足を踏み入れる。


 ――瞬間、視界が闇色に沈んだ。そして、音も消える。


 青は思わず目を瞑った。


 浮遊と降下を繰り返す感覚と、頭を揺さぶられる目眩に襲われる。同時に、内臓が迫り上がるように息が詰まった。



 青



「!」

 耳元に、声。


 懐かしい。ひどく、あまりにも、懐かしい。

 強く、強く、ずっと追い求め、願い続けた、声だった。


 ――師匠


 声にならない声で叫ぶ。

 

「シユウ様」

「……は……っ!」


 至近からの呼びかけに、青は弾かれたように目を開いた。


 顔を上げると目の前に、首を傾げた少女。

 ふわりと、花の香がかすめる。


「え……」

 ほんの一瞬、白昼夢を見ていたような気がする。頭の中が、妙に澄んでいた。


「すみません……少し、ぼうっとして」

 背を正し、改めて周囲を見渡した。


 目の前に、平屋建ての屋敷――と呼ぶには小ぶりな建物――が佇んでいる。


 屋根は深く、艶やかに黒光りする瓦が重なり合い、軒端には花の飾り瓦が添えられている。

 今は薄く雪に覆われていた。


 柱、ひさしや格子窓などは飴色に統一されていて、磨かれた木材は光沢を帯びている。


 白く塗られた漆喰の壁には黒漆塗りの板が走り、屋敷の空気を引き締めていた。


 小ぢんまりとしながらも、ただ静かに清らか。

 神獣の名を持つ者に相応しい気配をたたえていた。


「……まさか……な」

 青は無意識に、人の気配を探っていた。


「……いや、そんなはずは……」

 柱の向こう、廊下の奥、あるいは縁側に――あの声の持ち主がいるのではないか。

 あり得ない期待が、胸を強く打つ。


「……っ」

 息苦しさをおぼえて、青は外套の胸元を握りしめた。


「少しお休みしますか?」

 黄色の袖が、開かれた戸口の向こうを示す。

 客間らしき一室には、籐の椅子が置かれていた。


 ここまでの移動で、酔う客が多いのだろう。

 そのための控え室のようだ。


 門をくぐった直後の浮遊感は、転送陣を通るときのそれと、よく似ていた。


「い、いいえ……大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」


 少女は「そうですか」と、小首を傾げて頷き、客間を指していた袖を、今度は反対側へ向ける。


「山吹のおばあちゃんは、こっちです」

 黄色の袖は、青を裏庭へ導こうとしていた。

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