ep. 49 山吹ひらく(1)
弥生の月が終わろうとする頃、凪では凛と咲いた寒梅が香を残しながら散り、入れ替わるように薄紅梅がほころび始める。
折しも若鶯のたどたどしい囀りがあちこちから響き始める様子から、
「凛梅の 香ほの残し うぐいす啼く」
という句が有名である。
紅梅の開花と足並みを揃えるように、青の育成計画もまた、着実な成果を示していた。
三月の間に、青の課題と指導を受けた若者たちの中から、
狼から虎へ昇格した者が二名、
虎から獅子へ昇格した者が一名、
法軍の目録に名を記された者が五名――鹿花も含まれている
と、短期間のうちに一定の成果を挙げた者たちが名を連ねる。
また、新規の毒術師志願者の数も回復傾向にあった。
かつての水準の半分にまで落ち込んでいたところが、七分半にまで持ち直したのだ。
長が師道選択の面談で理由を問うたところ、誰もが異口同音に「蟲之区で目にした毒術師たちの活気が、実に楽しそうであった」と語ったという。
青は、そうした成果と「生徒」たちの成長の記録をまとめ、長をはじめ技能師道の上層部へ報告。高位の技能師、上士・特士はじめとした高位者たちにも共有した。
そんな折、青のもとに長からの式鳥が舞い降りる。
「一師」
急ぎ、青が七重塔の玄関広間へ足を踏み入れた瞬間、呼び止められた。
振り向けば、背嚢を背負った豺狼が手を振っている。
外套の汚れから察するに、任務を終えたばかりと見られ、報告書の提出を終えた帰りのようだ。
「峡谷上士。任務帰りですか、お疲れ様で――」
「一師、ちょっとこちらに」
労いの言葉を言い終える前に、腕を引かれる。
長室へ向かう昇降機に続く廊下とは、逆の方向だ。
「いや、僕これから長室へ」
「すぐ終わる」
声色はいつもと変わらないが、手に込められた力が拒絶を許さない。
たどり着いたのは、地上階の一角に設けられたいくつかの小部屋の一つだった。事前予約制の多目的室で、青も任務前の作戦会議で使用した事がある。
誰もいない空間へ押し込まれ、引き戸が閉じられた。
「え、ちょっと」
振り返ると目の前に豺狼の手が迫り、覆面を指で引っ掛けて下げられた。続いて、目深に装着した額当てを持ち上げられる。
「あーあ。ひどいな、クマ」
呆れとも、叱責ともつかない声だった。
青の素顔を目にした、豺狼の端正な目許が歪む。
苦笑というよりは窘める視線が青を見据えた。
「ちゃんと食べて寝てるか?」
「え」
「やつれた。顔色も悪い」
「そ、そうかな……」
「十くらい老けた」
「えぇぇっ」
青は両手で自らの顔を撫で回してみる。
頬の肉が削げて、指先に頬骨がじかに当たる感触がした。
指の腹でなでる肌は瑞々しさを感じられず、まるで枯葉を撫でているようだ。
原因は分かりきっている。
この三月、食事の時間を削り、睡眠を削り、それでも足りないほど働き続けたのだ。
結果、既に二回も倒れて寝込んだ。
「『医療士の不養生』は笑えないぞ」
端正な顔が、呆れと怒りの混成した表情を形作っている。
「ご……ごめん」
笑って誤魔化せる空気ではなかった。
気圧されて、青の語尾が尻窄みにかすれた。
季節が春に転じようとしている今、いつまた西方への長期任務が再開されてもおかしくない。
来る日に備え、豺狼は常に心身が万全に整えられている。体が鈍りやすい冬季においても任務と訓練を隙なく積み重ね、勘を研ぎ澄まし、肉体も鍛え上げていた。
一方の青――外套で覆われた中には、疲労が染みついた躯が隠れている。
「……前から思っていたんだけど」
少しの気まずい静寂の後、豺狼の戒めるような視線が青の顔面を真正面から見据えた。
怒られる、と身構えていると、
「どっちか、外さない?」
「へ??」
豺狼の指が「どっちか」で己の目元と、口元を指し示している。
つまり目元を隠す額当てか、もしくは口元を隠す覆面、いずれかを外さないかと提案しているようだ。
「最近の流行りなのかな。若い技能師連中って、半面をつけてる子が多いよね」
「流行り……確かに」
流行には疎い青だが、思い返せば鹿花も出流も、目元だけを隠す獣の面を装着していた。
「それが何か――」
「任務って団体競技みたいなもので」
「う、うん」
豺狼が何を言わんとしているのか。
青は疑問符を浮かべながら、聞き漏らさないよう耳を傾けた。
「隊員たちの状態の把握も、俺たち上士や特士の大事な役割なんだ。精彩を欠いた動きをされたら、惨事につながる場合だってあるからね」
「……!」
青は目を瞬かせた。
「元医療士の君には余計な説法になってしまうけど。顔は分かりやすいよ。肌、瞳の濁り、唇の色、浮腫……手がかりだらけだ」
豺狼の言葉を聞きながら、青は無意識に自分の顔へ指を這わせる。
「でも、君みたいに、無理をするくせに隠そうとする人に、そうやって顔も体も隠されると……困る。顔の一部だけでも見えてると、安心できるんだけどな」
「あ……」
青の脳裏に浮かんだのは、朱鷺の姿。
素顔を一切うかがわせない仮面、体をすっかり隠してしまう外套――その下に隠されていたのは、毒に蝕まれた脆い躰。
もっと早くにハクロのもとで療養に専念させていれば、今も生き長らえられたのだろうか。
悪夢のように繰り返し思い起こされる後悔が、胸に疼く。
「――ごめん。気を付ける」
深く長い息を吐ききって、青は唇を引き締めた。
額当てと覆面を元に戻して再び顔を覆う。
「検討してみるよ。確かに、その方が良いのかもしれない」
「本当にそう思ってる?」
豺狼は疑わしげに首を傾げ、両腕を胸の前で組んだ。
「ちゃんと考える。ただ、急に見た目が変わるのはちょっと、気恥ずかしいっていうか、でもとにかくちゃんと検討するから。いつもの、技能師の同期にも相談する」
「ああ、武具工と幻術の」
「うん、庵練師は装備品の発明が得意で、要練師は特にオシャレにうるさ――じゃなくて、服飾に詳しいんだ」
「っははは」
腕組みを解き、豺狼は笑いながら後ろ手で部屋の引き戸を開けた。
「まずは、体調を整えろよ。今のままじゃ、顔色と人相が悪すぎて騒ぎになる」
「確かに」
一通り笑って、幼馴染の二人は並んで部屋を後にした。
 




