ep. 48 龍と寒梅(1)
七重塔を出てから、青は藍鬼の小屋へ直行した。
底冷えする室内に火を入れぬまま、棚の奥へ手を伸ばして束ねられた資料を取り出す。
五大国を含むいわゆる「東方」側の地図と、チョウトクによる「西方」側の地図とを組み合わせ、青が自らも追記を行った自作の万邦地図だ。
「炬之国がそんな悲惨な状態だったなんて……」
己の視野の狭さに改めて、自責の念にかられた。
卓に広げた地図の上、炬之国の篝州から南西へ指を滑らす。露流河をもって東西の境界とするならば、五弁の花を象る五大国のうち、西方に最も近いのは凪、次いで炬となる。
凪にとって西方で最も近しい隣国が、寛容な統治者と穏やかな民を擁する翡翠ノ國である事は、これ以上ない幸運であったのだ。
一方、炬にとっての西方の隣国は、燃え盛る火の山が聳え、炎蜥蜴や人喰い火龍が跋扈するなど、子どもたちの間にまで奇譚怪談の類で伝わって「世にも恐ろしき地」とされていた。
妖獣・妖魔の中でも、蜥蜴や蛇といった爬虫の眷属は殊更に獰猛で好戦的だ。妖瘴の毒素も強く解呪の技量が問われるため、難敵に分類される。
「戦力になる毒術師の数が足りなくなるかもしれない……ということは必要なのは裾野の拡大と人材の底上げ……か」
いま自分が取るべき後進育成の方策とは何か、考えを巡らせる。
優れた者をただ一人選び正弟子として育てることが本道ではあるが、現状において効率が悪いと言わざるを得ない。
春が巡れば、青もまた幾度と西方へ赴くことになる。全てを手ずから導く育成法には無理があった。
「……実地も踏ませないと身につかないしな……あと戦闘向きではない人は……」
凍える室内、青の呟きとともに白い息が漂った。
かじかむ指先に気がついて、火鉢を探そうと振り返る視界に、蓋が浮いた文箱が目に入る。そこには、水蛇草の課題に対して最終的に集まった解答の束が仕舞われている。
次に、青の視線は文箱の側に置いた額当てや覆面――小屋に帰宅して取り去ったもの――に向く。
「……」
最後に、青の視線は棚の角に置かれた焼き物の徳利に辿り着いた。
小屋の修繕を手伝いに来てくれた豺狼が土産にと持参した名酒だ。一晩では空にならず、「また遊びに来る」と彼が置いて行った。
「――そうだ」
閃きと共に青は再び作業卓へ向き直って別の文箱を手元に引き寄せ、中から筆と書状用の白紙を取り出す。
火鉢の存在を忘れ去ったまま、青は一心不乱に筆を動かした。
修繕したての格子窓の外から差す冬晴れの光が、少しずつ室内の冷気を溶かしていく。
結局、一度も火を入れることはなく、数通の書状を書き上げた青は慌ただしく小屋を後にした。
*
七重塔の一隅には、高位技能師の詰所と同様に、高位職位者の詰所が設けられている。
前者と同様に諸々の事務手続きを司る窓口の他、特徴的なのは軍議を執り行うための幾つかの会議室が配されているところだ。
白漆喰と板張りの壁が連なる長廊下を突っ切り、高位技能師の詰所と向かい合うその一画へと、青は足を踏み入れる。
規則としては高位者同士、互いの詰所を訪れることは許されているものの、その実、行き交う者は少なく交流の気配は薄い。
「……どなたかお探しか?」
開け放たれた広間の入り口付近に立っていた上士が、青の気配を察して振り返る。
手甲にある龍に一瞥をくれ、訝しげな色を目元に滲ませながらも礼を失せぬよう迎え入れてくれた。
「毒術師、龍の位シユウと申します。峡谷豺狼上士がこちらにいると伺いました……お、お取次いただけないでしょうか」
条件反射で過度に丁寧な口調になり、かえって不遜な印象を与えていないかと内心で冷や汗が滲む。
さすがは上士や特士ばかりが集まる場所とあって、そこにいる誰もが歴戦の猛者に見え、気圧されそうになる。
「お待ちを――峡谷、客人がいらしてるぞ。シユウ一師だ」
広間にいた数人が「一師?」と小声を揃えた。
「俺に?」
詰所の広間で数人の同僚と窓際の長椅子に腰掛けていた豺狼が、腰を上げる。
青の姿を見とめ、長身が破顔した。
「一師……ってことは龍?」
「若いな。龍だの麒麟だのって爺さんや婆さんが多いと思っていたが」
「いつの時代の話よ」
「あれだろう、毒術といえば。凪史上最年少だっていう」
「へぇ」
品定めをするような視線がいくつも突き刺さる中、入り口に佇む青の元へ豺狼が駆け寄った。
「どうしました、一師」
「峡谷上士に、ご相談したい事があります。事前の連絡もなく申し訳ありません……」
「いいえ、ぜひ。場所を変えますか」
「差し支えなければ、蟲之区へ」
青の提案に、豺狼は快く頷いた。
*
蟲之区の資料室区画、窓辺に据えられた机にて、青と豺狼は向かい合った。
青は持参した地図を広げ、研修での一連の出来事を細部にわたり述べていく。
青の言葉が尽きるまで、豺狼は黙して耳を傾けていた。
「……ふぅ」
小さな一息と共に青の視線がふと机上の地図へと逸れた。
その仕草を一区切りと見なし、
「俺たちが翡翠へ向かった頃よりも、状況はさらに悪化しているんだな」
豺狼もまた、一度冬晴れの窓へと視線を流し、そして再び青へと戻した。
「それにしても、あの護衛任務の時からつながっていたとはね」
「やっぱりそう思うよね……」
第三者の目がなければ、二人の口調は自然とくだけたものへと変わる。
だが互いにどこか灰色の紗が被せられたような心持ちで、自然と言葉が途切れていった。
豺狼の口から最後まで陽乃や侍女の名が出ることはなかったが、かつて関わりを持った人々の顛末に、少なからず思うところがあるのは明白だ。
「あ……シユウ一師だ。峡谷上士も」
「お二人が友達同士って本当だったんだ」
若い技能師たちの視線が、書架の隙間から窓際へと向けられる。
降り注ぐ冬の陽光がまばゆく輝く中、張り詰めた空気を纏う二人の姿に若者たちは声を潜め、息を殺した。
「それで」
沈みかけた空気を引き戻すように、豺狼の声音が軽やかに続く。
「一師が考えた育成方法というのは?」
「――え」
青が顔を上げると、
「俺に相談っていうのは、その事なんだろう?」
友は朗らかな微笑をたたえていた。




