ep. 46 黒い眼(12)
全てはほんの小さな我儘だった。
陽乃が覚えている最初の我儘は、四歳の頃。お気に入りの人形が壊れた時だ。
人形は、黒髪の毛糸と黒い瞳の宝石が美しい、父親の異国土産だった。
いつも一緒に寝て、一緒に着せ替えやままごと遊びもした。姉妹がいない陽乃にとって、姉のような存在だった。
陽乃が新しい人形をねだったその翌月のこと、父親は陽乃に新しい侍女を連れてきた。
黒髪と黒い瞳の、三つ年上の少女で、名を檀弓といった。
以来、檀弓はお気に入りの人形さながらに、常に陽乃の側にいた。
*
次に記憶に残っている小さな我儘は、州都で熱病が流行った時期の事。
幼かった陽乃も罹患して高熱に臥せったが栄養状態も良かった事から、順調に回復した。
だけど陽乃には、不満があった。
臥っている間、みな陽乃に優しかった。忙しい父も兄たちも、仕事や学業よりも陽乃の見舞いを優先してくれたのに。またひとりぼっちになってしまう。
陽乃は嘘をついた。
頭が痛い。お腹が痛い。苦しい。痛い。
檀弓が酷く心配して、父や兄たちへ泣きながら訴えた。
このままではお嬢様が死んでしまいます、と。
すると翌日から、入れ替わり立ち替わりに大勢の医者が陽乃の部屋を訪れるようになった。
とうに元気になっているのに、苦くて不味い粉薬や薬湯をたくさん出された。
州中から集めてきた高価な秘薬や特効薬だというが、陽乃にとっては不要なものだ。
大人たちの目を盗んでこっそり捨てた。
その年、大勢の子どもたちが死んだ。
使用人たちの中にも子を亡くした者が少なくなかったようだが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。
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陽乃が十代になった頃、初めて父に連れられて異国――凪之国を訪問、そこで初めて「一目惚れ」を経験した。
相手は同世代の見目麗しい青年士官で、名を峡谷豺狼といった。
峡谷青年へ一目逢いたさに、父にねだって何度と凪への外交旅に随行した。
社交の場で身につけるのだと言い訳して、豪奢な装束や煌びやかな宝石をいくつも誂えさせた。
ただ恋する青年へ、精一杯にめかし込んだ自分を見せたい、それだけの乙女心だ。
檀弓は陽乃の恋を一生懸命になって応援した。
「いつも一番素敵なお嬢様をお見せしませんと」
と、父や兄たちや使用人たちに陽乃の要望を伝えた。
陽乃の度重なる遊覧旅の準備に、使用人たちは忙殺された。
無理な旅程の連続に加えて、贅沢品を積んだ豪華絢爛な運搬旅団は賊らにとって格好の標的だった。
死傷した人足の数は両手でも数えられなかったほどだが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。
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陽乃の淡い初恋は、父が一方的にもたらした婚約話に打ち砕かれた。
檀弓からの情報によれば、相手は葦火群の商都一の資産家当主であり、父親ほどの年齢の男であるという。
檀弓は心から悲しみ、陽乃へ同情を寄せた。
「お可哀想なお嬢様……お嬢様のような可憐な方には、峡谷様のようなお方こそお似合いですのに」
と。
檀弓の慰めは、陽乃を心地よくさせた。
「峡谷様がわたくしを賊から救って下さったら、お父様もお許し下さるかしら」
それは、ほんの児戯に等しい空想ごとだった。
悪漢から守ってくれる麗しの君――恋する少女が誰でも夢見る程度の御伽話――のはずだった。
「檀弓にお任せください」
御伽話の作戦は、結果的に凪の護衛隊の数名に重軽傷者を出して終わった。
父の州侯が炬の長を通じて凪之国へ謝意を表すため、幾人かの官吏や使用人たちの管理不行き届きを咎め減給や配置転換等の処分を下した。
出世の道を断たれ自ら命を絶った官吏がいたり、路頭に迷いのたれ死んだ使用人がいたそうだが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。
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陽乃の我儘は常に他愛もなく、はじまりは小さなもので、檀弓はどこまでも忠実だった。
「檀弓は、いつも陽乃様のお側におります」
「お嬢様は何も悪くありません」
「お嬢様、何か欲しいものはありますか?」
それが檀弓の、口癖だ。
陽乃の小さな我儘を現実に変える、まるで魔法の言葉だ。
*
陽乃が葦火に嫁いでからも、それは変わらなかった。
社交の場で官吏の妻が身につけている、家宝だという髪飾りが目に留まった。西方の異国で採取される純度の高い翡翠石が用いられている。
「ね、檀弓。あのお飾り、素敵ね」
「本当に。きっと奥様にお似合いです」
何気なく口にしてからしばらく後、髪飾りは陽乃の元にあった。
その少し前にとある官吏一家が取り潰しとなっていた。
要因の一つに官吏の妻が不貞を働いたという噂が囁かれているが、真偽は定かではない。
没収された財産の中に鬼灯の実ほどの大きさの翡翠石を贅沢にあしらった髪飾りもあった。
だが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。
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嫁いで一年と少しが経過し、子を宿す兆しが見えずに焦りを覚え始めていた頃。社交の場において他家のご内儀たちの懐妊報告が続いた。
「陽乃様はまだお若いのですから。焦りはお体に障りますわ」
「そうですよ。お綺麗でいらして羨ましい限りですわ。わたくしなんてすっかり、太ってしまって」
励ましの言葉をくれるご婦人方が、みな福々と幸せそうに見えた。
「また御義母様に嫌味を言われてしまったわ」
夫の母親に他のご内儀と比べられたと、檀弓に鬱憤を吐き出した。
「まあ……、奥様とどなたかを比べる事など意味がありませんのに」
それから間もなくして、幾人かの商家や官吏の内儀が立て続けに子流れした。
予後が悪く、もしくは心を病んで自らと、子の後を追うように命を落とした者もいて、待望の跡継ぎを失った機に階段を転がり落ちるかのごとく没落していった家もあった。
だが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。
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その後、陽乃は無事に跡継ぎとなる男児、続いて珠のような女児をもうけた。
陽乃の懐妊が判明するたび、檀弓のはしゃぎようは子どものようだった。
「旦那様や大奥様に、盛大なお祝いをしていただかなければなりませんね!」
と、懐妊、出産後のお披露目など、事あるごとに祝いの宴が開かれた。
出席者の中には、子や妻を亡くした者達も多く含まれていた。
だが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。
*
陽乃が嫁いで二年も経つ頃、葦火にはある飛語が流れ始めた。
州都から葦火に嫁入りした蜥蜴女が、葦火に毒の火種を撒き散らしている、と。
だが、その事実が陽乃の耳に入る事はなかった。
陽乃がそれらの事実に気がついたのは、罵詈雑言の石礫を浴びるためだけの名ばかり裁判で、有罪判決を受け、死刑を言い渡された時だった。
処刑を待つ間に過ごした、朽ちかけの土蔵に設けられた座敷牢。格子を挟んで檀弓と内と外で向き合った。
檀弓が格子の中に手を伸ばして陽乃の髪をとかし、手拭いで体を拭き、時に看守の目を盗んで菓子を渡すなど、処刑前日まで陽乃の世話を焼いた。
外側に向けられた観音開きの小窓は常に開け放たれていて、土蔵の内部は冬の冷気が吹き込む寒々しく土臭い空間だった。
「陽乃様は、何も悪くありません」
やはり檀弓の言葉は変わらなかったが、この時はじめて、陽乃は首を横に振った。
「何も知ろうとしなかった、私が悪いの……」
檀弓の黒い瞳が、おや、と小さな驚きに丸くなった。
「何を仰いますか。それより、何か欲しいものはございますか?」
「何も」と陽乃は俯いた。
「子どもたちと、檀弓と……静かに暮らせたら……それで」
小さな苦笑と共に、ひび割れた唇から溢れたのは、もう二度と叶うことはないと分かりきった「小さな我儘」だった。
「……陽乃様……」
それが、陽乃が処刑台に上がる前に、二人が交わした最後の会話だった。
処刑台に引き上げられた陽乃は、まるで温い泥水に浸かっているような感覚の中にいた。
刑台を囲む群衆の声は不透明に篭っていて、のっぺらぼうな案山子が風に揺れている。
何も感じず、恐怖も湧いてこなかった。
首切り台までのほんの数歩、白木のささくれが素足に刺さって痛みを感じた――瞬間、音の洪水が聴覚に流れ込んで、のっぺらぼう達が並ぶその中に、黒髪と黒い瞳を見つけた。
檀弓の黒い眼はいつも、陽乃を見ていた。




