ep. 46 黒い眼(9)
山道を抜ける前から、予兆はあった。
村へ戻る手前の三叉路へ辿り着くまでに、地を這う黒い影をいくつも目にした。蛇か鼠かと見紛ったが、それは黒い煙の筋だった。
「な、な、何ですかこれ!」
後ろから聞こえてくる戸惑いの声に振り向くと、しゃがみこんだ鹿花が必死に片手を振り回していた。数回振って、指先に張り付いた何かを振り払う。
「どうした」
「す、す、すみません! 煙を触ってみたら、手に張り付いてきてしまって」
「ただの煙ではない、か」
緩やかな高台で立ち止まり木々の隙間から村を見下ろすと、村の南側から山裾にかけてまるで浸水したかのように、薄黒い霞が漂っているように見えた。
「ぎゃぁああ!」
「きゃあああ!!」
眼下の村から阿鼻叫喚がこだまする。
鬱蒼と生い重なる木々に阻まれて、ここからでは様子が伺えない。
更に山道を下り三叉路付近まで辿り着くと、村の様子が見渡せるようになった。
遠目では黒い靄に見えていたものは黒い大蜥蜴の群れだった。目についた人間へ次々と襲いかかる蜥蜴を振り払い切り伏せながら、救援隊員たちは難民たちを村の北側へ必死に誘導している。
すでに幾人かの犠牲者が出ていて、畦道や瓦礫の上に遺体が点在していた。中には四肢を噛みちぎられた無惨な状態のものもある。
「どこから蜥蜴が……!」
青は前進しながら、木々の間に見え隠れする黒い靄の流れを目で追った。
靄はある一点に向かって徐々に色を濃くしている。陽乃の天幕を設置した場所の方面であるようだ。
「あれは……陽乃さん……?」
途中、景色が開けた見晴らしの良い場所で足を止める。
身を乗り出して目を凝らすと、蠢く黒繭の中心に、痩せた女の姿が見えた。
枯れた枝垂れ梅のように力なく体を揺らし、乾いた唇を大きく開いて何かを叫んでいる。落ち窪んだ眼窩の影から覗く瞳は大きく見開かれていて、飢えた獣のようにも見えた。
――どうして……なぜ……
――知らない……わたくしは、何も知らないのに……
しきりに「分からない」「知らない」「なぜ」を繰り返し、髪を振り乱す。その都度、纏いつく黒い靄が胎動するように蠢いて、大蜥蜴を次々と産み落とした。
「きゃっ!!」
青たちのすぐ眼下で、幼い子を抱いて逃げる若い女が足をもつれさせた。その背中へ数頭の大蜥蜴が飛びかかる。
駆け込んだ出流が左手の刀で蜥蜴を切り伏せ、右手で女を幼子ごと抱き抱えてその場から飛び退いた。
「っ…」
刀と左腕に纏わり付く黒靄を忌々《いまいま》しげに振り払い、出流は山道の入り口へ女の手を引く。
「そこの山道から登ってください。蓮華先生がいますから」
「は、はい……!」
戸惑う女は出流に背を押されるがまま、三叉路へ続く山道へ踏み入った。それを見送って、出流はまた混沌のさなかへ駆けて行く。
「蓮華一師!」
山道の三叉路まで辿り着くと、出流の言葉通り蓮華がいた。逃げ込んだ幼子連れの女を出迎え、西へ進むように指示を出している。
「シユウ君!」
女を見送って振り向いた蓮華が、斜面を上がり青たちのもとへ駆け寄った。
「ご無事で良かった」
「私は大丈夫」
蓮華は息を整えながら西側の山道を指差した。
「あの奥に、樵場があるの」
三叉路から西側へ向かった先に、子どもたちや数人の難民を避難させていているという。
「何が起きたのですか」
何が、で青は眼下の陽乃を指し示した。
「ごめんなさい、私が目を離していたばかりに……」
謝罪とともに蓮華が現状にいたるまでを証言する。
何がきっかけか陽乃の身分が明るみとなってしまい、難民たちが激昂して騒ぎになった。
責め立てられ、我が子の無惨な死を突きつけられた陽乃が悲鳴を上げたかと思うと、唐突に黒い靄が発生したという。
「たぶん、呪具ではないかしら」
「呪具……」
改めて青は木々の切れ間から、黒い靄を纏う陽乃の様子を覗き見た。両手を胸の前に重ねて、祈るように固く握り込んでいる。確かに何かを握りしめているようだ。
「引き剥がそうとしたのだけど、上士二人がかりでもダメだった」
「彼女が隠し持っていたのですか?」
蓮華は首を振る。
囚人服から平服に着替えさせた時に蓮華自身が身体検査を行ったが、装飾品はもちろんのこと、持ち物は何一つ携えていなかった。
呪具はどこからか持ち込まれた可能性を考える方が自然だ。
誰が、何のために――
「あの靄には気をつけて……気や体力を吸い取られてしまうみたい」
陽乃を止めようとした月岡上士が靄に巻き込まれて昏倒し、命に別条はなかったが戦線離脱を余儀なくされたという。
「……」
青は再び、斜面下の様子を覗き下ろした。
少し目を離した間にも、靄は生物の胎動のように蠢きながら、緩やかに闇の触手を伸ばしていた。
村を包み、山側へ上ってくるのも時間の問題かもしれない。
被害が村外、凪国内に影響を及ぼす前に、止めなければならない。
「鹿花佳師」
「は、はい!」
青に呼ばれ、鹿花は眼下を覗き込む体勢から、体を起こした。
「君は、蓮華一師について行動してくれ。確か、樵場から村の側面を通って街道へ出る道があったはずだ。そこから樵場にいる人々を避難させるんだ」
「あ……あ、地図……はいっ! 承知しました!」
鹿花は慌てて荷物から古地図を引っ張り出し、広げる。青の言う通り西側の樵場から、木材を運ぶためであろうか、街道へ続く側道が記されていた。
「紅鶴佳師」
続いて青は紅鶴に向き直る。
「何なりと」
変わらず彼は、静謐な佇まいで青の指示を待っていた。
「私は……アレと酷似した妖魔と遭遇した事がある」
今の陽乃は、かつて白兎ノ國で対峙した沼の妖魔を、彷彿とさせる。
憎悪を糧に呪力が増幅し、悲嘆と絶望に突き動かされていただけの思念体――それが沼の「邪神獣」だった。怨念を具現化し、気や体力を吸い取る黒い靄も共通している。
陽乃の絶望が呪具に共鳴し糧となって増幅、呪術の依代として沼の妖魔と近しい状態、ある意味で擬似的な妖と化しているとも言えた。
「呪具を奪い破壊すれば暴走を止める事ができるとは思うが、それが適わなければ……」
青の横顔を見つめていた鹿花が、ひゅ、と息を飲み込んだ。
対照的に蓮華は悟った無言を保っている。
「一師」
青の傍に立つ角頭巾の覆面下から、深い吐息が漏れた。
「小生が救援隊の指揮を任される立場であれば……血触媒を使ってでも陽乃殿を始末する判断をとるでしょう。これ以上の犠牲を出す前に」
次に角頭巾は、狼狽する難民たちを庇い立て、避難させながら蜥蜴駆除に難儀する救援隊を見やる。その横顔に、珍しく微量の苛立ちが浮かんだ。
今の「本職」の立場でない故の歯痒さを覚えているのであろう。
「……同意する」
青は肯いた。
陽乃を殺してでも、暴走を止める。
それが凪にとって最善であり、凪の法軍人としてとるべき対応だ。
「紅鶴佳師には、その手助けをして欲しい」
紅鶴からは「承知」と短い即答が返ってきた。




