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人質

作者: 志賀将治

「仁科洋平さんかい?」

『そうですが、あなたは?』

「誰だっていいだろう。それよりも、単刀直入に言う。あんたの奥さんを誘拐した」

 と、大場英明が言うと、受話器からは無言が流れた。

(恐らくショックで言葉を失っているんだろう)

 と、大場は得意気にほくそ笑んでから、

「無事に返してほしいだろう? それなら、身代金として二千万を用意しろ。それだけの金を用意し手に入れたら、無事にあんたのかわいい奥さんは返してやる。ただし、警察に通報したり妙な小細工をしたりするような気配があれば、容赦なく殺す。分かったか?」

『………』

「おい、分かったのか?」

『…好きにしてくれ』

「は?」

 今度は大場が言葉を失ってしまった。

 我に返った大場が慌ててなにか言おうとしたが、仁科は一方的に電話を切ってしまった。

 大場は受話器を耳に当てたままわけが分からず一瞬呆然としたが、すぐに気を改めると受話器を元に戻して電話ボックスから出た。

 年越しを目前に控えた時期に相応しい肌寒い風が吹いており、大場はコートの襟を立てながら公衆電話のそばで停車していた車に乗り込んだ。

「どうだった?」

 と、助手席に座っていた相棒の梶原敏夫が尋ねた。

「絶句してたよ」

「だろうね。なにせ、女房を誘拐されたわけだから」

「でも、妙なんだ」

「妙ってなにが?」

「無事に返してほしければ金を用意しろ、と言ったらなんて言ったと思う?」

「なんつったの?」

『好きにしてくれ』だとさ」

「そんなこと言ったのか」

「素っ気ない感じでな。どうやら冷え切った夫婦仲だったらしい」

「でも、それじゃあ金が手に入らないかもしれないじゃないか」

 と、梶原が不満そうに言った。

「俺に愚痴っても仕方ないだろ」

「だけどーー」

「まあ、少し待ってみよう。もしかすると気が変わって、唐突に女房の顔が恋しくなる可能性だって考えられるから、そのときにまた電話をする」

「果たして気が変わるかどうか…」

「変わってもらわなきゃ困る」

 と言ってから、大場と梶原は同時に後部座席を振り向いた。

 仁科邸の寝室で眠っていたところを大場に睡眠薬入りの注射を打たれ、車に運んでから両手首、両足首をロープできつく結ばれた仁科洋平の妻、仁科晴美が目を閉じたまま座席に横たわっていた。口には声を出せないよう猿ぐつわもされている。

「見た感じ、中々の美人だな」

 と、梶原が持っていた懐中電灯の明かりで眠っている晴美の顔を照らしながら言った。

「確かにな。それゆえに夫婦仲が悪いのかもしれない」

「どうして?」

「女っていうのはとにかく美意識に敏感な生き物だから、美人であればあるほど自信過剰な傾向に走るんだ。大方、美人なのを笠に着て日頃から夫の仁科洋平を見下していたんだろう。一方の仁科は、大手製薬会社社長の御曹司で好男子。決してブ男じゃないが、その境遇ゆえに昔から甘やかされてきただろう。必然的に、晴美の性格に振り回されながらも言い返せないから、自然と関係も悪くなったんだろう」

「だとしたら情けない男だ。…てことは、もし身代金が手に入らなかったら、俺がこの女を寝取っても問題はないってことだよな?」

「やめとけ。お前みたいな味気ないやつにはもったいない」

 と、大場は笑ってからエンジンをかけて車を発進させた。

 大場が運転する車は、郊外にある廃墟の民家に到着した。

 ここが二人のアジトだった。

 車を停めると、降りた梶原が後部座席の扉を開け晴美を引っ張り出した。

 大場も手を貸し、二人は眠っている晴美を抱えたままアジトへ入った。

「明かりを点けてくれ」

 と、大場が一人で晴美の体を抱えてから梶原に言った。

 梶原が天井に吊るされたャンプ用のランタンを灯すと、一気に薄暗かった部屋が明るくなった。

 梶原はもう一つ別のランタンに火を灯すと、次に隣部屋へ通じる扉を開けた。

 真っ暗だった室内をランタンの明かりが照らした。

 なにもない六畳ほどの室内の中心に木製のロッキングチェアと、そのそばに小さなテーブルが置かれているだけの寂しい部屋だった。

 大場が眠っている晴美を、ゆっくりロッキングチェアに座らせた。

 晴美を乗せたロッキングチェアが軋む音を立てながら、まるで赤子をあやすゆりかごのように前後に揺れた。

 大場が梶原にロープを手渡し、体を椅子に縛るよう命じた。万が一、目が覚めて脱出を図る可能性も視野に入れてである。

 面倒臭がる梶原に、

「とんだアバズレなら隙を見て逃げるかもしれないから用心しとかないとな」

 と、大場は諭した。

 梶原は渋々ながらロープで晴美の体をロッキングチェアに固定した。

 やがて、うなだれた晴美を座らせたままロッキングチェアが制止した。

 それを確認してから二人は部屋を出て、扉の鍵をかけた。

 大場はボロボロのソファに腰を下ろし、フーッと息を吐いた。常に緊張感が漂いつつも規模の小さな犯罪を実行してきた大場にとって今回の誘拐事件は初めての試みだったため、普段以上に神経を使う作業となった。仁科邸から晴美を運び出してから心臓の鼓動が激しく鳴っており、どうにかそれを鎮めようと努めた。

 それは相方の梶原も同じだった。

 梶原は興奮する気持ちを抑えるようにミネラルウォーターの水をグッと飲んだ。

 少し落ち着きを取り戻してから、

「それで、今から仁科に二度目の電話をするのか?」

 と、梶原が聞いた。

 大場は腕時計に目を落とした。

 時刻は午前零時を過ぎていた。

「いや、今はやめておこう。一度目の電話をしてからまだ一時間も経ってない。多分、まだ気が変わってはいないだろうから、夜が明けてからにしよう」

「本当に気が変わるかな?」

「なんだ、やっぱり金が欲しいのか? さっきまであの女をモノにする気満々だったじゃないか」

「俺にはもったいないって言ったのはあんただろ? それに、やっぱり金の方が魅力的だよ」

「明日の電話で気持ちが変化してるのを願うしかないな」

「ところで、夜が明ける前に女が目を覚ます可能性は?」

「それは心配ない。天下の仁科製薬が新開発した強力な液体型睡眠薬を注射したから、効果があれば八時間以上は眠ったままだろう」

 と、大場は持っていた注射器を弄りながら言った。

「よりによって旦那の父親が築き上げた会社の製品を使われて誘拐される羽目になるとは皮肉だな」

 と、梶原が笑ったときだった。

 突然、隣部屋からロッキングチェアが軋む音が聞こえ始めたのだ。

 それも、さっきより激しくである。

「新開発の製薬と謳うわりには効果が薄いらしい」

 と、梶原は苦笑を浮かべながら立ち上がると、扉をドンッと叩いた。

「静かにしてろ。騒いだって無駄なんだぜ」

 しかし、依然としてロッキングチェアの音は鳴り止まなかった。

「うるせえよ。真夜中だぞ? 薄っ気味悪い音立てるんじゃねえ」

「放っておけ。どうせ一時的だから、また眠っちまうさ」

「その薬、あんまりアテにならないから多分また起きるぜ」

「そしたらもう一度打てばいい。にしても、一時的とはいえ目を覚ますとはなんて女だ」

 と、大場は呆れた。

 梶原はあくまで新薬が見かけ倒しの不良品だと思っているらしいが、大場にはとてもそうとは思えなかった。というのも、大場も仁科製薬によって造られた薬を服用したことがあり、その効果は素直に認めているからだ。

 間もなくして音は鳴り止み、二人は眠った。

 翌朝、目が覚めた大場は支度をすると、近くの公衆電話まで歩いた。

 冬の肌寒い風を受けながらボックスに入った大場が電話をかけると、ややあってから「もしもし」という仁科の声が聞こえた。

「おはよう。俺を覚えてるね?」

『…もしかして、昨日の?』

「正解。あんたの女房を誘拐した男さ」

『………』

「昨日の反応から察するに、どうやらあんた方の夫婦仲は芳しくないらしいな。とはいえ、長年連れ添った間柄だ。昨日は思わずあんなことを言ってしまったんだろうが、実際は無事に戻って来てほしくて仕方がないんだろう?」

『………』

「もう一度こっちの要求を言う。現金で二千万だ。黒字経営が自慢のおたくの大会社なら、そんな金額なんてはした金だろう。それさえ手に入ったら、女房はちゃんとあんたの元に戻れる。ただし、警察には絶対に言うな。事を荒立てたくなければ、言われた通り要求した額だけを用意すればーー」

『好きにしてくれ』

「なに?」

 大場が眉をひそめた。

『その女なら、好きなようにしてくれて構わない』

 と、仁科の無感情な声が聞こえた。

 大場は内心でチッと舌打ちをした。時間が経てば自然と女房の顔を恋しがり、要求に応じる方向に向いてくれると期待していただけに、予想外な反応が返ってきたからだ。

 若干の戸惑いを抱いた大場は、

「おいおい、仁科さんよ。いい加減強がるのはよしなよ。それともなにか、あんたは女房の命よりも会社の損失を心配するような薄情な男だったのか? だとしたら、女は俺の相棒が寝取っちまうかもしれないぜ」

 と、蔑むような調子で言った。

 それが火に油を注いだのかどうかは定かではないが、

『何度も言わせるな。好きにしろ!』

 と、仁科は突然大声で言い捨てると、一方的に電話を切った。

 大場はグッと受話器を握り締めてから、乱暴に扉を開けて外へ出た。

 アジトへ戻ってからも腹立たしさが治まらなかった大場は、勢いよくテーブルを蹴った。

 その音に驚いた梶原が飛び起きた。

「ビックリさせるなよ」

「今、仁科のやつに電話をしたところだ」

「それで?」

 と、期待の眼差しを向ける梶原に大場は首を振った。

「あの男は完全に女房に愛想を尽かしてる」

「ホントに?」

「確かだ。あの様子だと完全に見放している。女房のことを『女』呼びしてたしな」

「呆れるなあ…。そんなに会社の利益が大事なのかよ」

「それもあるだろうが、女房の尻に敷かれ続けるうんざりした生活から抜け出すチャンスと思っているのかもしれないな。切迫した夫婦生活に嫌気が差してうっかり殺してしまうよりも、誘拐されて勝手にいなくなってくれた方が仁科としてはありがたいんだろう」

「そんな風に言われると、なんだか俺たちが仁科のためにひと肌脱いだみたいでなおさら腹立たしいよ」

「なんにせよ、このままじゃ金が手に入らない」

「どうする?」

 大場は腕を組んで考えた。

 さっきの電話での反応を聞いた限り、仁科が妻を取り戻すのに金を支払う意思に傾くとは到底思えない。それが、会社の損失に繋がることから生じた躊躇いなのか、単に切迫した夫婦生活にピリオドを打つ好機と捉えているからなのか定かではないが、どちらにせよ仁科の気持ちに変化が表れる期待はもはや抱かない方がいいだろう。

(なにか別の方法で仁科に金を出させられればいいんだが…)

 大場がうなりながら考えているときだった。

 ギィ…ギィ…。

 ロッキングチェアが軋む音が聞こえた。

 目を覚ました仁科晴美が再び拘束を解こうともがき始めたらしい。

「このまま仁科が取引に応じないなら、いつまでも女をここに置いておいても仕方がないんじゃないのか?」

 と、梶原が隣部屋へ通じる扉を見つめながら言った。

「当然だ」

「どうするんだよ?」

 と、梶原がまた言った。

「だから、仁科に金を出させる別の方法をさっきから必死に考えてんだよ」

「早いとこなにか考えてくれよ。このままじゃ金を受け取る前に、人質用の食費だけがどんどんかさんじまう」

「ゴタゴタ言う暇があるんならお前もなにか考えろよ」

 と、大場もイライラした様子で言い返した。

「…こうなったら、仁科個人じゃなくてあいつの会社に的を絞ったらどうだろう?」

「仁科製薬にか?」

「そうだよ。あれだけの大企業だから、なにか後ろ暗い秘密の一つや二つ握ってるかもしれない」

「それをネタに強請りをするって魂胆か? だったらやめておけ、無駄骨になるだけだ」

「なんでさ?」

「今回開発された新薬の成果についてははなはだ疑問だが、あそこが製造する薬は昔から信頼性が高い上に、会社もクリーンな経営で知られている。仁科洋平の父親が社長を引き継いだ三代目にいたる今までダーティーな話を耳にしたことがない。探ったって、どうせ強請れるようなネタなんて出やしないさ」

「調べてみなきゃ分からないだろ? ホコリってのは叩かなきゃ出ないんだから。行こうぜ」

「事前に調べたから断言出来るんだ。俺は行かんからな」

「…だったらいいよ。あんたはここで待っててくれ。俺一人で仁科製薬について色々と調査してくるからさ」

 と、梶原は言うやいなや早々とアジトを出て行った。

 車の発進音を聞いてから大場は苦笑を浮かべた。

 大場英明と梶原敏夫の二人は同じ刑務所で知り合った仲で、獄中でも時折捕まる以前の武勇伝を語り合っていた。

 常にスリルと達成感を生き甲斐とする大場は、出所を目前に控えたときにも新たな犯罪計画を地道に練っていた。その一方で、梶原はまともな人間となって社会に貢献しようと意気込んでいた。

 そんな梶原の心を惑わし、再び犯罪の世界に足を踏み入れさせるきっかけを作ったのは大場だった。

 犯罪者としての梶原の腕を認めた大場が、その能力を充分に活かさないのは宝の持ち腐れだと彼をそそのかしたのだ。

 梶原はまんまと誘惑に負け、社会に対する忠誠的な心意気を簡単に捨ててしまった。

 以降、梶原は大場にとって頼もしい相棒となった。

(先輩としてもなんとかして金は手に入れてやる)

 と、大場は強く決心した。

 そのとき、また隣部屋からあの音がした。

 ギィ…ギィ…。

 音は断続的に続いた。

 ギィィィ…ギィィィ…。

 拘束を解こうと必死にもがいているのだろう、次第に音は大きくなってきた。

 ロッキングチェアの揺れる音はどちらかというと心地好い音色のはずなのだが、機嫌が悪いせいもあってか今の大場にはひどく耳障りに聞こえた。

 大場は扉のそばまで行くと、

「必死に頑張っているところ申し訳ないんだが、あんたの夫は身代金の支払いを拒絶したぞ。それどころか、戻って来るのを迷惑がっているような口振りだった。残念ながら、あんたは仁科洋平に見捨てられたんだよ」

 と、大きな声で言った。

 途端に、ロッキングチェアの軋む音が聞こえなくなった。

(応えたようだな)

 大場はそう思うと、ゆっくりとソファに身をゆだねた。

 それから大場は、仁科晴美に同情心を抱いた。

 冷静に考えてみれば、夫婦仲が悪いがゆえに夫の仁科洋平が身代金の支払いをする気がないというのは、あくまで大場の推測であって事実と判明したわけではないのだ。

 仮にこの説が間違っていた場合、仁科は非情にも誘拐された妻の命よりも、自身(厳密には会社の金)を優先したことになる。

 大場には結婚歴がない。独り身の方が気楽だし、なにより道徳に外れた所業を生き甲斐にする彼にとって、家庭を持つのは危険極まりないのだ。

 独り身だった男が所帯を持ったとき、どういう心構えで家族を支えていく気持ちになるのかなど大場は知るよしもなかったが、少なくとも妻子を優先的に考え、安定した家庭を維持するように意気込むものだと思っていた。

(そう考えると、仁科晴美はとんでもない男を夫に迎えてしまったな)

 無論、大場が予想したように晴美にも問題がある可能性は充分考えられる。

 結婚歴はない大場だが、昔から女遊びは激しかった。

 空き巣や強盗で稼いだ金を使って豪遊しては、その手の店で見付けた好みの女性と何度も何度も楽しいひと時を過ごしてきた。

 そんな大場が確信を持って言えることが一つだけあった。

「男の沙汰も金次第」と。

 とある水商売の店で大場は、どう見てもうだつの上がらない貧相な男がホステスたちにちやほやされている現場を見たことがあった。

 あの男の何処に皆惹かれているのだろうか、と大場は首を傾げたが、間もなくしてその理由を知った。

 男が懐から出した長財布の中に、びっしりと一万円札の束が押し込まれているのが遠目から見ていた大場にも確認が出来たからだ。例え中身が見えなかったとしても、パンパンに膨らんだ長財布を見ただけでおよそ想像は付いたのだが。

 男が長財布を出した途端、ホステスたちは一斉にワーッと騒ぎ出し、独占欲丸出しで男の取り合いを始めた。男は鼻の下を伸ばしながらだらしのない顔をしていた。

 その様子を見た瞬間から、大場の女性に対する見方が決定的なものとなった。顔は悪く稼ぎが悪くとも、優しく思いやりのある性格で惹かれる女性もいるのだというのは、所詮理想の中だけの話だというのを。

 そう思った途端、大場の心に変化が訪れた。

 寄りかかっていたホステスを押し退け、店を後にしたのだ。

 背後からホステスたちが聞こえよがしにブーイングを浴びせてきたため、大場はことさらに自身が抱いた考えが確かなことだと確信を得た。

 それ以降、大場は女遊びを絶った。純粋な気持ちを一切持たず、金欲しさに表面的な親切心を繕うホステスたちの狡猾な姿が見るに堪えなかったからだ。一時的に、そんな彼女たちと楽しんでいた自分に対して嫌気が差したと言ってもいい。

(仁科晴美もその部類の女だった可能性はある)

 仁科夫妻の夫婦仲が悪い原因が、仁科晴美の横柄な態度にあると大場が推測するきっかけになったのも、以上の出来事を経験したからだった。

(なんであれ、簡単な誘拐のつもりだったのに面倒事まで一緒になっちまったな)

 と、大場は思いながらタバコの火を点けた。

 吸い終えたタバコが灰皿を埋め尽くした辺りになってから、こちらに近付いてくる車のエンジン音に気が付き、大場は腕時計を見た。

 時刻は午後零時半。梶原がアジトを絶って二時間が経過していた。

 エンジン音が止み、梶原が入って来た。

「で、なにか掴めたのか?」

 と、大場は言おうとしたが、梶原の様子を見て違う言葉が口から洩れた。

「どうしたんだ?」

 梶原はしきりにボリボリと髪を掻きながら、

「あの女…」

「晴美がどうした?」

 と、大場が言うと梶原が激しく首を左右に振った。

「なんなんだ、ハッキリ言え」

「…あの女は仁科晴美じゃない」

「なにぃ?」

「さっき、昼過ぎに会社から出て来た仁科を監視していたら、一台の車があいつを拾ったんだ。運転席に女が乗っていて、その辺の社員を捕まえて誰かと聞いてみたら、仁科の女房の晴美だって教えてくれたんだ」

「なんだとっ。…じゃあ、あそこにいる女は誰なんだ?」

 と、大場が困惑顔で隣部屋を指差した。

「そんなこと知らないよ。少なくとも俺たちは仁科晴美と間違えて別の女を拉致しちゃったってことだよ」

「なんてこった…。俺はてっきり仁科の女房だと思ったのに。ひょっとすると、ヤツの愛人かもしれないな」

「どうして運ぶとき確認しなかったんだよ」

 と、梶原が不機嫌そうに咎めた。

「仕方ないだろ。俺は晴美の顔を知らなかったんだから。お前こそ、車の中で顔を確認したときなんで気付かなかった?」

 大場も顔をしかめて梶原に詰め寄った。

「そんなこと言ったって、女の顔って皆一緒にしか見えないんだよ。誘拐したのはあんたなんだから、俺を責められても困るよ」

 と、気圧された梶原が後退った。

 確かに梶原を責めるのはお門違いだった。寝室で眠っていた女を仁科晴美と誤解して睡眠薬を注射し、邸宅から連れ出したのは大場自身なのだから。

 だが、これで仁科のあの妙な態度が腑に落ちた気がした。

 大場が連れ去った女性は、恐らく仁科の愛人だろう。きっと、本物の仁科晴美が不在のときを見計らい、仁科は愛人女性を堂々と邸宅に招き入れたに違いない。

 先に眠気を催した女が寝室に移動し、仁科も少しして向かうつもりだった。

 ところが、そのとき絶妙なタイミングで大場が仁科邸に侵入し、寝室に眠っていた愛人の女を液体型睡眠薬で眠らせ、誘拐した。

 寝室に入った仁科は突然女が消えて慌てただろうが、露骨に騒ぐことは出来なかった。何故なら、一人の女が忽然と姿を消したと通報すれば、自然と妻の晴美に不倫の事実がバレてしまうからだ。

 そこで仁科は自らの保身を守るため、誘拐された愛人を見捨てることにしたのだろう。

 となると、大場が身代金を要求しても拒否するのは当然なのだ。

 このまま要求に応じず無視し続ければ、誘拐犯たちは怒りに任せて人質を殺し何処かへ埋めてくれるかもしれない、と仁科は期待している可能性は充分ある。

「…むしろ好都合かもしれないぞ」

 と、顎に手をやりながら大場はつぶやいた。

「どうして?」

「仁科にとって、女房の晴美に愛人の存在がバレるのは痛手ってことになる。だったら、愛人の存在をネタに仁科を強請ればいいんだ。仁科製薬は大手な上にクリーンな事業をモットーにしているわけだから、御曹司の不倫となるとこぞってメディアは取り上げ、大袈裟に事を荒立てるだろう。『濁りのない大企業から叩いても出ないはずの埃が出た!』って感じでね。そうなったら、不祥事の張本人である仁科洋平は一貫の終わりだ」

「なるほど、そりゃあいいな。きっと、仁科のやつも俺たちの要求を呑まざるを得ないぜ」

 と、梶原が上機嫌に言った。

 早速、大場は仁科に連絡を入れることにした。晴美と昼を摂っただけなら、時間的にもう会社に戻っているかもしれないと思ったからだ。

 携帯電話で仁科の携帯番号を入力する。誘拐を企てたのは初めてだったが、携帯電話で相手に連絡を入れるのは危険を伴うというのを大場は理解していた。が、今度の一件には複雑な事情が絡んでいると分かった大場は、仁科が警察に通報しないのを見越して携帯で連絡を入れることにしたのだ。

 仁科はすぐに出た。

「驚いたよ。まさか、あんたの女房と間違えて別の女を誘拐してしまうなんてね」

『………!』

 無言だったが、驚いている様子は感じられた。

「道理で、あんたが平然と見捨てるわけだよ。きっと、俺たちが連れ去ったのは愛人で、本物の仁科晴美が留守なのをいいことに逢瀬を楽しんでいたんだろう。ところが、タイミング悪く俺が眠っているその女を誘拐してしまった。で、あんたは晴美に愛人がいた事実が暴かれるのを恐れ、愛人を見捨てることにした。あんた、正真正銘の人でなしだな」

『………』

「ほら、言ってみろよ。『好きにしろ』だっけ? あんたの口癖だろう」

『………』

「言えないのは分かってる。御曹司が愛人と不倫を楽しんでいたなんて知られちゃあ、大企業を築き上げた父親にとっては大打撃だろうからな。もう一度要求を言う。だが、あんたの薄情な態度を赤点と見なして額を上げる。三千万だ、三千万を用意しろ」

『………』

「おい、聞いてるのか?」

『………』

「素直に現実を受け止めろよ。美人の愛人を抱き込んで楽しんでいたくせに、いざとなったら『はい、どーぞ』と切り捨てる身勝手なあんたによって起きた問題だぜ。その反省の意味も込めて、潔く金を用意したらどうなんだ。え?」

 と、沈黙を貫く相手に大場はまくし立てた。

 少しの間があってから、仁科の声が受話器越しから聞こえた。

『好きにしてくれ』

 大場は唖然とした。


      ♤♡♢♧


「どうなってるんだよ」

 電話の内容を聞いた梶原が大場に詰め寄った。

「知るか。何度も言うが、俺に食ってかかっても仕方がないだろ」

「だけど、おかしいじゃないか。あんたの言う通り、もしも仁科が愛人の存在を晴美に暴露されるのを恐れているんなら、素直に要求通り金を支払うはずじゃないか。それなのに、どうしてやつはまた同じセリフを吐いたんだよっ」

 と、梶原は責める相手が間違っているのも承知の上で、しきりに大場に噛み付いた。

 大場にも皆目見当が付かなかった。百パーセントではないにしても、ほぼ高い確率で仁科がこちらの要求を呑むと読んでいたのだ。

 梶原は一気にやる気を無くしたのか、力なくオンボロの椅子に座り込んだ。

 大場も言葉を発する気力を失ったらしく、取り出したタバコに火を灯すと、おもむろにソファへと身をゆだねた。

 それからは、時間だけが経過した。普段なら、別の仕事に取りかかろうと意気込むところだが、今回ばかりはそんな気も湧かず、大場と梶原は薄暗くなる廃墟と化した民家の中でぼんやりと時を過ごした。

 午後七時を迎えた。

 ソファに寝そべっていた大場が、寝転がったまま大きく体を伸ばした。全てのタバコを吸い終えてからいつの間にか眠ってしまったらしい。

 すぐそばでは、梶原がスマホを横にしてなにかを見ていた。淡々と聞こえるアナウンサーの声から察するに、ニュースを見ているらしい。

「起きたか?」

 と、梶原がスマホに目をやったまま言った。

「女はどうした?」

「あんたが寝てるとき、またロッキングチェアの動く音がしていたから、相変わらずもがいてたみたいだぜ」

「したたかな女だ」

「それより、どうするつもりだよ。もう仁科から金をふんだくるのは無理っぽいし、いつまでもここに監禁させておく必要もないだろ?」

「幸い、今のところ顔は見られていないから、殺すのはよそう。もう一度、注射を打って眠らせてから車で運んで何処かへ放り出してこよう」

 と言い、大場はテーブルに乗っていた注射器を手に取った。中には昨夜仁科の愛人(と思われる女)に打った睡眠薬が微量に残っていた。

「お前が打ってこい」

 と、大場が注射器を梶原に差し出した。

「なんで俺が?」

「俺はこの辺で女を捨てられる場所を調べるからだよ。早くしろ」

「ちぇっ」

 梶原は舌打ちすると、淡々とニュースを伝えているスマホをテーブルに置いて、注射器を受け取った。それから、ランタンに火を灯し隣部屋へ入った。

 大場が地図で適当な場所を調べているとき、突然梶原が大声で大場の名前を呼んだ。

 ギョッとした大場が驚いて部屋に入った。

 ロッキングチェアに座ったままうな垂れている仁科晴美のニセモノの女のそばで、梶原が身を低くして硬直していた。

「死んでる…」

 梶原が声を震わせながら言った。

 大場は真っ先に脈を診た。

 確かに事切れていた。

「…ホントだ。でもまあ、死んじまったものは仕方がない」

「どうするんだよ。俺たち…人を殺しちまったよ…」

 と、梶原が手をブルブルと震わせた。持っていた注射器が音を立てて落ちた。

 怯えるのも仕方がないな、と大場は思った。梶原も自分同様、空き巣や強盗傷害といった悪事に手を染めてきたが、殺人は一度も犯していなかったからだ。しかも、予想もしない形で亡くなってしまったため、余計に梶原はショックを受けているのだろう。

 一方の大場も人を殺めてしまったのは初めてのことだったが、持ち前のタフな精神力によりそこまでショックは受けなかった。

 大場は梶原の頬を叩き、

「しっかりしろ。こうなっちゃ、もうどうしようもない。とにかく、早いとこ女の死体をどうにかしないとヤバイ。外へ行って、車を用意してきてくれ」

「わ、分かった…」

 ランタンを持つ手と足を震わせながら、梶原は部屋を出て行った。

 大場も部屋を出ると、もう一度地図に目を通した。もはや、死体遺棄に相応しい場所を探さざるを得ない。

 幸い、この辺りは郊外ゆえに普段から行き来する人が少ない。小さな丘もあるから、死体を埋める場所としては絶好の環境だった。

 どの辺りに埋めるべきか…と、地図に指を走らせる大場。

 その手がピタリと止まった。

 大場の意識が目の前の地図ではなく、背後から聞こえるアナウンサーの声に向けられた。

 梶原が置いたままにしていたスマホからは、絶えずニュースが流れている。

 大場はスマホを手に取り、ニュースに釘付けになった。

 次第に、大場の顔から血の気が失せた。

 車の用意を済ませた梶原が戻ってきたが、大場の異変に気付き横からスマホの画面を覗き込んだ。

 彼もまた、愕然とした。

 ニュースは「速報」と称し、驚きの内容を伝えていた。


〈本日午後三時頃、T県R市にある邸宅の一室にて、仁科洋平容疑者(三五)が、妻である仁科晴美さん殺害未遂の容疑で逮捕されました。逮捕された仁科容疑者は大手製薬会社『仁科製薬』の社長である仁科洋一郎さんの息子で、次期社長としての期待を抱かれつつ役員として業務に専念していました。

 仁科容疑者は今日の午後二時過ぎ、突然会社を早退後に自宅へ帰宅し、それから間もなくして妻の晴美さんを殺害しようとしたと見られています。幸いにも、必死の抵抗を試みた晴美さんが急いで警察にかけつけたことにより未遂に終わりました。晴美さんは軽い怪我を負った模様ですが、命に別状はありません。しかし、襲われた際の激しいショックにより、精神的なケアが必要と見込まれています。仁科容疑者は犯行前に晴美さんと昼食を摂っておりーー〉


 これだけでも、大場と梶原にとっては衝撃的なニュースなのだが、特に二人が驚いた…というよりゾッとしたのは、この後の内容だった。


〈警察が仁科容疑者の部屋を家宅捜索したところ、鍵の掛けられた引き出しからおびただしい数の女性の遺体を映した写真が見付かったとのことです。映っているのが全て女性の遺体ということから、専門家は仁科容疑者に死体愛好の傾向が見られるという結論を下しました。仁科容疑者が取り調べの際、『動かなくなった女のそばにいるときの安心感が忘れられなかった。殺した女が連れ去られてしまい、無性に寂しさを覚えたので妻を殺し、彼女の死体をそばに置いておきたくなった。だから、殺そうとした』と供述したこともあり、専門家の唱えた死体愛好癖に信憑性が高まりました。

 その後の仁科容疑者の自供により、遺体のまま連れ去られた女性が仁科容疑者の愛人、富永小百合さん(三一)と判明。富永さんの遺体を誰が、そしてどのような目的で盗む経緯にいたったのか、警察は調査を続ける方針です〉


「それじゃあ、俺たちが連れてきたときからあの富永小百合って女は…」

「死んでたんだ」

 大場がスマホを持つ手を震わせながら言った。

 仁科邸に忍び込んだ大場は、寝室で眠っていた富永小百合に睡眠薬入りの注射を打った。

 超強力を謳う新薬の効果で、大場は相手がぐっすり眠りに落ちたと思い、運んだ。

 だが、そのときから既に仁科晴美と勘違いされた富永小百合は動かぬ死体となっており、仁科洋平の愛玩具と化していたのだ。

 その事実が判明しただけでも、充分二人が受けたショックは大きい。

 だが、それ以上にーー。

 ギィ…ギィ…。

 梶原が女のような声を上げた。

 大場の額から恐怖による汗が流れた。

 大場たちが誘拐したときから幾度も聞いたロッキングチェアの揺れる音が、暗闇に覆われた部屋から不気味な音色を響かせていた。

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