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翌日、優太は再び窮地に立たされていた。
校門を抜けたところで学校のチャイムが鳴る。おそらく朝のホームルームの予備チャイムだろう。
「あ、おはよー」
後ろから不意に話しかけられ、優太は飛び上がるほど驚いた。振り返ると、同じように驚いた表情をしている千春が立っていた。
「な、なんだ。ちーちゃんか……」
「ごめんね。驚かせちゃった?」
「あいや、大丈夫。こっちこそごめんね?」
優太は胸をなでおろしたあと、千春と一緒に教室へ向かった。
昨夜の口論のあと、奏恵は一言も発していない。どれだけ優太が話しかけても返事はなかった。
昨日の記憶を頼りに、身支度、登校まではなんとかできた。しかし、奏恵の友人関係は昨日と変わらずほぼ知らないままだった。
「今日の四時限目、体育あるのかー」千春は携帯電話の画面を見ながら言った。「なーちゃんでる?」
「えっと、ううん。私、今日あんまり体調よくないから」
「そっかぁ。私も休もうかなぁ」
そんな他愛もない話をしているうちに二人は教室に着いた。優太は改めて気を引き締める。
「あ。ナギおはよー」
教室に入ると、すぐに侑子が話しかけてきた。
「うん。おはよー」
優太は軽く会釈をして、足早に奏恵の席に着いた。すぐにチャイムが鳴り、担任の教師が教室に入ってくる。
教師が事務的な情報を伝えている間、優太は今日の立ち回りについて思案を巡らせていた。
何よりもまず警戒するべきなのは侑子だ。一番有効な手は会敵しないことだが、侑子は奏恵のことを気に入っているのだろう。目が合うとすぐ親しげに話しかけてくるあたり、少なくとも悪意はないように見える。
奏恵は侑子のことを目聡いと評価しているようだが、それは印象についてだけのようで、奏恵が侑子に対してどう思っているかという部分に関しては鈍感らしい。
ただ、単純に奏恵がそういった感情を隠すのが上手なだけかもしれない、と考えたところで、優太は思考が脱線したことに気付く。とりあえず侑子に関しては、昨日のように千春と一緒に過ごしていれば大丈夫だろうと結論づけた。
次に考えなければいけないのは、奏恵の声が聞こえなくなってしまったこと。体を乗っ取られ、もともと居た人格がだんだんなくなっていくというのはSFやファンタジーものの常套だが、本当にそんなことが起こりうるのだろうか。いや、そもそも女子高生に魂が宿ったこと自体が、起こりえないことだろう。この先なにが起きてもおかしくはない。
ただ、現状で間違いないのは、昨日の喧嘩がトリガーになったことだろう。感情が高ぶるとコントロールがきかなくなるのでは。と思ったところで優太は首を降る。お互いそれまでにある程度の感情の高ぶりはあったはずだ。
となると、その瞬間に初めて起こったことが原因の可能性が高い。
優太は自分の胸に手をあてた。
あの瞬間、自分は、そして奏恵は何を思ったのだろう。
音楽に対するスタンス、思いの違い……。
拒否……?
優太は思わず立ち上がった。すぐに周囲の注目を集めてしまったことに気付く。
「凪咲。どうした?」教師が動揺した様子で尋ねた。
「あ、すみません……えっと。急に約束事を思いだしちゃって……」
優太は必死に頭を下げて座った。侑子や周りの生徒から向けられる好奇な目に居心地の悪さを覚える。
「まぁ話は以上だ。あと凪咲。まぁ他もそうだが、二年生ってのはどうしても気が緩むもんだ。来年の受験を見据えて行動するように」
気のない生徒たちの返事を聞いたあと、教師は教室から出て行った。教室になんとなく張り詰めていた緊張の糸が切れ、同時に全員が思い思いのことを始める。
「ねぇ、ナギ」
千春のもとへ行こうと立ち上がる優太を、すかさず侑子が呼びとめる。
「ああ。石神さん。どしたの?」優太は動揺を悟られないように平静を装った。
「どしたのって、こっちのセリフ」侑子は笑いながら優太の肩を叩いた。「ナギがあんなに目立つようなことするの、珍しくない?」
「そうかな」優太は侑子から目をそらす。その先に千春がいたが、千春は授業の準備を始めているようで、助けを呼べそうにない。
「あ、そう聞いてよナギ」侑子は手を合わせた。「先週に話したアレあったじゃん?」
「せ、先週?」
優太は頭をフル回転させ、なんとか会話を繋いでいく。
どうやら先週、侑子が好きなアーティストのライブ抽選があったらしく、昨日その結果がでたようだった。
「もー全部ダメ。第三希望なんて地方だったのにそれも外れた」
「そっか、残念だね……」
「この間のテストも点数ぐずぐずだったし、最近良いことないわ、本当に」
優太はがっくりとうなだれる侑子を見て、良いことがないのはこっちのセリフだと言いたくなったが、なんとか別の言葉を絞り出す。
「まぁ、また次に応募すれば当たるかもしれないから、ね?」
仕方がないと分かっていながら、優太は自分の状況を振り返る。自分にはもう、次はない。あるのは、奏恵としての人生だけ。
そこで、優太の頭にある考えがよぎる。
もし、このまま奏恵がいなくなったら、自分は奏恵として生きていくことになるのだろうか。
「……ナギ、やっぱりなんか変だよ」侑子は怪訝そうな表情で優太を見ていた。
「あ、いや、そんなことないと思うけど」
優太は苦笑いをして誤魔化した。
「本当にぃ? 最近ナギ、変だよ。なんか、人が変わったみたい」
「え、そんなにかなぁ」
侑子は何度か優太の顔を覗きこもうとする。優太は侑子の視線を避けるように顔をそむけた。
いい加減、この状況から抜け出したい。
そもそも、なぜ奏恵の体に自分が入ってしまったのか。振り回されながらやっと状況を飲み込めた先で見た、憔悴しきった暁人の姿。そして奏恵に言われた、今までの創作活動を揺るがす言葉たち。どうにかしなくてはならないことばかり。しかし、どうしていいか分かららない。
まるで自分が車に轢かれる前、「バンドを抜ける」と鏡の前の自分に言った時のような心境だった。
優太の精神は、限界に近づきつつあった。
「ナギ、もしかして何か悩みでもあるの?」
「悩み?」
今すぐ全てを吐き出してしまいたい。しかし、それをしてしまったら奏恵が今まで守ってきたものを失くしてしまうことになる。
「私たち友達じゃん。何でも言ってよ」
「いや、本当になんでもないから」
語気が強くなってしまったことに気付き、優太は咳払いをした。もしこの場に奏恵がいたら、『人の気も知らないで』と侑子に向かって悪態をついていたことだろう。
「そっか。まぁ、ナギはいつも落ち着いてて、あんまり悩みとかなさそうだもんねぇ」
「うん。そうなの、かな……?」
「あ。もしかしてあれ?」侑子は優太を指差した。「悩みとか辛いことは音楽にのせるってやつでしょ」
「は?」
「よくアーティストが言ってんじゃん。悲しみは曲に込めました、とか、想いは曲に込めました。とか。ナギもそんな感じ?」
侑子の言葉を聞いた途端、優太は自分でも分かるくらい頭に血がのぼっていった。
「ナギはいいよね。悩みを発散できるところがあって。私も音楽やってみようかな」
「馬鹿にすんな!」
気がつくと、優太は叫んでいた。
「悩みを発散? そんな簡単にできるかよ!」優太は立ち上がる。「音楽のことで悩んでばっかりだ! どうすればこれで食っていけんのかとか、どうすれば伝わんのかとか、でも、それでも譲りたくないものがあって、それまで捧げたら本当にやる意味なんかないって思って……」
「ナ、ナギ……?」
「奏恵ちゃんだって、ずっと人の目を気にしてて、ギャップで悩み続けて……そりゃ、自分で選択したことでもある。だから悩むのは仕方ないけど……」
優太は言葉を詰まらせた。それをきっかけに少しずつ冷静さを取り戻し始めていた。
「音楽は、そんな気楽なものじゃない。なにかを表現しないと溢れちゃうやつらが、溢れてしまったものをなんとか表現してて……だから、そんな奴らが何も考えてないみたいな、そんな言い方が……」
優太は自分の頬に涙が伝っていることに気付いた。
「……ごめん。抑えられなかった」
涙を拭ったあと、脇目も振らず優太は教室を出た。