妻の全身鏡
2021年 妻の誕生日に鏡を贈った時のお話
女性は鏡が好きらしい。
ところが結婚して引っ越した新居には、洗面台と風呂場にそれぞれ1枚の鏡があるばかりで、妻が持ってきた家財道具といえば「本棚」「勉強机」「ベッド」「テレビ」と、鏡台のようなものはなかったのだった。
そんな妻は新しい服を買うと夜の窓ガラスでファッションショーをする。出かける時もマンションのエントランスにあるガラスに自分の姿を映して楽しんでいる。
「私の全身鏡」
そう言って笑う妻を見ると、なんだか自分が鏡も買ってやれない甲斐性なしのように思えて、無性に買ってやりたくなる。だが、出かけた時にさりげなく鏡コーナーに誘導しても「鏡台はいらないなぁ」なんて言う。確かにリビングに置くには大きすぎるし、だからといって自分の部屋で一人きりでするメイクは寂しいらしい。
その年は新型コロナウイルス感染症が蔓延し、人々は行動を自粛して家にこもっていた。
妻が趣味とするバレエ教室もしばらく休んだ後、リモートで行われることになった。家の中でレッスンをする妻を見てふと思う。バレエスタジオのように壁に大きな鏡を貼り付けられないだろうか。
賃貸マンションでは壁に穴をあけることはできないが、調べると突っ張り棒式の大型鏡があるらしい。大きな鏡はそこそこの値段がしたが構うものか、一番大きなやつを買ってやれ。来年の誕生日プレゼントは決まった。
翌年の誕生日、レストランでディナーを楽しみ、プレゼントの花束を渡した後に言う。
「実はもう一つプレゼントがあるんだ」
「えっ、なに!?」
「届いてからのお楽しみ」
妻は「なに?なに?服かなぁ、靴かなぁ」なんて嬉しそうだ。楽しみにしてくれるのはいいけど、あんまりハードルを上げないでくれよ、ただの鏡なんだから。
そして、やたらと大きな段ボールに包まれて全身鏡がやってきた。なに?なに?と言っていた妻も段ボールに印刷される「鏡」の文字に気付いたようだ。
「もしかして鏡なの!?」
段ボールを開封し、リビングの壁に設置する。突っ張りすぎて天井板がバリっと剥がれたがご愛敬。鏡に映る妻はうれしそうだ。よかった、喜んでもらえて。その晩は妻のファッションショーだった。
翌日、出かける時にエントランスのガラスに自分を映して妻が言う。
「私の全身鏡」
おいおい、君の全身鏡は家にあるじゃないか。
たとえ鏡を買っても妻は変わらない。それはとても好ましいことに思えたのだった。