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海は招く

作者: くろ飛行機

この作品は、拙作「エボルブルスの瞳ー特殊事案対策課特命係傀異譚ー」と同じ世界観になっております。エボルブルスの瞳を読んでいただくと、より楽しめる内容となっておりますので、よろしくお願いいたします。



 ――――――光が見える。


 暗闇の中、大きな青白い光が目の前で輝いている。それはとても優しく、温かい。

 手を伸ばすと、ふわりとどこかへ逃げていく。

 追いかけても、追いかけても決して届かない。


 ――――――待って、置いていかないで。この暗闇に、置いてけぼりにしないで……。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「はあ……はあ……」


 またあの夢だ、と北野せつなは思った。

 暗闇の中、光を無我夢中で追いかけるという奇妙な夢だった。このところ、3日に1回ほどのペースで見る。

 追いかけていけば追いかけていくほど、夢の中で得体のしれない恐怖が増幅される。まるで自分がポツリと世界に取り残されてしまう―――そんな気持ちに支配され、飛び起きる。これの繰り返しだった。


 せつなは時計の時刻を確認する。5時半過ぎだ。いつも起きる時間より2時間以上早い。


「まじで最悪……」


 2度寝しようにも、ずいぶんと眼が冴えてしまった。せつなはあきらめて、ベッドから降りる。

 そんなせつなの隣で、男性が姿勢よく寝ていた。すー、すーと静かに聞こえる寝息を聞いて、せつなは安心感を抱いた。


 寝汗で濡れたパジャマから、仕事用の白シャツに着替え、朝食の準備に取り掛かる。


 卵とハムをフライパンで焼く準備をし、サラダボウルに野菜を盛り付ける。

 

 純白のテーブルクロスが引かれた食卓に、食器を並べていると、眠そうに目をこすりながら男性がやってきた。

 IH付きのキッチンをはさんだ1LDKのリビングは、小さなソファと机、液晶テレビが置かれているだけのシンプルなものだった。


「おはよう、晴樹」

「うん。おはよう」


 せつなはパジャマ姿の晴樹が顔を洗っている間に、焼けたハムエッグを白い皿にのせる。サラダにドレッシングをかけ、インスタントのコーンスープをカップに注ぎ、ご飯をつぐ。


「毎度のことだけど、豪華に用意してくれてありがとう」

「朝ご飯は、きっちり食べたほうがいいからね」


 食卓に座った晴樹は、ハムエッグに醤油をかけ、ゆっくりと箸を持ち、手を合わせるとスープから飲み始める。

 半熟の黄身を箸で割り、ハムにつけて食べた晴樹は、にっこりと笑った。


「半熟でおいしいよ」


 その言葉にせつなは、作った甲斐があったと喜びをかみしめる。そして、目の前に同じように用意された自分の分を食べ始める。


「おいしいね」


 朝の食卓に、それ以上の言葉はなかった。

 すぐに食べ終わった2人は、食器を重ね、もう一度手を合わせる。


『ごちそうさま』


 せつなは皿を片付けるためにキッチンへ戻る。ふとその時、写真が目に入った。

 食卓の横にある小さな食器棚の上―――テーマパークの夜景をバックに、満面の笑みではしゃぐ二人が写っている。


 ――――――あれは2年前、結婚を申し込まれた日に撮ったものだ。

 晴樹の告白の言葉は、今考えると笑ってしまう。ジェットコースターの一番高いところ、今から落下が始まるところで彼は叫んだ。


《俺たち結婚しようぜ!!》


 その瞬間、絶叫マシーンが本格的に稼働するのだからたまったものではない。


 せつなは、思い出してクスっと笑うと、目の前の晴樹に告げる。


「私たち……幸せだね」

「うん……本当に」


 せつなはにっこりと笑って頷くと、食器を片付け始める。

 晴樹はふきんを持ってきて、洗った食器を拭いてくれる。

 そんなさりげない優しさが、せつなにとってこの上なく嬉しかった。


「今度さ、海にいこっか。見せたいものがあるんだ」


 晴樹は、キッチンに貼ってあるカレンダーを指さす。

 6月28日。そこには小さく丸がしてあった。


「……楽しみにしてる」


 ――――――うれしい。

 涙が、頬を伝っているのを感じて、慌てて手で拭う。

 なぜ、こんなにも嬉しいのか、自分でもわからなかった。


「もう。朝からなんで泣くの?」


 晴樹は少し呆れたような笑いを浮かべると、せつなを優しく抱きしめる。晴樹の身長は、頭1つ高いため、せつなの顔は晴樹の胸に沈む。


「ごめん……なんでだろうね」


 せつなは、晴樹の胸の中でそっと、目を閉じた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 また、夢の中で私は光を追いかけていた。

 淡く、温かく、力強い光だった。

 それは右へ、左へ、動き回ってどこかへ行ってしまう。


 そして、取り残された私に待っているのは、深い闇だった。


「待って!! 嫌だ。置いていかないで!!」



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「北野さん?」


「いやっ……!!」


 変なことを口に出してしまった、と意識がはっきりした瞬間に思った。


 目の前で心配そうにせつなを覗き込んでいるのは会社の同僚だった。

 せつなは慌てて謝罪する。


「ご、ごめんなさい。私寝てたよね?」


「大丈夫ですか? 大変なら休んでもいいんですよ?」


 同僚は心底心配そうに、せつなを見つめている。

 せつなの目の下には、大きなクマができており、あまり眠れていないことがわかる。


「ありがとう。大丈夫だよ。ちょっと最近変な夢を見るせいで、睡眠不足なだけだから」


 せつなは苦し紛れに笑って、デスクの上の書類に目を通し始めた。

 同僚は、「そうですか。無理しないで」とだけ言って、その場を離れる。


 せつなは、大きなため息をついた。

 やけに夢がリアルで、気持ちが悪いのだ。本当に自分が走って光を追いかけていたかのように、目覚めれば息が切れている。これでは、睡眠不足になることは明白だ。


 せつなは、ゆっくりと立ち上がり、席を立つ。せつなの会社は、オフィスにコーヒーメーカーが置いてあるので、そこで一息つける。濃い目のブラックコーヒーを淹れると、一気に飲み干す。



 この日の帰り道、せつなはドラックストアに寄った。

 この店は、食材も安く手に入るので重宝している。

 せつなは、チルド食品をどさどさとカゴに入れ、薬のコーナーに向かう。


 手に取ったのは睡眠薬だった。深い眠りにつきさえすれば、夢は見ないと聞いたことがある。試してみる価値はありそうだ。


「……今日は早めに寝よ」


 レジで会計を済ませ、自転車に跨る。

 せつなの会社から、マンションまでは自転車で20分ほどだった。

 最初は車通勤をしていたが、健康に気を付けていつしか自転車で通勤するようになった。


 突如、せつなの視界が回る。

 吐き気を催して、自転車から降りる。

 ゆっくりと歩きながら、夕暮れ時の爽やかな風に、身をゆだねる。


(もうすぐ夏か……)


晴樹が海に行こうと言ってくれたことを思い出して、つい頬が緩む。


(海は、行ったことがなかったな……)


 ――――――夜空煌めく砂浜の上で、2人で歩く。波の音と、星の光を反射する波間がきっと美しいのだろう。


 楽しい体験になる。そう確信した時、少しだけ胸のもやもやが晴れて、気分が良くなった気がした。


(家に帰ろう。晴樹が待っている)



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 また、夢を見た。

 光を追いかけている夢だった。いつもと違うのは、そこが暗闇ではなかったということ。


 せつなは笑っていた。

 まるで天の川を進んでいるような感覚だ。小さな光の粒が、せつなの前を次々と過ぎ去っていく。

 そして、大きな光がせつなの前に現れる。美しい、青白い光だった。


 ――――――せつなはそっと、手を伸ばす。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 朝、いつものように食卓を囲んでいると、晴樹が突然切り出した。


「せつな」

「何?」


 静かに箸を茶碗の上に置いて、せつなの目を見据える。


「来週の土曜日、海に行こう」

「……うん!」


 せつなは、声が裏返る。神妙な面持ちで晴樹の目を見つめるせつなにとって、それは心躍る嬉しいお誘いだった。

 がたっと食卓を揺らし、立ち上がる。それを見た晴樹は、「まあまあ落ち着いて」と、笑ってせつなを落ち着かせる。


「飛びきり綺麗な景色を君に見せたいんだ。きっと喜んでくれると思う」


 一体どれほど美しい景色を見せてくれるのだろうか。期待でせつなの胸は熱くなる。


「楽しみにしてるから。約束だよ?」


 水を勢いよく蛇口から出し、皿を洗う。

 いつものように豪華な朝ご飯の残骸を片付けるせつなは、ふと食卓の上に置かれた1輪花に目が行く。


 それは真っ白なカーネーションだった。

 透明な小瓶に活けてある花が気になったせつなは、それを瓶ごと持ち上げる。


 カーネーションは、少ししなびれていた。持ち上げたはずみに、花弁がひらりと机に落ちる。


「捨てよ」


 せつなは乱雑に、花を瓶ごとゴミ箱の中に捨てた。



 会社からの帰り道、今日は珍しく料理をする気分になった。よって、ドラックストアではなく、スーパーマーケットを選択して寄り道をする。


 最初に野菜売り場を物色する。ピーマンの大袋が、タイムセールで70円だった。

 買おうか迷い、手に取ってみる。


「……」


 ピーマンの深い緑色を見つめていると、何か違和感を覚える。

 そこから10秒ほど見つめ続け、


「……ピーマン。晴樹嫌いだったっけ」


 そう思いだしたせつなは、ピーマンを買うのをやめて、代わりに玉ねぎをカゴに入れる。


 肉売り場では、タイムセールで半額になった合い挽きミンチが並んでいる。

 今夜はハンバーグにしよう。ハンバーグは晴樹の大好物だった。少し手間がかかるが、彼に喜んでもらえるのならば問題ではない。

 レジで会計を済ませたせつなは、鼻歌を口ずさみながら自転車に乗り、帰路に就く。


 せつなの自宅マンションについたころには夕焼けが周囲を赤く染めていた。傾いた日の光が目に入り、少し眩しい。


 その時せつなは、夕日を背に近づいてくる人影があることに気づく。逆光で姿が見えにくいが、どうやら2人組のようだ。


 1人は高校生くらいの歳の少女で、キラキラと夕日を反射して、輝いている銀髪が印象的だった。黒いレザージャケットに身を包み、せつなをどこか心配そうに見つめている。

 もう1人は長身の若い男性で、体格がとても良く、ただならぬ気配を感じさせる。黒いパーカーの背に、赤い着物の羽織を纏っている。


 せつなが、2人を不審そうに見つめていると、目の前まで来た少女が口を開く。


「すみません。“北野せつな”さんですよね? ちょっとお話を伺えませんか?」


 せつなは驚いた。なぜ、自分の名前を知っているのだろうか。


「なんですか、あなたたち」


 不審者を見るような目で睨んでくるせつなに、少女は一呼吸置く。若い男の顔をちらちらと見てから、再度せつなに語り掛ける。


「何か、身の回りで変わったことありませんか? 例えば……変な夢を見る、とか」


 せつなは、何を言われるのかと内心穏やかではなかったが、意外な質問に少しだけ肩の力が抜ける。


(……宗教勧誘かな)


 よくいるのだ。女が1人で暮らしていると、どこからともなく現れる輩が。

 せつなは、軽く頭を下げて、


「そういうのは、大丈夫です。私今、“幸せ”ですから」


 それを聞いた少女は、目を見開くと、小さな声で「そうですか」とつぶやいた。


「いや、ちげーな」


 その時、少女の傍らでせつなを見ていた青年が、重々しく口を開く。

 せつなはその声に、圧を感じて体をびくつかせる。


「今の質問ではっきりわかった。あんた……このままだと死ぬぜ」

「ちょっと風牙(ふうが)!!」


 少女は、青年の羽織をぐいぐい引っ張って、せつなから離れると、2人でぼそぼそ話す。


 何が何だかわからず、せつなが混乱していると、少女がくるりと振り返る。


「北野さん。あの、訳がわからないとは思いますが、もう少しだけ、質問をさせてください」


 少女は青年を睨みつけ、人差し指を口の前に当てる。それを見た青年は、気だるそうにあくびをした。


「“おいでおいで”、という怪談話をご存じですか?」

「……いいえ」


 それは本心だった。そのような怪談は聞いたことがない。


「最近、記憶を無くしたことはありませんか? それを周りに指摘されるとか」

「ありません」


 それも本心からだった。記憶を無くす、という言葉があまりにもピンとこない。


「では、最後の質問です。先ほどもお伺いしましたが、最近妙な夢を見ることはないですか?」


 光を追いかけるあの夢を、妙な夢というのだろうか――――――いや、普通の夢なのだ、あれは。


「……ないです」


 せつなは嘘をついてしまった。なぜ嘘をついたのか、自分でもわからない。本当は、夢に悩まされていたし、妙な夢だと言われれば、妙な夢に間違いない。


「そうですか。ありがとうございました」


 少女は、深々と一礼する。その動きはどこか気品があり、せつなはつい見入ってしまう。


「あの。怪しいかと思われるかもしれませんが、これを」


 小綺麗な白いメモ用紙に、達筆な字で電話番号が書かれていた。その横には、少女の名前と思しき、『浄霊院咲夜』というサインが書かれている。


「困った時は、ここに連絡してください。私たちが、必ず助けに来ます。それと……●には、決して近づかないでください。本当に、何を言っているんだと思われるかもしれませんが、この夏だけ、この夏だけでいいので、お願いします」


 ――――――今、少女はどこに近づくなと言ったのだろうか。

 ノイズがかかったかのように、少女の言葉が途切れて、聞き取れなかった。

 せつなが慌てて聞き返そうとした時、少女はすでに、夕日に向かって歩き始めていた。

 青年もそれに続く。夕日に向かう青年の背中には、筆で描いたような豪快な字で“想術師”と書かれている。


 2人の背中を見たせつなは、言葉を失い、手を伸ばしたまま硬直する。

 理由は分からなかった。傍から見れば完全な不審者である2人組が、なぜかヒーローのように映ったのだ。


(私、どうしちゃったんだろ……)


 せつなは腕を下ろすと、無意識に、拳を握りしめて震えていた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 せつなは家に帰ると、少女から渡された紙をぼんやりと眺めていた。


「あんた……このままだと死ぬぜ」


 青年の言葉が、脳内で再生される。


 せつなは深いため息をつき、紙を食卓の上に置く。時計を見ると、もうすぐ20時になるところだった。料理を作る気力は失せ、食材を冷蔵庫に適当に詰める。

 その後は何もせず、薄暗いリビングで天井を見つめていると、先ほどの2人のことが頭から離れない。


 死ぬ。死ぬ。

 死、という単語だけがやけに引っ掛かった。なぜ自分が死ぬのか。全く分からない。


 せつなは、息がつまりそうになる感覚に襲われた。

 気分が優れない。冷蔵庫をもう一度開け、いくつか酒を取り出す。


 その内の1本は、アルコールが9%あるストロングのチューハイだった。


 せつなは、勢いよく缶を開けると、何も食べずにぐいぐい飲んだ。

 また、あの写真が視界に入る。幸せそうな2人を写した、あの写真――――――。


「私は今、幸せ……幸せなんだ」


 そうだ、もうすぐ海へ行く。晴樹と約束したのだ。

 それまで、辛いことは忘れて頑張ろうと、そう思ったではないか。


 せつなは、少女からもらった名刺をごみ箱に捨て、すべて忘れることにした。


 ――――――そう、何もかも。すべてチューハイの泡に流してしまえ。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 楽しい、とせつなは思った。

 光を追いかけるせつなの目に、たくさんの光景が映る。


 一緒に寿司を食べに行った。

 一緒に森の中を歩いた。

 一緒に映画を見た。

 一緒にゲームをした。

 一緒に服を買った。

 一緒にドライブした。


 一緒に笑った。

 一緒に泣いた。

 一緒に怒った。


 一緒に手をつないで。

 一緒に並んで。


 時には、喧嘩もしたけれど、分かり合えたし、それでよかった。

 

 せつなは、思い出1つ1つを手でつかむと、宇宙のような暗闇に撒いていく。

 それは星々の輝きとなって、せつなのいる暗闇に世界を作り出す。


 その中央で光るのは、大きな大きな温かい光。

 今度は逃げずに、せつなを照らしてくれている。


「ありがとう……」


 零れ落ちる涙をそっと拭ったせつなは、大きな光にそっと触れる。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「せつな。ふふ、疲れたかな?」


 はっとして目を開けたせつなに、横で運転している晴樹の笑みが飛び込んでくる。

 車は、オシャレなビーチサイドの商店街を通り抜けてぐいぐい進んでいた。


「ご、ごめん! 寝ちゃってた?」

「うん。幸せそうな顔してたなぁ」


 せつなは、顔を赤くして晴樹に謝罪する。しかし晴樹は、せつなの寝顔が可愛かったらしく、ニヤニヤとしながら前方を直視している。


「今日はいろんなところ行ったからね。疲れるのも当然だよ」

「ご、ごめんね本当に」


 そんな時、晴樹は唐突に告げる。


「今日、まだ行っていない場所があった」

「えっ?」


 晴樹は、急に真剣な顔つきになって、唾をごくりと飲み込む。


「せつな。海に行こう」

「今から!?」


 晴樹は頷いて、「見せたいものがあるんだ」と言った。


 しばらくして、晴樹は目の前の駐車場を指さして、「ついたよ」と告げる。

 海沿いにある、薄暗い駐車場には、ほとんど車は止まっていなかった。車を降りたせつなは、夜の海風に不気味な印象を抱く。冷たく、引っ張られるような感覚――――――。

 せつなは晴樹に促されて海の方へ降りていく。


 すると、先行していた晴樹が突然、嬉しそうにせつなの背後に回り、両目を手で隠す。


「え!?」

「ちょっと待ってね」


 せつなは晴樹に誘導されて、どこかのベンチに座らされた。

 すると、「お待たせしました!」という晴樹の声と共に、視界が開かれる。



 ――――――そこに広がっていたのは、幻想的な光の世界だった。



「……綺麗」


 優しく打ち付けてくる波間に漂っている青白い光。それは砂浜のラインに沿って広がり、海を天の川のように染め上げていた。雲の切れ間から覗いた月明かりと合わせて、とても幻想的だ。


「海ほたるっていうらしいんだ。これをね、ずっと見に行きたかったんだよ」


 晴樹は、うっとりと目の前の光景を眺めてそう言った。


「……うっ……うっ」


 せつなは、自然と涙が流れてきて止まらなくなる自分がいることに気づく。

 哀しく、儚いこの光景を、ずっとずっと、待っていた。

 晴樹への感謝と、とめどない愛情があふれて、晴樹に抱きつく。


「……ありがとう。せつな」


 晴樹は、そのまませつなを抱えると、海の方へ歩き始めた。

 美しい海ほたるの光の中を歩いていく。ちゃぷちゃぷと足が水に浸かっているが、気にも留めない。


「ねえせつな」

「ん?」

「お願いがあるんだ」


 晴樹はそっと、海ほたるの光の中心でせつなを下ろす。冷たい水の感触が肌に圧し掛かる。



「僕と一緒に、死んでくれないか?」



 大きな水の音――――――その瞬間、海ほたるの光が巨大な圧に押され、掻き消える。

 晴樹の背後、沖から突如現れた“ソレ”は、大きな口を開けていた。


「えっ?」


 真っ黒で、ぬめりけのある肌に、鋭い牙、グロテスクな顔面。それはぱっと見ただけで10mほどはある。

 あまりの出来事に、せつなは事態を飲み込めない。巨大な顔は、せつなを飲み込もうと、口を近づけてくる。


「晴樹!!!」


 せつなの思考がようやく働いた時、最初に叫んだのは最愛の人の名前だった。


「せつな……僕と一緒に……」


 晴樹の形をしていたもの。それは、化け物の頭上から伸びる触覚だった。せつなの腕を引っ張ると、口元に連れて行こうとする。


「い、いやっ!!」


 砂浜へ逃げようとするが、足が思うように進まない。巨大な化け物は、じろりと真っ黒な目をせつなに向ける。


「だーかーら、言ったんだよ」


 乾いた声が、せつなの背後で響く。

 大きな口を開けた化け物の歯に、力強い太刀筋が一閃。化け物のグロテスクな歯は簡単に砕かれる。


 10mの巨体は、驚いて身を捻る。その衝撃で、大量の水がせつなに襲い掛かる。


「ごほ……ごほ……」

「ちっ。暴れんなっての」


 水の間から、せつなの目に映ったのはあの青年だった。身の丈よりも大きな剣を、化け物に向けて打ち付ける。

 体の中央に強い衝撃を受けた化け物は、勢いよく水面を100mほど飛ばされて、テトラポッドに打ち上げられた。

 青年は、大剣を斜めに背負う。


「……ごほごほっ」


「あんた、大丈夫か?」


 青年はせつなを抱えると、海岸線近くの岩陰まで軽く飛ぶ。そこでせつなを優しく下ろし、背中の大剣に手をかけた。


「……どうして」

「んなもん、決まってんだろ」


 青年は、自信たっぷりにニカっと笑う。


「こっから見てな。あんたを縛っていた呪縛を断ち切ってやる」


 青年は、ボロボロの柄を力強く握りしめ、大剣の先を化け物に向ける。鍔から先、大剣の刃にあたる部分は、奇怪な文様の入った布でびっしりと覆われていた。


「“概念装填”」


 青年は、文様の入った布を勢いよく剥がす。

 そこから現れたのは、鉄の塊と言うべき武骨な刀身だった。

 月明かりに照らされた刀身に、大量の傷が浮き上がる。


「さてと……これで終わりだ」


 せつなは初めて、遠くでじたばたと暴れている化け物の全身を見た。

 それは、巨大なチョウチンアンコウにしか見えない。真っ黒の体が、月に照らされてよく見えた。


 チョウチンアンコウは、ぎょろりと青年の姿を直視すると、頭についた触覚を大きく振るう。青年 の体を吹き飛ばそうと迫る一撃に、大剣を軽々しく一振り、それを一瞬で切り落とす。


 光を纏う触覚の端は、勢いよく飛んでせつなの近くに落下する。


「たくさんの人間を道づれにした罪、払ってもらう」


巨大なチョウチンアンコウは、青年に睨まれると大きく跳ね、体を空中に浮かせる。そのまま夜の海に逃亡しようとするチョウチンアンコウに、青年の目が光る。


「逃がすかよ」


 青年は、大剣を大きく振りかぶる。


 青白い光が刀身を覆いつくし、光の刃を形成する。


 ――――――ぞくり。

 遠くからその様子を見ているせつなは、寒気を抑えきれない。

 敵意や殺意とは違う、まるで相対する存在そのものを否定するかのような威圧だった。



功刀流(くぬぎりゅう)一刀、“山颪(やまおろし)”」



 青年は振りかぶった大剣をそのままに、大きく跳躍。剣を化け物の頭上から力強く振るう。

 光の斬撃は、大きな衝撃と共に、チョウチンアンコウの体を真二に分けた。


 強い衝撃が、砂浜全体を揺らし、舞い散った大量の砂と水が、空へと打ち上げられる。


「きゃあ!!」


 せつなは、咄嗟に顔を腕で覆い、目をつむる。体に砂がかかる感触に耐えながら、岩陰に飛び込む。


(何がどうなって……)


 すぐに衝撃は収まった。ざざーんという波の音が聞こえ、舞い上がった砂が徐々に風に流されて、視界が開けてくる。

 砂煙の中でせつなが見たのは、大剣を右肩に乗せ、自信たっぷりに笑っている青年の姿だった。


「ま、こんなもんか。あとは頼んだぜ、お嬢(・・)


 青年はせつなに向かってゆっくりと歩き始める。しかし、突如海からチョウチンアンコウの顔面が飛んできて、青年を丸呑みしようと口を大きく開き――――――。


 ドーン――――――。

 鈍い発砲音がビーチに響いた時、化け物の顔面に大きな穴が開いた。

 青年の背中まで到達した顔は、一気に青白く霧散して消える。


 キラキラと砂のように、風に乗って消える粒子は、海ほたるのように儚く美しかった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「もう風牙! ちょっとくらい手加減しなさい」

「そりゃあ、手加減できる相手ならしますけど」


 しばらくして、ライフルバックを持ったあの時の少女が、2人の元にやってきた。暗視ゴーグルを額に乗せ、不愉快そうに青年を睨んでいる。

 ビーチの有様はひどいもので、青年が大剣を振るった場所から海に向かって地面が割れていた。


 せつなは、心ここにあらずといった様子で、ビーチの外にあるベンチに腰かけている。


「さて。仕事も終わったことだし、帰りますかね」

「まだ、終わってないわ」


 青年は、大剣の刀身に布を巻き終わるとすたすたと砂浜を歩き始める。

せつなは今まで気が付かなかったが、空には満天の星々が輝いていた。


「北野さんすみません。何が何だかわからないと思います。よければ説明させていただけませんか?」


 少女は腰を低くして、怯えているせつなの手を握る。せつなはようやく、震える声を絞り出した。


「晴樹は……いないんだね」


 その言葉に、青年は砂を蹴る。


「ああ。もうとっくにこの世にはいない。あんたも本当はそれを分かっているはずだ」


 せつなはすべてを思い出した。1年前の6月28日、晴樹は事故で死んだ。

 通勤途中の事故だった。飲酒運転の車に跳ねられ、即死だった。


 思い出したくはなかった。晴樹にずっと傍にいて欲しかった。それがたとえ泡沫の夢であっても。


 少女は、一呼吸おいて語り始める。


「以前、“おいでおいで”という怪談話を知っているか聞きましたよね? 最近ネットに上げられた投稿から生まれた有名な話なんです。大切な人を失い、悲しみに暮れている人間に幻想を見せる。そして、幸せに満ちたその人を、海に向かうように手招きをする。

おいで、おいでと。

最終的に海に引きずり込まれて、その人はいなくなる。

あなたが見ていたのは、人間の想像力が生み出す“傀異(カイイ)”が見せた夢の世界だったんです。あのチョウチンアンコウの化け物は、夢と現実の境界線をあいまいにし、夢の世界をまるで現実のように見せることができた。だからあなたは、晴樹さんが生きていて、隣にいるような錯覚を覚えていた」


 せつなは顔を伏せる。

 少女はそっと、せつなにハンカチを差し出す。


「本来、“おいでおいで”とかいう話の化け物は、チョウチンアンコウじゃない。その怪談話に、いろんな人間の想像や、それに付随する概念が混ざり合った結果、あの化け物が生まれた。あんたが被害を受ける前に5人消えている。被害者に共通していることは皆、最愛の人を失っていたということだ」


 青年と少女の説明に、せつなはまだ現実を受け入れられない。

 先ほどまで話していた晴樹は幻で、本当は存在していなかったとはとても思えない。実際に触れて、ぬくもりだって感じていた。


 せつなは涙で震える声のまま問う。


「本当に、本当に晴樹はいなかったのでしょうか? 私にはそうは思えない。

 確かに、この1年夢を見ていた実感はあります。よく記憶を失ったり、自分が何をしているのかわからなくなったりすることがあったから……でも晴樹は、確かにいたんです。それは本当です」


 青年はせつなの訴えを聞いて、小さくため息をつきながらビーチの方へ走っていく。


 少女は、青年の代わりにせつなに告げる。


「あの傀異は、夢と現実の境界をあいまいにする、と言いましたよね。つまり、夢が現実化することだってあり得るんです。見てください。触覚の先、あそこに光が宿っていた(・・・・・・・)


すぐに先ほど切り落とした触覚を抱えた青年が戻ってきた。黒い触角は、先ほど化け物が消えた時と同じように、青白い光を放っている。


「ほらよ。俺たちがしてやれるのはここまでだ。あとは自分で考えな」


 大きな触覚をせつなの傍に投げた青年は、「じゃあな」と言って、背を向ける。

 少女も慌てて、せつなに礼をしたのち、青年の後に続く。


 1人残されたせつなは、触覚に触れる。それは淡く、温かい、夢で見た光そのものだった。


『せつな』


「えっ?」


 確かに晴樹の声が聞こえた。心に直接響いてくるような、そんな声だった。


『時間がない。最後に、どうしても言いたいことがあるんだ。聞いて欲しい』


 せつなの手から光が零れ落ちる。触覚はどんどん薄くなり、この世界から徐々に消えていく。


『せつな。俺の分まで幸せになって。それだけが、俺の願いだ』


 触覚はそう言い残すと、夜の闇に吸い込まれるようにその形をなくした。


「ああ……晴樹っ……」


 せつなは、嗚咽を漏らしながら、地面に座り込む。

 永遠に止むことのない悲しみが、彼女を襲ったあの日からずっと考えていた。

 ――――――自分も一緒に死ねばよかった。


 そんな考えに支配されるようになって、あの夢をよく見るようになった。


「ごめん……ごめんなさい!!!!!」


 自分はなんと愚かだったのだろう。晴樹は、ずっと自分の幸せを願ってくれていた。生きていた時も、死んだ後も、ずっと。

 それなのに、この世界に絶望して自分は死のうと思った。自分は晴樹の願いを裏切っていた。


 せつなの泣き声は、波音にかき消されて次第に小さくなっていく。

 波打ち際に寄せられた海ほたるは、淡い光を放っている。

 これまでも、そしてこれからもずっと。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「あー。疲れた」

「今回の仕事は、ちょっとやりきれない感じだったね……」


 帰り道、2人は最寄りの駅で月を眺めながら電車を待っていた。


「大切な人を失った悲しみ―――“後追い自殺”の概念から生まれる傀異があんなにも強力だなんて……」

「それだけじゃねえだろ。幸せを妬む気持ちとか、死生観とか、いろんな概念が混ざり合った結果、あの化け物は生まれた」


 咲夜は風に吹かれながら、北野せつなの身を案じる。


 人々の想像から生まれる傀異。より強い思念から生まれる傀異ほど、人々に与える影響が大きくなる。

 それは噂など、想像の強弱によって、姿形と強さが変わってくる。


 被害人数が5人で押さえられたことは僥倖だったと咲夜は思う。


 2人は、5人目の被害者が行方不明になった個所から、傀朧(カイロウ)と呼ばれる傀異を構成する力の痕跡を辿った。捜査は難航し、2週間ほど付近を彷徨い、ようやく北野せつなに傀朧が宿っていることを突き止めた。

 最初に考えたことは、せつなは被害者なのか、それとも加害者なのかということ。

 咲夜は、それを見極めるために、あえて回りくどい質問をした。


「ねえ風牙。北野せつなさんは、大丈夫かな?」


 風牙は、ベンチに腰掛けると、だらりと力を抜いた。


「……さあな。俺の知ったこっちゃねーよ。でも、最初にお嬢が質問しただろ? あの時、“幸せ”だって言ったんだ。それが崩れた今、生きていけるのかはあの女自身の問題だろ」

「もう少し優しく言いなさいよ……」


 遠くで踏切の音が聞こえる。もうすぐやってくる電車が、この駅の最終列車だった。

 呆れている咲夜に向かって、風牙はぐいっと顔を近づける。


「いいかお嬢様、俺たちにできることは、傀異を祓うことだけだ。優しくしたって、なんにも良いことありゃしねーんだよ」


 そう言って風牙は駅を出る。


「えっ!? どこ行くの? 電車は?」

「俺は歩いて帰るんで、お嬢は先にどうぞ」


 ひらひらと手を振って、あくびをしながら駅から出る風牙に、咲夜は深くため息をつく。


「でも……そうだね。私たちができることを、やらないとね」


 やってきた電車に乗り込んだ咲夜は、窓の外から見える海を眺める。

 ぼんやりと青く光るビーチの光景が、目に焼き付いて消えなかった。


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