第二話
昔、本当に随分と昔。山の麓に小さな国があった。名をデルカダリア王国。
山から採れる薬草は質が良く、周囲の魔物の素材は一流、鉱石も幅広く埋蔵された地を持ち、広く浅くの産業を興していたデルカダリア。
しかし『山の麓』と言うことで大きな戦争はあまり経験したことは無い。大国が悉く山の向こうにあったのだ。
ある日、一人の青年がデルカダリアの城下街で一人の女性に恋をした。――いや、それは恋と言うにはあまりにも強烈で、深々とした感情だった。
青年は彼女を熱心にそして誠実に口説き始める。
長い間困ったように笑うだけだった彼女も、ついに青年の思いに絆され想いを交わす。
ようやく結婚、と話を進めたところで青年はそれならば実家のある山の頂上に来て欲しいと言った。
虚言としか思えないその言葉に彼女は困惑し、両親へ訳を話す。
山の山頂は世にも珍しい龍の種族が繁栄する龍王国。そんな噂があった。
偶に空を飛ぶ龍を見たから。誰も山を登ることが出来ないから。そんな、沢山の小さな理由からの曖昧な噂だ。
しかし事実山の山頂までたどり着けた者はいない為、真偽はわからない。
あくまで誰も通れない不思議な山。それだけの、はずだった。
あまりにも滑稽無糖な話に証拠を見せて欲しい、という両親は当然の反応だったと言える。
全てわかっていたように快く頷いた青年は、本来の姿――龍へとなる。
真っ赤な、深紅の龍だったそうだ。
この一件で龍の存在は明るみとなり、デルカダリア国王は彼女を連れていくという龍に慌ててこう告げた。
龍の国では彼女は幸せに暮らせないのではないか。彼女が両親と離れるのではなく貴方がこの国に来てはどうか、と。どうにも龍にこの国に留まる理由が弱いような気もしたが、彼にはそれで充分だったのだろう。何より、彼女はそれを望んだのが大きい。
今では随分と持ち上げられる国王だが、賛否両論ではある。
伝説の存在に、そんな取引じみた言葉を告げるのはあまりにも博打が過ぎた、と。
龍は申し出を受け入れ、この国は名を改め『ファルミネント龍王国』とされる。
そして世界で唯一龍の守る国として平和を謳歌してきた。
そして現在。
古の制約により国を守護する龍の花嫁はこの国に必ず生まれるのだと言う。
それは年に一度のこのパーティーで見染められる。それと同時に今まで居た龍と花嫁は山へ登り、新しい龍と花嫁がこの国を守護するのだ。
◇
そんなわけで、今日は令嬢子息のデビュタントであると同時に龍の花嫁選定でもあるのだ。というかこっちが本当の目的。
とは言っても、龍の寿命は大変長く、100年200年ザラに生きるという。必ず見つかる訳ではないのだ。
現在守護を頂いている龍は505年ここにいると言う緑龍ユーステッド・ファルミネント様とその花嫁アーマリア・ファルミネント様。そしてその息子であり、今日花嫁を探しに来る――蒼龍様だ。
番を見つけるまで、名前を明かすことがない龍はその体の色から呼び名を決めるらしい。今日の主役である彼は、きっと青色をした龍なのだろう。
扉が開いた瞬間令嬢たちの小さな悲鳴のような騒ぎ声が聞こえた。むっとしたまま目線をあげると、そこには国王と共に姿を現した蒼龍様の姿。
ふと、その容貌に見惚れて、一瞬。彼と目が合った、気がした。
「――二度目だけれど…。相変わらず綺麗な方だね」
兄も私も、容姿には自信があった。両親が綺麗なのでさもありなん。しかし彼はそれ以上、としか言いようがない。
海の深淵のような深みのある髪は青、と言うよりーー蒼なのだろう。ユーステッド様の色を受け継いだ根元に、濃ゆい青の毛先が煌めいている。瞳の薄い金色は光を曇らせることなくゆらゆらと輝く。全身を白い布に覆われ、マントも、ボタンもベースは青。しかしそれは彼の色を埋もれさせる事無く際立たせている。
これが、蒼龍様。
蒼龍様からの挨拶が終わり、横の国王が言葉を引き継ぐ。
国王は白髪の混じった緑髪で、勇ましい顔つきのまま壇上から私たちを見渡して口を開ける。まあ、要約すると次は君たちの番だ、という感じだったとだけ。
国王の言葉に拍手が鳴り響き、例年であればこれで終わり――そう思った瞬間だった。
何かに睨まれたような、目を付けられたような悪寒が背中をかける。
目ざとく私の様子に気づいた兄が心配の言葉をかける前に、壇上の国王が言葉を発した。
「さて、今日はわざわざ蒼の離宮よりおいで下さった蒼龍様より嬉しい報告があるという」
その瞬間兄と私だけでなく、会場中の人々がハッと息をのんだ。
――つまり、それは。
蒼龍様が、前へ出る。
その様子をぼんやりと眺めていた私は、その目線がずっと、こちらを向いている事に気づいた。
キラキラとしていた瞳が一層輝いて、口が弧を描く。若干の上気したような頬が目に毒だった。うっそうと口が開いて、誰もが予想していなかった言葉が紡がれた。
「今日のパーティーで、私はついに花嫁を見つけました。皆の知っている通り、私たち龍は『番』と呼ばれる一生の伴侶を本能で感じることが出来ます」
壇上から、階段を下りて蒼龍様が私たちと同じ高さに立つ。ゆっくりとした口調とは違い、その足は性急な様子が感じ取れた。
「今日と言う日を、私は247年間夢見てきました――」
そのすらりと長い足が、なんとなくこちらに向いているのは気のせいだろうか。
「その思いが、今日、報われる」
隣の兄も蒼龍様がこちらに向かってくるのがわかったらしい。ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
何かに怯えるように一歩下がった兄に、気を向ける暇もなく。
ついに、蒼の君が私の目の前で立ち止まった。
固まる私に、彼は私の手を取って跪いた。
「ご令嬢、お名前を教えていただけますか」
「――――――リリアネット・ウェルフラン、ともうします」
ああ、とため息を零すことは叶わなかった。とろけるような甘い声と、目。ともすれば欲情しているかのようなそれに、怯んだのは一瞬。
欠片しかない意地を必死でかき集めて淑女の礼を取り、久しぶりに意識して微笑む。
今日505年の緑龍様の歴史が終わり、そして新しい蒼龍様の時代が始まった――――――
◇
激動の一日だったとしか言えない。
巨大な歓声につつまれた会場を蒼龍様に手を引かれ、退室した。兄には本当に悪いことをした。あの後大勢の貴族達に囲まれることが簡単に予想される。
連れてこられたのは小さな、しかし高級感の損なわれない美しさをまとった個室だった。応接室だろうか。
一息ついた蒼龍様は甘さを含んだ視線を止めることなく、しかしどこか悲しそうな声で囁いた。
「漸く、こうして会えました…」
ため息のように、かすれた小さな声だった。噛み締めるように、きゅうっと目は細められて。それでもわかる程度に瞳はきらめいていた。
エスコートされていた手は微かに震えていて、これが嫌悪による震えではない事はすぐにわかった。
「…はい」
「、ああ申し訳ない。突然のことで驚いたでしょう」
ごくりと喉を鳴らして、謝罪しつつ私をソファに座らせる。めちゃくちゃいいソファだった。ふっかふか。
否定の意を込めて首を振るとジーっと見つめる視線に気づく。
「どうか」
されましたか、と続く言葉を口が勝手に省略する。こんな時でも面倒になって放り出す私の口はある意味凄い。それとも、まだ混乱しているのかもしれない。
だって、そんな。約200年見つかっていなかった花嫁が、私?
彼がうろ、と目線を迷わせて、はにかむように笑う。
「…その。随分と無口だと思って」
ああ、と合点がいく。大体の初対面の人は素っ気ない私の態度に嫌われていると思って距離をとるのだ。
別に、と言いかけて淑女の言葉ではないな、と止める。
「せいかく、で」
「そう、ですか。いえ…少し話しても?」
「はい」
彼の言葉にいいえ、なんて言える人がいるのだろうかとぼんやり考える。仲のいい友人は、それでも彼より弱い立場であるのに。
「…知っているとは思いますが、龍は、番を本能で感じます。それが私の場合君でした」
「はい」
「拒否権は、ありません。私の花嫁になってもらいます」
「…」
「不自由はさせない。叶えられる望みは全て叶えましょう。だからどうか、私の離宮へ来てくれませんか」
「はい」
「――」
あの時、手を取られた時からわかっていたことだった。間髪入れずに返すと、蒼龍様が悲しそうに目を伏せた。自嘲気味に口元だけは笑みを浮かべていて、心から喜んでいる様子ではない。
どうかしたのか、と思いながらも自分から話しかけようとは思わなかった。不敬だし、なによりも会話が広がるのが面倒だった。
「いや…ありがとう。ご両親にも話をしないと…。明後日、君の家へ向かいます。離宮への出発は、一週間後です」
「はい」
随分と時間がない。明後日両親への挨拶で、一週間後引っ越しとは。あの家ともお別れと思うとやはり感慨深いものがある。
まさかデビュタントで結婚してしまうとは誰も思わなかっただろう。
「――私の名はオリヴィエール・ファルミネント。好きなように呼んで下さい。…リリアネット」
「はい」
悲し気な表情は、私が帰る時まで続いていた。