第一話
昔から何をするにしても『面倒』という一言が頭をよぎった。
勉強が面倒くさい。人付き合いが面倒くさい。作法が面倒くさい。会話が面倒くさい。
徐々に怠惰が極まっていく私を見かねたのか、周囲も日に日に苦言を呈してくるようになった。しかしその苦言すらも面倒くさいと思ってしまう程度に、私はもう後戻りできないところまで来てしまったのだ。
人に責任を押し付けるのも問題だが、私のわがままを許容してきた周りのせいでもあると思うのだ。だって、私はそれが許された。可能な限りいつまでもベッドの上でまどろんでいられた。
今日は貴族達の子息令嬢が一斉に集まる年に一度の『お披露目パーティー』
会話も、移動も、食事すらも面倒くさいと感じるようになった私は―――今年15歳の成人を迎える。
◇
「リア」
私を呼ぶ声に、閉じていた瞳を開けてちらりと目線を向ける。
くすんだ金色の髪を綺麗に整えて、品のいい正装を纏った男がグラスを差し出す。私の兄、アルベール・ウェルフランである。
どうやら私を座らせて待っていて、と言ったのはこの為だったらしい。そおっとグラスを受け取り、綺麗な金色の飲み物を一口飲む。アルコールではないらしい。
「今日ぐらい会話しない?」
苦笑しながら、しかしそれは返事を期待しての言葉ではなかった。いつもの、説教じみた独り言だ。少し中身の減ったグラスに逡巡して、兄を見上げた。にっこりと笑顔を浮かべる兄が、大人しくグラスを受け取ってくれた。
大体、今朝ちゃんと家族には挨拶をしたのだ。
母と父の強い要望から、私は毎朝の挨拶と就寝の挨拶だけは家族に伝えるようにしていた。昔説教なのか甘言なのかよくわからない話の後、決められていた。まあ、喋るだけで嬉しそうに微笑む皆に私自身もこのぐらいなら、と続いている。
長続きのコツは高すぎない目標である。
「…全く。今日はリアが主役で、俺はあくまで付き添いだからね?友人が来たらお前が相手をするんだよ」
大人しくうん、と頷くと困ったように眉を寄せてため息をつく兄が見えた。
それでも、エスコートしてくれる同年代の友人がいなかった私の為に貴重な休日を返上してくれた兄には感謝している。なんだかんだ、甘いのだ。
――というか、友人なんて来るのだろうか。
こんな性格だからか、長続きする友人は少ない。しかしいない、と言えないのだから権力は面倒くさい。この容姿と家柄のせいで、一定の人付き合いは途切れることがない。
家は中々に歴史のある公爵家で、父は宰相だか何だかの役職についている。母は宝石のデザイナーで、兄は王国騎士団員で、次期副騎士団長と噂されるほどの腕前だ。つまり、皆すごい。
しかし、こんな完璧一家にも汚点と言うものはあるもので。それがこの私――リリアネット・ウェルフランである。
「来ると思うけどなあ。…ほら、噂をすれば」
兄の目線を追うと、そこには綺麗にウェーブのかかったピンクゴールドの髪を揺らしながら歩く少女。あれは友人ではなく、兄目当ての知り合いである。思わず眉間に皺を寄せるとコツン、と指で叩かれる。
「ほら、笑顔だよ。さあ立って」
優雅に腰を落としてエスコートの姿勢を見せる兄に、心の中でため息をついて手を取る。ここで無視をしても、いい事なんて何もない。むしろ悪評が広がって酷い事になるのだとよく知っている。
「御機嫌よう」
にこやかに挨拶してきた彼女はエディアリゼ・マグナ。まあ、存外かわいらしいお嬢様である。
「ごきげんよう」
余りにも喋らない口は久しぶりの単語に舌ったらずだ。学園では比較的頻繁に言っていたのに、その影もない。
そんな私をフンッと鼻で笑って扇で口元を隠す。下品と言う程ではないが、嫌味ではある。仕草は優雅なのに、どこか子供っぽいのは何故なのだろうか。
「あら、今日は口を開くのね。ついに私も貴方も大人なのですから、いつまでも学生気分で怠けていてはいけませんことよ?」
学園にいた頃に話したことがあるだろうか、と考えて、やめる。どうせ覚えていない。
私から視線を外して目線が兄へと移る。しかし声をかけることはしない。今日は、そういう場だ。意外なほどちゃんとした礼儀に関心するばかりである。兄しか見えない、という訳でもないらしい。
しかし兄に気があるなら自分で取り持ってほしいものである。今日は兄に話しかけられる場ではないにしても、普段は―――いや、普段も身分が邪魔するかもしれないけど。
「はい」
適当に聞き流しつつ、無難にそうですねと答えたつもりが私の口は勝手に短くしてしまった。流石である。
「まあまあ、貴方にも自覚がおありでしたらお兄様にべったりとくっついてばかりでなく一人で歩きなさい」
「はい」
一人で歩くのは別にいいのだけど、きっと途中で諦めて座り込むか寝てしまうに違いない。私は結構歩くことが嫌いなので。
兄もそう思ったのか、私をちらりと見て目を細めたのがわかった。できないでしょう、と言っているようだ。そんな目と目で会話する様子が仲のいいように見えたのだろう。少し不機嫌になった様子でぱちり、と扇が音を立てる。
「…まあいいですわ!今日は蒼龍様がいらっしゃる特別な日。あなたはそこで壁の華にでもなっていることね!」
そう言いながら去っていく彼女を見て、兄を見る。心得たように笑った兄は、気遣うような動作で私を座らせた。意味深な目線が突き刺さる。
「…」
「リアが学園で交友を広げないからだよ。5年間も通って友人が作れないってどうなの?」
うるさい、と態度で示すとはいはい、と呟きながら兄も目の前の椅子に座った。
作れなかったのではない。作らなかったのだ。
人がきたら兄が教えてくれるだろう、と再度瞳を閉じる。
思考すら若干の面倒さを感じるのだが、視界に情報があるとどうしても何か考えてしまう。何も見ないことが一番だった。
「でもリアに壁の華ってのは良い表現だよね」
不意に、兄が呟く。暗闇の中で兄のいるほうを見上げると、髪を触られたのがわかった。ゆっくりと耳に髪がかけられて、そのまま梳くように指が髪を撫でる。
首を傾げると自慢げに鼻を鳴らして兄が微笑んだ。
「とっても可愛い僕のリア。その気は無くても、この部屋を一番彩っている」
なるほど。
私だって初めから無口だった訳ではない。小さい頃はそれこそ声を上げなければ何がしたいのかも分からないし、喋りたい盛りだろう。だからこそ言葉を覚え、言われたことを守り、礼儀を身に着けた。そう、幼い頃は普通の子供だったのだ。ちょっと、記憶が多くて病弱なだけの。
しかし、兄も、父も、母でさえも、可愛い可愛いと私を溺愛するので。幼い頃の病弱のせいも家族のせいもあるだろうけど、一番は私に素質があったのだと思う。
目や仕草だけで言いたい事が伝わり始めて。そしたら思うでしょう?会話する必要ないのでは、と。
元々面倒くさがりだった私はもう、どんどん周囲に甘えて甘えてここまできた。今の生活は大好きだし、むしろもっとと思う気持ちさえある。私は欲が深いのだ。
「―-リア」
静かな兄の声に現実に引き戻される。
誰かお客様が来たらしい。目を開けると数人の女性が待っており、先ほどの様子に立ち上がって挨拶を済ませる。
その後も数人の学友と簡単な挨拶を済ませて、パーティーの始まりを待った。
そう、今からが本番なのだ。ここまでは前座。
兄がピクリと壇上を見上げて、私もつられて見上げる。
会場はいつの間にかシンと静まっていて、今から主役が来るのだとなんとなく察した。
兄にエスコートされて椅子から立ち上がり、奥にある大きな扉に体を向ける。
今日は数々の家の令嬢、子息の『お披露目パーティー』であると同時に、『蒼龍様の花嫁探し』でもあるのだ。