3 婚約者を宥める
「レオ様! おはようございます!」
元気いっぱいに声をかけるのは、エヴァリーナ達が問題人物としているカロリーナ・ローゼオ男爵令嬢である。
多くの貴族の子息子女が通う学校ということもあり、朝の光景は賑やかではない。「ごきげんよう」と優雅な挨拶が飛び交う中でのその声は、無駄に周囲からの注目を集めているのだが、カロリーナがその視線を気にする様子はない。ただにこにこと、声を掛けた相手を見つめ続けている。
――が、声を掛けられた相手であるレオナルド・ジャッロは彼女とは違う。
その秀麗な面持ちの一つでもある眉を少しばかり顰めていたのは、当然と言えば当然の反応といえるだろう。
庶民のような挨拶を交わすような不作法を彼は持ち合わせていない。
まして、挨拶をしてきた相手は親しくないどころか関わり合いのない生徒であり、レオナルドよりも爵位が低い人物である。通常、爵位が低い者が上の者へと声を掛ける事は御法度とされている。それはマナー違反どころか、子どもが覚えるマナーの初歩の初歩であり、それすら守れないような相手と関わり合いになりたいと思うほどレオナルドはおめでたい頭の持ち主ではなかった。
結果、
「…………」
聞こえなかった、自分には関係ないという態度を貫いて、レオナルドはカロリーナの存在を無視した。
ツカツカと長い脚で歩き、前方を歩いていた友人であるティートの姿を見つけるなり、「おはよう」と自身から声を掛け、そのまま二人で連れ立って歩き去ってしまうという徹底振りである。
これに憮然とした表情を浮かべたのは、最初に声を掛けたカロリーナのみ。
周囲の反応といえば、レオナルドの対応は当然だと肯定するものばかりで、カロリーナの行動を批判するようなものしかなかった。
そして―――昼休み。
廊下を歩いているレオナルドの姿を見つけ、バタバタと行儀悪く走り寄ったのは、またもカロリーナだった。
「レオ様! よかったら私と一緒にお昼を食べませんか?」
にこにこと。
無邪気な笑顔を浮かべて近づいてくるカロリーナに、またもレオナルドの秀麗な眉が顰められる。
ぴーちくぱーちくと勝手に話し始めるカロリーナを完全に無視して歩き続けて、レオナルドはそのまま生徒会室の扉を開けるなり入室し、カロリーナの存在を遮断するように容赦なく扉を閉める。カロリーナは生徒会のメンバーではない為、勝手に生徒会室に入室できないからこそ、それ以上のカロリーナの纏わりつきはなかった。
当然、この時もまた周囲の反応はよろしくない。
声高々と注意をする者はいなかったが、誰もがカロリーナの不作法すぎる行動に眉を潜めて批判の声を上げていたのだが、当の本人であるカロリーナがそれを気にしている様子はなかった。
ただ小さい声で、「なんで…?」と呟いていたのだが、小声過ぎてその声を拾い上げる者は周囲には誰一人としていなかった。
そんなようなやりとりが一週間ほど続いた後で、エヴァリーナはレオナルドと生徒会室で向かい合っていた。同じテーブルを囲んでティートもいたのだが、別に二人の逢瀬ではない為にエヴァリーナ達がティートの存在を疎んじることはない。
エヴァリーナは机を挟んで向かいに座っているレオナルドの様子を観察するように見つめる。
レオナルドは額に手を当てて俯き加減になり、大きな溜息を吐き出している。
一見、疲れているように見える動作であったが、付き合いの長いエヴァリーナは、レオナルドが非常に怒っていることに気づいていた。そして、レオナルドの隣りに座っているティートはといえば、隣りから吹雪いてくるブリザードのような冷たい怒りにより、顔を引きつらせている。彼の心情を表すならばきっと、以下のようになるのだろう。すなわち――俺に八つ当たりだけはやめてくれ、と。
長い長い沈黙の後で、レオナルドがようやく口を開く。
「………………………………あの生き物は、一体何なんだ?」
生き物扱いされているのが誰であるかなど、言うまでもない。
ここ一週間ほど、毎日のようにしつこくレオナルドに付きまとっている女子生徒を指しているのは言葉にするまでもなかった。
レオナルドの顔がゆっくりと上げられれば、その瞳には剣呑な色合いが浮かんでいる。
「さあ、何でしょうね?」
「いや、俺に振られても困るんだけど…」
エヴァリーナがティートへと話を振れば、ティートはブンブンと頭を左右に振って拒否反応を示す。
「馴れ馴れしく名前を呼ぶのも鬱陶しい」
「そうですわね。彼女とは親しくありませんものね」
「行く先々で待ち構えるようにしているのも鬱陶しい。何度、気配をよんであの生き物を避けたことか」
「そうですわね。どうやってレオの行動をよんでいるのでしょうね」
「貴族という自負はなく、恥を知らないのか」
「そうですわね。淑女という行動とはかけ離れていますわね」
心底忌々しいという表情、声色で次から次へと言葉を繋げていくレオナルドに、エヴァリーナは淡々と相槌を打ち続ける。
長い付き合いで、こういった時にレオナルドが求めているのは肯定の言葉であり、何か意見を求めているわけではないと知っているからこそ、エヴァリーナはその行動をとっているのだが、阿吽の呼吸で続けられるやりとりに、ティートがこっそりと感心している事には気づかない。
次から次へと吐き出される苛立ちの言葉は暫く続いたが、やがて言い続けるうちに気持ちを落ち着かせることができたのか、レオナルドが大きく息を吐き出した。
先程まで力いっぱいに握りしめていた拳は広げられていて、エヴァリーナは彼の本当に気持ちが落ち着いたのだと判断する。
―――レオナルド・ジャッロ。
ジャッロ公爵家は代々武を極める家系であり、レオナルドもまた例外なく武人といってもよい力を持ち合わせている。下手にぶちきれでもしたら、その怒りの拳で近くの物が簡単に壊れてしまう為、そうならないように彼を宥めるのはエヴァリーナの仕事といってもよい。
隣りに座るティートもまた、安堵の息を零していることに気づいたが、エヴァリーナは気づかない振りをすることにした。
「とりあえず親に申し出て男爵家には抗議の手紙を送ったが…」
「彼女がそれを行動に移すかどうかは………怪しいところですわね」
「………………少し体を動かしてくる」
「行ってらっしゃいませ」
身体を動かすことで発散できるストレスというものもある。
レオナルドは自身の苛立ちからくるストレスを発散させる為に、生徒会室を後にした。
残されたエヴァリーナとティートは、扉が閉まるのを見守るように見つめてから、視線を交わし合う。
先に口を開いたのは、ティートの方だった。
「………確かにレオは大丈夫そうだね」
「ええ。私の言った通りでしょう?」
酷く感心するように。
それでいて不思議そうな表情を浮かべながらティートが首を傾げる。
「……でも、どうしてティートは大丈夫なんだろう? エヴァン達はコロッとあの女に落ちていたのに」
今までのやり直し時の様子では、カロリーナの一挙一動により獲物とされた男達はコロッと誘惑されていき、気が付けば相思相愛になっているという状態が続いていた。それだというのに、今回のレオナルドに限ってコロッと誘惑されるどころか、怒りの対象にしかなりえていない。そこに何の違いがあるのか、ティートは考えるものの一向にその違いがわからない。
そんなティートの姿を見て、エヴァリーナがくすっと小さく笑みを零す。
「そんなの、レオには私の魔力が体中に行き渡っているからに決まっていますわ。今回で確証をもちましたけど、カロリーナ様は誘惑の魔法も使ってみえますわね」
「ええ…っ!?」
「でも―――レオには効かない」
エヴァリーナは断言した。
自信満々のその物言いに、ティートが不思議そうな表情を向けてきた為、エヴァリーナはそのまま話を続ける。
「ティート様はお聞きになったことはありますか? レオが幼い頃に怪我を負ったことを」
「あ、ああ。……かなり酷い怪我だったと聞いたけど…」
物心つく頃の話であるが、当時、貴族間ではかなり話題に上がった話でもある。
曰く、死んでもおかしくないような酷い怪我を負い、もう助からないと言われていたものの、奇跡的に死を免れて生き延びることができた男の子がいる、と。
その男の子の名前こそ広まりはしなかったが、噂話が大好きな貴族間の中ではそれがジャッロ家の子どもであるという事が知れ渡るのに時間はいらず。
しかし、レオナルド自身、それを自ら表だって話すような事はしないし、武芸に励む今の姿を知る者からすれば、レオナルドがその男の子だと想像できる者は少ない。それ程までに、レオナルドは細身ながらも武を嗜むことで身についた筋肉は立派なもので、彼と病気や怪我を結びつけることは難しい。ティートは仲が良いからこそその話をレオナルドから直接聞いたものの、外から見たところ怪我の痕もどこにも残っていない為、若干半信半疑なところがあった。
「その時の怪我を治したのは私です。……とはいえ、完全に治すことはできなかったので、今も私の魔法でレオの体内を支えているのです。その魔法は、補助的に彼や私に対する悪意やそれに準ずるものを弾くようになっています」
「へえ……」
「おそらく、それが彼女の誘惑の魔法は勿論のこと、彼女の存在を退けているのでしょうね」
もし、レオナルドがカロリーナに陥落されてしまえば、エヴァリーナとの別れが待っている。
それを本能的に悟り、カロリーナの存在に反発してしまっているのだろう。
エヴァリーナはカロリーナのここ数日の様子を思い返す。
過去、カロリーナは相手に対して、相手が好きそうな性格を演じ続けてきた。
今回のカロリーナが演じているのは、天真爛漫な明るい貴族らしくない少女――である。
それは、けしてレオナルドが好きなタイプではない。自慢とかそういうわけでもなく、レオナルドが大切に想っているのはエヴァリーナでしかなく、そこから考えればレオナルドが好きなタイプは、礼儀正しい貴族の淑女という事になる。
「……………どうして今回は間違った行動をとっているのかしら…?」
好かれる為には、好きなタイプを演じた方が良いに決まっている。しかしそれをしていないという事に、エヴァリーナは疑問を抱いていた。
「…………演じる台本が間違っているのかしら…?」
カロリーナがどうやって、多くの男達の趣味から嗜好、性格等を把握しているのかまではエヴァリーナにはわからない。一般的にそんな情報は知れ渡っていなければ、本人達が豪語しているわけでもない。しかし男達を虜にしてきた以上、何らかの方法でそういった情報を手に入れているのは間違いない。
「…………………禁忌魔法にそういったものがあるのかしら…?」
エヴァリーナはぽつりと呟く。
行動パターンまで把握していなければ、過去の例のようにうまく目的の人物と遭遇する事は難しい。今回、レオナルドは行く先々に先回りされているような話を口にしていた。そこから考えられることは、未来視をしているか、見えない遠方の場所まで視る何らかの力をもっているかということがあげられる。
考え込むエヴァリーナの邪魔をしてはいけないと判断したのか、ティートは口を閉ざし続けている。けれど険しい表情を浮かべる彼もまた、頭の中で色々と考え込んでいるのは確かで。
「……彼女と接すれば、何かわかることがあるのかもしれませんが…」
「それは……やめておいた方がいいんじゃないかな」
何気なく呟いたエヴァリーナの言葉だったが、すぐにそれはティートに止められる。
考え込みとばしていた思考を戻し、エヴァリーナはティートへと視線を向ければ、首と手を横に思い切り振っている姿が視界へと入ってきた。
体全身で否定のポーズをとるティートに、エヴァリーナはその意図がわからず、軽く目を瞬かせた。
「どうしてですの?」
「うーん…。ほら、今回のターゲットはレオなわけだろう?」
「そうですわね」
「……過去も、エヴァン達がターゲットの時に婚約者の子達が彼女に苦言を伝えたことがあった……だろう?」
「そんな事もありましたわね」
エヴァリーナは当時の事を思い返してみた。
自身の婚約者が他の女子生徒と親しいという事は良い状況ではない。それ故に、注意というかたちでカロリーナに告げていた生徒もいたのだが、結果は悲惨なものだった。カロリーナに骨抜きにされている男達は皆、カロリーナが可哀想だろうと言い、自らの婚約者に逆に苦言を言い返したのである。普通に考えればありえない状況であるが、それがあり得てしまったのが、カロリーナの周辺における不思議現象だった。
しかし、エヴァリーナは首を傾げた。
「………でも、レオは彼女の事を好いてはいませんので、あの時とは違う状況だと思いますが?」
「それでも、だ。何が起こるかわからないから、下手に口を出して問題に巻き込まれてもいいのかい?」
「……………それは……面倒ですわね…」
ティートの言葉に少し顔を顰めて、エヴァリーナはティートの言葉を受け入れた。
こうしてエヴァリーナはカロリーナと自分から接する機会をもつことをやめたのだが、これよりしばらくして、向こうから絡んでくることになるとは想像もしていなかった。