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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

死にゆく夏に

作者: きりん

 夏が投身自殺を始めたような雨が降り始めた。バシャバシャと鳴るそれは、部屋の中の静けさをより一層引き立たせながら、永遠みたいに流れ続けている。おかげで、窓の外は灰色だ。夏だというのに、太陽の出ない日が続いている。台風でもなく、夕立でもない、ただの雨が今年はよく降った。どこか生命力を感じるようなどちらとも違う、無の雨。部屋の中の空気までを湿らせて、私の心を腐らせる、虚の雨。

 灰色に煙る空から視線を下ろすと、ベランダに蝉がひっくり返っていた。ひだひだの出来た腹を見せて、乾いた身体を雨水に濡らしている。感情の読み取れない眼球が、もうそこにないはずの光りを湛えて私を見ていた。今年は、生きた蝉に出会わない。そのことに、少しだけ安堵している私がいる。

 いい加減、始めよう。気怠い身体に無理矢理力をいれて私はベッドから起き上がった。鈍い痛みのようなものが頭の中で回っているけれど、こめかみを指でギュッと押さえると少しだけ楽になって、それでも指を離さないまま立ち上がった。流しへ行き、ポットに水を汲もうとしたところで気づいたけれど、私は苦笑を浮かべて湯を沸かした。

 先日、家族がいなくなった。私は結婚をしていないから、家族というのは、両親と兄のことだった。彼らの身に起きたことを正しく言葉にするのが恐ろしくて、私は“いなくなった”という言い方をしている。どこか、私の知らないところへ。どこか、きっと安らかなところへ。色々な手続きを終えて、数えるほどしか会ったことのない親戚という名の人たちも去っていくと、凍えるような孤独が忍び寄ってきた。

 夫どころか、彼氏もいない。こんなときに連絡を取れるような友達もいない。職場の人間とは一線を引いていて、彼らの吐く言葉は素直に受け止められない。私には“この人”という人がいない。いや、いなくなってしまったのだ。そういう人を、家族の他に持たなかったから。持てなかったから。

 そんな事実に打ちのめされて、私はしばらく仕事を休んだ。職場の人たちは、同情からというよりも“こういうときはそういうものだ”という当たり前の常識としてそれを容認してくれたようだった。ひょっとしたら、中には「家族がいなくなったくらいで」と憤っているのにそれを露わにしていないだけの人もいるのかもしれない。そんな想像は、私の心を一層暗くした。

 でも、私は果たしてそうでないだろうか? 私が彼らの立場だとして、「私の仕事を増やしやがって」と思わないでいたろうか? 自分とは無関係な、誰かにとっての大切な人の不在を心から悼むことができたろうか? 日々をただベッドで横になって過ごしながら、そんなことばかりを考えた。無駄だとはわかっていたのに。だって、事実として、孤独になったのは彼らではなく私なのだから。

 簡単だけれど、朝食は完成した。パックのご飯に、インスタントの味噌汁。昨晩スーパーで買ったのに食べなかった、ほうれん草のおひたし。コンビニの卵焼き。いつかどこかで見た模範的な朝食のような姿をしているのに、その実態はまがい物ばかり。味噌汁を啜ると、化学調味料の薬っぽい味がして吐き気がした。それでももったいないからと全部を平らげて、一応お皿も全て洗った。少しでも、先延ばしにしたかったのかもしれない。

 机の上に放りっぱなしにしていた袋から、縄を取り出した。ホームセンターで買ってきた、細いけれど、頑丈な縄だ。ネットを開き、予めブックマークしておいたサイトを呼び出すと、それを参考に縄をカーテンレールに結んだ。それほど高くはないけれど、私の身長くらいなら背伸びをしても届かないだろう高さに輪っかができた。適当な高さのものが見つからず、仕方がないので幾つかの小説の単行本を積んで足場にした。輪っかが、目の前に迫る。今まで目を背け続けていたものが、確かな存在感を持って私に迫る。

 ――ああ、私は死ぬのだ。

 今まで、普通に生きてきたはずだった。本気で死にたいと思ったことなどなかったし、寿命がくるまで生き続けることを何の疑いもなく受け入れていた。けれど、家族が死んで、孤独になって、私は言い訳をするためにそうしていたのだと気づいた。家族に、特に両親に、私は貴方達からもらった命をきちんと全うしましたと、そう言い訳するためだけに。

 その家族がいないのだから、もう言い訳をする必要もない。

 輪っかを首にかける。どこかじわりと温かいその肌触りに寒気がした。全身が震えているのがわかる。綺麗に積んだはずの足元の本が、情けなく乱れていく。甲高い、引き笑いのような呼吸しかできなくなって、まだ首は締まっていないのに肺がどんどん痛くなってきた。

 気づいたら、私の足は本を離れていた。自分で蹴ったのか、それとも震えたせいで自然に崩れたのかわからない。縄の圧迫がすぐに始まって、いよいよの苦しさに気が狂いそうになった。絞首刑と違い、首吊りの自殺は一瞬で死んだりはしない。自分の体重によって締められた縄で気道と動脈が塞がって、気を失ってやがて死ぬのだ。柔道でキメられて気を失うときのように、むしろ気持ちよく意識がなくなっていくと参考にしたサイトには書いてあった。しかし、苦しみを感じる私の意識は、すぐには消えてくれなかった。思い切りが足りなかったのか。体重が足りなかったのか。考えようとしてみたけれど、徐々に考えることもできなくなってきた。

 そうして、ようやく苦しみからも解放されようかというところまで来て、突然私は床に膝から叩きつけられた。急激に広がった喉に命が流れ込んできて、激しく咳き込んだ。今まで生きてきてこんなにむせたことはないというくらいに。頭がカッと熱くなって、心臓が激しく鳴っていて、視界はぼやけていた。何が起きたのか、手探りで首に巻きついた縄を辿って、私はカーテンレールが壁から外れてしまったのだと悟った。縄は耐えられても、カーテンレールは私の体重に耐えられなかったのだろう。

 そこまで考えても、咳は一向に楽にはならなかった。背中を丸めて、喉と肺の辺りを両手で押さえて、何度も何度も咳をした。しかし、吐き出そうとする意志と同時に吸い込もうとする無意識が働いているみたいで、呼吸はちっとも上手くできそうになかった。

 繰り返し繰り返し咳き込みながら、ふと窓の外を見ると、さっきの蝉とまた眼が合った。途端、何故か涙が止めどなく溢れ出し、それで私はさらにむせた。

窓の外では、大粒の雨が降り続けていた。蝉の死骸が、乾いた身体が、雨水に浸食されていく。そんなことをされたって、蝉は生き返りはしないのに。ただ腐っていくだけなのに。

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