2 〜Lunatic Moon〜
――月に、憧れたことがある。
ずっと昔、夏川愛海は親を失った。
原因は餓死。
連続して発生した地震と、もともとの環境の悪さと、夏という季節と、戦争という最悪の条件がものの見事に重なって、彼女の故郷は壊滅状態にあったのだ。
ひび割れた建物。蒸発しきったくぼみ。死体を畑にして殖えていくハエ。
愛海もまた、その畑のひとつになりかけていた。
だけどそれにはまだ速い。彼女はまだ生きていたのだから。
とはいえ、飢えで骨と皮だけになり果てたその姿では、ハエの栄養にはなりえないのかもしれない。
――ハエにまで必要とされてないのかな……。
そんなことを思い、そんな絶望的な意識すら薄らいできたそのとき……。
月から、ウサギがやってきた。
そのウサギはご飯をくれた。
そのウサギは優しかった。
そのウサギはいつもいっしょにいてくれた。
そのウサギは名乗る――早水そら、と。
彼のなけなしのご飯を食べあさって、散々わがままを言って――いくらかの反抗期を過ぎたころには彼女は、これまでの諸行を思い出し……彼に頭が上がらなくなっていた。
もっとも、当のそらはそんなことに気づきもしなかったので、つけあがる心配は無かったのだが、そこが彼への好感度をさらに引き上げることとなる。
何より、そらは優しかった。
彼はたくさんのことを知っていて、面白い話も知っていて……。
彼女にとって、そらは――神様がくれた、たったひとつの贈り物。
彼と話すたび、笑うたび――
毎日毎日――彼を好きになっていく。
ある日、彼女は彼のことを「くーちゃん」と呼ぶようになる。
「何でくーちゃんなの?」
「だって『空』やったら、『空』とも読めるし、せやからくーちゃん。このほうがかわええし」
「…………」
「いや?」
「ううん。愛海の好きにしていいよ」
そう言われたことが、とても嬉しかったのを彼女は覚えている。忘れることなんてない。
それからの彼女の目標は、自分を磨くことだった。
彼が見劣られないよう、きれいになろう。
彼が見くびられないよう、もっと強くなろう。
彼に迷惑をかけないよう、もっとたくさん学ぼう。
彼に見限られないよう、もっと頑張ろう。
もっともっと。
もっともっと……。
いくら頑張っても、完璧とはほど遠かったかれど、そんなものはどうでもよかった。
彼に嫌われさえしなければそれでよかったのだから。
それなのに――
唐突に、そらは愛海から距離をおくようになる。
いつしか愛海を避けるようになっていた。
いつしか愛海のことを「夏川先輩」と呼ぶようになった。
いつしか愛海の部屋に入ってこなくなっていた。
その理由を、彼女は知らなかった。
たまらなく不安になったけれど、それをしつこく聞いて嫌われるのが怖かったから聞き出せない。
だけど不安はますます募るばかりで……。
そんなときに、事件は起きた。
突然、ゴミ箱が吹き飛んだのだ。
ちょうどそのとき、愛海はその近くにいて、まきこまれる形になってしまう。
いやな気分だった。
ベッドで寝たきりの生活。
一日おきに、自分が錆びついていくような感覚。
今まで積み上げてきたものが、がらがらと音を立てていくような虚無感。
もう駄目だ……。
いくら学んでも強くなっても、前の自分には届かない。
醜くただれた自分の肌は、治療のおかげで痛みを消されている。少し動いたところで、麻痺をのぞけば何の負担も無い。
だけど――ひどく痛む。
胸の奥が、きりきりと。
月明かりを浴びながら、愛海は静かに背中を丸めた。
――月の光が、重い。
周りで人が死のうと、自殺しようと、そんなものに恐怖は無い。興味もない。
粘菌による事件なんて、正直言ってどうでもいい。
ただ、彼に嫌われてしまうという不安だけが――たまらなく怖かった。
会いたいという感情に、もう会いたくないという思いが混ざり、最後でいいから一目だけでもという願いで内包し、もう終わらせてしまえという絶望が包み込んでくる。
ぐるぐると回り、ぐつぐつと煮えたぎる感情に振り回されているせいで、愛海の夜はひどく長い。とても苦しい。
それなのに……。
こんこん、と音がして、愛海は窓のほうを振り返る。
五階の窓から身を乗り出す影が、なつかしさとともに愛海の瞳に飛び込んできた。
「どうして……」
それなのに……。
そんなときに、ウサギは月からやってくる……。