9 〜Myxogastria〜
「――以上。5年前の事件でした、と」
少年は、話し終えたとばかりに重いため息をついて、立ち上がった。
学校制服と思われるブレザーの上に白衣。
シャギーの入った猫っ毛。ほんの少し目尻の下がった丸い瞳に、小さな唇。
ほっそりとした体つきは、一見すれば女の子に見えなくもないが、れっきとした少年である。
神徒科学専門学校生物学科の生徒――早水そら。
それが彼の名前。
場所はガラス張りの庭園――木々や花々に囲まれた、芳醇な酸素でいっぱいの楽園。
植物愛好会の部室である。
内側には教室一個分の空間があって、そこに机と研究用の機材、そして椅子が転がっている。
そこを少年――そらはこつこつと歩いて、冷蔵庫に向かって歩いていく。
背筋をピンと伸ばしたその姿は、科学の徒と呼ぶにふさわしい雰囲気をまとっている。
その科学の徒の背中に、声が投げかけられた。
「……それって、何だったんだよ?」
椅子の背もたれに腹をくっつけている少年だった。
そらとは対照的にブレザーの袖をまくっていて、下を勝手に規定のスラックスからジーンズに変えているし、肩甲骨までのばした髪をうしろに束ねている。
似たもの同士とでもいうのか、かわいらしい顔つきと華奢な体つき。そのくせ背が低くて、そらよりもずっと女の子っぽい。格好と口調でせめて男の子っぽくしているが、あまり効果はなさそうだ。
そらの友達こと、赤土陸緒。
陸緒の疑問にそらは答えてくれた。
冷蔵庫の前にしゃがみ、その戸を開けながら。
「粘菌だよ。黄色い粘菌」
変声期前のボーイソプラノが軽やかに響く。
「……粘菌?」
陸緒は、聞きなれないその言葉に眉をひそめる。彼の専門は機械工学――主にエンジンの分解と組み立て――なのだ。
「学術名・ミクソガストリア。分かりやすく言うならアメーバ……みたいな?」
まるでお子様に話しかけるみたいな(そらにその自覚なし)物言いに、陸緒はほんの少しむっとする。
「俺、いちおうここの生徒だぜ? 馬鹿にしないで、もう少し詳しく言ってくれよ」
言われて、そらはうーんとうなりながら説明をはじめてくれた。
「種類は下等菌類。胞子で増殖する植物的要素と、キノコや微生物を捕食するという動物的要素をあわせもつ特異性。生息地は湿度の高い山中で、枯葉や朽木の表面にあることが多い。人間は、一個の細胞に一個の細胞核しかないけど、粘菌の細胞には、細胞核が数億個は存在する。それに――粘菌には独特の情報伝達システムが存在するんだ。複雑怪奇な迷路の出口にエサを置くと、入り口から最短ルートで渡り歩くことができるんだ。頭や尾もない、ましてや脳みそすらないアメーバが、ね」
「…………」
専門用語の羅列をひたすら噛み砕いて、なにやら難しい顔をしていた陸緒は、ようやく口を開いた。
「……つまりアメーバか。最初からそう言えよ」
「…………。なんで汗たらして目をそらして棒読みなの?」
うるさいやい、と陸緒はつぶやいた。
そらは苦笑して、冷蔵庫の中から空のビーカーとマヨネーズをとりだした。
そのまま机に戻って、科学実験用のアルコールランプに火をつける。
三脚の上に敷かれた網が熱を帯びる。そらは――やはり科学実験用の――長いピンセットで、【あるもの】をつまんで網の上に置く。
黒こげた網の上で、じゅうじゅうと音を立てる【あるもの】。
陸緒は、しばしそれを見つめて、あきれたようにつぶやいた。
「……アルコールランプでベーコン焼くか? 普通……」
植物庭園のど真ん中にたちこめる、アンバランスな肉の匂い。
「いーじゃない。おなかすいてるんだから」
「塩分と油分の摂りすぎだっつーの。野菜摂れよ」
――肉好きの植物学者というのはどうだろう、と陸緒は思う。いや本当に。
「粘菌って、焼くと肉みたいな食感なんだってさ」
「試したくねーよ。そんなネバネバのバイ菌なんざ」
陸緒の愚痴などなんのその。
ビーカーに注がれたオレンジジュースを口にしながら、そらはほくほくと【三時のおやつ】をつくっていく。
楽しそうに鼻歌を口ずさむ白衣の生徒を見つめて、陸緒はふと、疑問を口にした。
「……5年前の連中って、どうなったんだ?」
それは、なんてことのない興味だった。
ちょっとした好奇心だった。
だけど……その言葉にそらの声はかすかに沈む。
「……死んだよ」
「……!? ……原因は?」
呪いか?
恐怖による自殺か?
それとも――?
原因は、そのいずれにもあらず。きわめて現実的で科学的な症状だった。
「……脳血栓。【菌】を吸い込んで感染したんだ」
――感染。
血中に菌が入り込み、それがやがて脳に達する。
結末は――死。
しかし、まだ未熟な少年たちは知らなかった。
まだ研究途上である粘菌の――知られざる特性を。
これから始まる物語は、その粘菌によって繰り広げられる狂気と悲劇のドラマである……。




