#01 「死亡と出会い」
―――トントン。
ボクはハッとした。
深夜まで本を読んでいたら、ボーッとしていたらしい。
部屋の戸が叩かれている事に気がついていなかった。
「起きているかい?」
ノックしてきたのは父だった。
部屋の外からボクの様子を伺っていた。
戸を開けずに何か続きを話す。
「……もし寝ていたら悪いんだけど。また、前みたいに元気な顔を見せてくれないかな。あ、もちろん君の気が向いた時だけでも良いから」
それだけ。
それだけを言い残して。
父はゆっくりと階段を下りていった。
足音が完全に消えてから、ボクは深い息を吐いた。
時刻は深夜一時。
子供の部屋を訪ねてくるには遅い時間と言えるが。
部屋の明かりは廊下まで零れているので、ボクが起きていた事は父も分かっていたはずだ。しかし、それでも父はボクの部屋の戸を開かなかった。少なくても、ここ数年は記憶がない。
「……実の息子に、君、ね」
再び深くため息を吐いてから、ボクは読んでいた本を閉じていた。
本は、あの名探偵シャーロックホームズの短編集である。それを和訳順に並ばせていた。ボクにとって新和訳は読みやすく、時系列を考察するのも楽しめるのは旧和訳という感じであった。
どっちも好きだ。
幼い頃から幾度となくボクを楽しませてくれた。
『推論』という、この世で最もクリアな世界を教えてくれる切欠でもあった。事実のみを積み上げて未知の結論を導き出す。その無駄のない効率的な作業は一種の芸術性さえ感じさせた。
いつか自分も探偵になってみたい。
そう思った。
ただ今は、それらの本も色褪せて見えた。
過去、どれほど楽しませてくれた名作であろうと、今の気持ちが晴れる事はなかった。それほど自分の家にいると息が苦しくてしかたなかったのだった。
※ ※ ※
深夜、眠れずにボクは家を飛び出していた。
真っ黒な空。
街灯の明かりぐらいしか足下の見えない冷えた世界。
息を吸うと、それだけで新鮮な空気が肺を満たしてくれるようであった。
実家の近くには高速道路が通っている。
大型トラックがひっきりなしに爆音を奏でていた。
しかし、それでも家の中にいるよりかは清々しい気分だった。
―――父がああなったのは、ボクが10才の時だ。
隠れて『ネズミ講』を行っていた母親が、逮捕される直前に家族を捨てて若い間男と海外に逃亡してしまったのだ。軽いお小遣い稼ぎと言っていたのに、裏では「投資すれば儲かる」と父の知人を騙していった。
幼心にも記憶しているのだが、ずっと優しかった母だけに父はショックが隠せなかったらしい。何日も寝込んでしまっていた。
この時、父の中で歯車が狂っていたのだ。
その後、持ち直した父は経営していた小さな会社が倒産しようが、全ての騙された人にお金を返して回すようになっていた。それでも足りなかったので仕事を2つ、3つ仕事を掛け持ちして借金を返そうとした。ボロボロになろうとも止まらなかった。
そんな悲しい父の後ろ姿を見て、家族でもあるボクもバイトをして家計の足しにしようと思うようになっていた。
だが、それが発覚した日、ボクは初めて父に殴られそうになったのだ。
正直、意味が分からなかった。
どうして怒っているのか理解はできなかった。ただ、少しでも手助けになればと思ったのに、父は「お前までバカにするのか!」と襲いかかってきたのだった。
このままでは殺されると思いボクは逃げ出した。
そして、何日か友達の家を渡り歩いた後、何となく家に戻ると父は何ごともなかったかのような態度で待っていた。まるで、襲った事など無かったかのように振る舞ったのだった。
ただ、それからボクに対して敬語を使うようになっていた。いつも腫れ物を扱うようにビクビクと此方の反応を伺うようになっていたのだった。もう許すから普通に接してくれと頼んでも、父は変な笑顔を作るだけであった。
どうすれば良かったのだろうか。
どうすれば。
―――カッ。
それはボクが悩みながら外を歩いていた時であった。
気がつけば壁ほどの大きな何かがボクに差し迫っていた。
もう手を伸ばせば届くほどに。
一瞬で。
強い光は接近していたのだった。
ボクは死後に推論する。
この時、ボクに衝突してきたのは大型トラックの暴走だと思われる。
深夜になると高速道路の料金が値下がりする。
その順番をいち早く通り抜けようと、競争する運転手が後をたたなかった。
時には乱暴なトラックの運転で、ガードレールが大きくヘシャゲていた。
要するに、それが偶々ボクの所にきたのだろう。
簡単な推論だ。
当人であるボクは、それを理解する前に死んでしまったが。
※ ※ ※
あー。
しんでしまうとはなさけない。
ボクは、どこかで聞いた事がある台詞が頭の中で回っていた。
―――ツンツン。
父ともう一度やり直したかったけれど。
それも適わないのか。
どうせだったら、いっその事……。
ツンツン。
ツンツンツンツン。
ツンツンツンツンツンツンツンツンツンツンツンツン。
って、しつこいな。
「何なんだよ!」
ボクはガバッと身体を起こした。
ツとンって沢山並んでいると、どっちが、どっちだか。
読みにくいわ。
と、続けて叫ぼうとしていた。
だが、身体を起こした、という自らの物理的な事実を前にしてボクはハッとしていた。
恐らく大型トラックと衝突したのに?
信じられなかったボクは、思わず手をグーとパーを繰り替えした。
そこには痛みなんてない。無傷だったのだ。
え、今までの夢?
ボクは呆然と手を見詰めるしかできなかった。
すると、その時、女の子の声がしたのだ。
目の前から、とても小さな声であった。
「ねえねえ、アンタなにしてるの?」
くりっくりの丸い瞳。
ニコニコした笑み。
しなやかで、艶やかな身体。
クリスタルのように透き通ってる瞳と―――羽。
そして何より。
ボクにツンツンしてきたのは、鼻頭に立てる程、小さな身体の女の子であった。
この世で、唯一、どんな探偵でも推論できない現象が存在する。
それは奇跡だ。
物理と統計と心理傾向を元に推察したとしても意味をなさない。
天と地を作れるほどの現象は、生命の理解を超えている。
だからって訳じゃないが。
目の前に妖精のような少女が立っていたとしても、それをボクは認める事はできなかった。
「おーい、少年。寝てるのかな」
しかし、今確実に妖精はボクの鼻頭を足でツンツンしているのだ。
コレをなんと表現すれば良いのだろうか。
ボクは言葉が頭に浮かばなかった。
「死んでるのかな」
―――妖精キック。
「痛いわ!」
「おわ、やっぱ生きてた」
「何するんだよ」
「きしし。私が話し掛けてるのにムシするからだよー」
ボクの鼻をけっ飛ばした妖精(まだ認めた訳ではない)はフワフワと空中を飛んでいる。
手に包めるほど、とても小さい身体なのに。
いたずらっ子のような笑みを浮かべているのが印象的だった。
これが妖精リップスとの出会いであった。