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3.憑かれた男子中学生A

 大人しい人柄は頭がよさそうという好印象とイコールにされやすい。

 事実、大人しくてインドアな俺も「あまり友達と遊ぶことがないのだからその分勉強ができるのだろう」と単純な人達からそう捉えられた。しかし現実はそんなに優しくない。俺は過大評価も過小評価も抜きで、本当に中の中程度――つまりは平均的な頭脳の持ち主で、そこからどう努力しても上の下くらいの成績にしかならない。それでも日月学園の中ではぎりぎり上位に食い込んだ。そのため周囲からは大人しく、そこそこ頭がいいというイメージで定着した俺だったが、それは窮屈な日々でしかなかった。

 試験の点数が上がれば両親も教師も「やっぱりこれくらいできるじゃないか」と当然のように誉めてくれたが、逆に少しでも下がれば「調子が悪かったのか?」と俺を心配する。つまり俺は、いつもそれなりにいい点数を維持しなければいけない状況だった。

 家にいるときは提出課題以外に予習も復習もきちんとやった。そうしている間にテレビやインターネット上での話題を楽しげに話すクラスメイト達についていけなくなった。

「飛鳥は秀才だな」

 誰もが俺にそう言った。父さんも母さんも姉貴も、教師も友達も。別に俺は秀才になりたかったんじゃない。もっと姉貴みたいに自由気ままに生きてみたかった。それでも、皆の中にある首藤飛鳥という像が俺を束縛する。まるで秀才という檻から出さないように、しっかりと俺を繋ぎ止めていた。臆病な俺は自分自身のことなのに、皆の中にある自分の像を壊してまで自由になろうと決心できなかった。周囲に共通する俺のイメージを壊したところで、もし受け入れてもらえなかったらと思考が後ろ向きになる。

 だからこそ必死に蓋をして隠し通していたが、俺は薄々と感じていた。この悩みは、ある一つの、たった一回の物事が発生しただけで、簡単に蓋が外れてしまうことに。

 そして突然そのときはやってきた。

 中等部二年の二学期、数学の中間試験で俺は初めて平均点以下の点数を取ってしまった。

「今回は珍しく調子が悪かったな、首藤。気を抜いたのか?」

 脂ぎった中年男性の数学教師は苦笑いを浮かべ、俺にそう言った。

「…………気を抜いたんじゃ、ないんです」

 たったそれだけの言葉を発するのに、どれほど吐き気に近い不快感を抑えていたのか、きっと俺以外の人間は誰も知らないだろう。

 その日その瞬間、確かに俺の中で音を立てて崩れていくものがあった。今まで意識もせずに積み重ねてきた、学園ではそれが全てだった俺の世界が、崩壊したんだ。

 学園での世界が崩壊した俺は、もう二度と登校したくなかった。だから自分の部屋から出ることすら放棄しようとした。できることならずっと部屋の中にいて、静かにひっそりと死んでしまいたいとすら思った。だが、そんなこと上手くいくはずがない。

「おい飛鳥。なんで降りてこないんだ。母さんも弥生も待ってくれてるんだぞ」

 夕食の時間になると、案の定父さんが咎めに現れた。学園から帰宅して自室にこもり、数時間しか経っていなかった。俺には孤独になることも許されていなかったのか。そう思うと、ふつふつと怒りが込み上げる。

「ちゃんと聞いてるのか、飛鳥」

 父さんの暑苦しい説教などは全く耳に入らず、俺はただ苛立っていた。父さんに対してだけでなく、この理不尽な世界にも心の底から苛立ちを感じる。そんな俺の心情を察することもできず、父さんは「その反抗的な態度はなんだ」と俺に怒鳴り散らし、挙句の果てには手を上げようとしてきた。

 あ、殴られる。

 そう認識した瞬間、反射にも等しい速さで俺の身体は動いた。

「…………えっ」

 父さんの右腕が振り下ろされるより先に、俺の右手が、父さんの顔に命中した。当たり所が悪かったのか、父さんは電池が切れた玩具のように気絶してしまった。

 普通じゃない。

 何よりも先にそう思った。俺は運動が得意ではない。ただ大人しいという印象で通っていた男子中学生だ。こんな、ろくに筋肉のついていない腕一本で成人男性を気絶させられるわけがない。にも関わらず、それは起こった。

 これは異常だ。これを起こしたのは俺ではない。俺の右腕が起こしたのだ。異常なのはこの、普通じゃない右腕だ。俺じゃない何か、悪魔のようなものが――。

「悪魔が憑いたんだよ」

 ぽつりと呟けば、公式に数字を当て嵌めて解答が導き出されたときのような爽快感があった。そう、この異常な出来事は俺の右腕に憑いた悪魔が引き起こしたんだ。

 俺は好機であると考えた。悪魔が憑いてしまったのならば部屋に引きこもることができる。これから学園に行かなくて済むんだ。

 重たい父さんを部屋の外に運び出し、俺は再び部屋にこもった。姉貴と母さんには、部屋の中から俺の右腕に悪魔が憑いたと必死で訴えた。すると家族はあっさりと俺に近づかなくなった。精々飢えないようにと姉貴が食事を部屋の前に置いてくれる程度の付き合い。

 そうして、俺の閉じた世界が完成した。

 ほんの少しだけ寂しくなるときもあるけれど、この世界は安全だ。



 目が覚めると、真っ先に家族以外の人間が視界に飛び込んできた。

 少女だ。小学生くらいの女の子。体育座りで頬杖を突き、俺を見下ろしている。やけに長い黒髪は床について、何故か姉貴と同じ日月学園高等部の制服を着ていた。

「…………誰」

「おはよう、飛鳥くん。目が覚めたみたいだね」

 その口調や声はフランクで口元は緩く弧を描いていたが、黒目がちの目は笑っていなかった。その瞳は激しい落胆の色を感じさせる。どうしてそんな目で俺を見るのか、と少なからず疑問に思ったがどうでもいいことだ。

 俺の大切なこの世界を侵そうとする存在は許さない。

 すぐに手を床に突き、立ち上がろうとして――両手も両足も動かないことに気づく。

「なっ」

 視線を動かすとその原因がわかった。両腕は後ろ手に回され、両足は真っ直ぐ伸ばされた状態で、白いビニールの紐を何重にも使ってきつく縛られている。そして両足を縛った紐はベッドの足に結びつけられていた。少女を見ると、相変わらず体育座りで頬杖を突いている。こんな幼い少女が何を目的にこんなことをするんだ。空き巣か、頭のおかしい猟奇的な殺人犯だとでも言うのだろうか。

「きみの右腕を調べさせてもらったよ」

 少女の言葉に俺は耳を疑った。何故この子が俺の右腕について知っている。

「何の変哲もない、普通の腕だね」

「普通の腕じゃない!」

 とっさに俺は叫んだ。この右腕には悪魔が憑いているのだから、普通であるわけがない。

「いいや。間違いなく普通の腕だよ」

 少女は続ける。

「事実、今のきみは自分を拘束するその紐を引き千切ることができないじゃないか。ちょっとは期待していたんだけど、残念なことにきみは相当レベルの低い悪魔憑きみたいだ」

「何、言ってんだよ……」

 少女はそこで憐れむような笑みをこちらに向けた。年下からひどく馬鹿にされたような気分になり、苛立った俺は大声で怒鳴る。

「おい! さっさとこの紐を解いて、出ていけ!」

「紐を解くのは後にしよう。飛鳥くんは悪魔憑きで悩んでるんだよね?」

「それが事実だとしてお前に解決できることじゃない!」

「解決できるよ」

 あっけらかんと、さも当然のように少女は言った。

「う――嘘だ」

「どうしてそう思うの」

「お前みたいな奴に、悪魔憑きを治せるわけがないだろ」

 彼女は妙に大人っぽい雰囲気をしているが、見たところはただの十歳くらいの小学生だ。悪魔祓いができるエクソシストなどには到底思えない。

「誰も治すなんて言っていないよ」

「え?」

「飛鳥くんの悪魔憑きは治せない。恐らくは私だけじゃなくて、他のどんな人にもね」

「だったら」

「ただ」

 俺の言葉を遮り、少女は体育座りをやめて幼い顔をこちらに近づける。

「私はきみの問題を解決することができる。今からそれを実行するんだよ」

「…………っ」

 思わず少女から目を逸らしたそのとき、見慣れないものが目に留まった。床にこびりついた赤い汚れ。その上に転がっている白い小石みたいなそれは、人の歯だった。

「あ、ああああああああ……!」

 思い出した。この少女の歯だ。俺が殴った拍子に折れたのか、少女が口から吐き出したものだ。そうだった。すでに俺はこいつを攻撃したんだ。悪魔の憑いた右腕で、何度も何度も殴った。それなのに彼女は何度も何度もゾンビみたいに立ち上がって――――。

「飛鳥くん、大丈夫? ほら深呼吸して。そんなに興奮しなくていいんだよ。きみに折られた歯のことは気にしていない。もう生え変わったからね」

 少女は口を大きく開け、唇の左端を指で引っ張った。生々しいピンク色の口内が露わになる。しかし、どこの歯も抜けていない。何故だ。俺の右腕は最初、確かに彼女の左頬を強く殴った。だから、あの吐き出された歯は左側にあった歯のはず。それなのにどうして。

「なんで、なんでお前、歯が」

「私のことよりも自分のことを気にしなよ。何か質問があるんだったら、答えてあげる」

「な、なら」

 口の端に泡を作る唾を飲み込むと、ごくりと大きな音がした。

「どうして俺を縛ったんだよ。これから何をするつもりだ」

「きみの右腕を切り落とす」

「……………………え」

 一切の迷いも淀みもなく、さらりと少女は言った。あまりにも平然と言われたものだから、俺は彼女の言ったことの意味が即座に理解できなかった。

 キミノミギウデヲキリオトス。

 俺の、右腕を、切り落とす?

「ど、どうして」

「どうして、って。だって飛鳥くんの右腕には悪魔が憑いてるんでしょ?」

 いつの間に取り出したのか、少女の右手にはナイフが握られていた。バタフライナイフじゃない。もっと大きくて頑丈そうで、狩猟に使われるようなハンティングナイフ。

「うあ、あ、ああああああああっ!」

 俺は全身の力を総動員させて、可能な限り激しく暴れた。この子は、本気で俺の腕を切り落とす気だ。それが冗談でも脅しでもないことは、少女の目とナイフを見ればすぐにわかった。暴れた弾みで縛めが緩まることを期待したが、きつく食い込んだ紐は一向に緩まない。そうしている間にも少女はナイフを少しずつ俺に近づける。

「や、やめてくれ」

 俺は震える声で少女に訴えた。ぴたり、とナイフの切っ先がこちらに向いたまま止まる。

「やめてくれって、何を?」

「お、俺の腕を、切り落とすのをやめてくれ」

「どうして? その右腕に悪魔が憑いていて、悪さをするからきみは困ってる。その情報に間違いはないはずだ。だったら悪魔が憑いた右腕そのものを消せばいいんだよ。これが一番手っ取り早くて確実な解決方法だからね」

「き、利き腕を切り落としてまで、治したいなんて思わないっ」

「それはきみ一人の意見に過ぎない。飛鳥くんの家族は何としてでも悪魔憑きであるきみが救われることを願っているんだよ」

 ついに少女の小さな左手が俺の右腕を掴んだ。続いてナイフが、右肩のすぐ下辺りに当てられる。ぶわっ、と全身の肌が粟立つのを感じた。この子は本気だ。本気で俺の右腕を切り落とそうとしている。

「ひっ」

 怖い。怖い怖い怖い。この少女が怖くて堪らない。今まで感じたことのある恐怖なんてこれに比べれば何でもない。これが本当の恐怖だと言うのなら、今まで俺は一度も恐怖なんて味わっていなかったんだ。心臓が破裂しそうなほどに早鐘を打ち、全然寒くないはずなのに全身ががたがたと震える。

「いや、嫌だっ! やめて! お願いだからやめて! 助けて!」

 俺は声を張り上げ、年下の少女に必死で懇願した。もう恥も外聞もない。

「もちろん助けるよ。そのつもりで私はここにいるんだから」

「あ、あ……っ」

 優しい声で何を言っているんだ。本当に同じ人間の言語なのか疑いたくなる。

「嘘! 嘘なんだよ!」

「何が?」

 頭で考えるよりも先に俺の口は捲し立てた。

「悪魔が憑いたっていうのは嘘なんだ! 全部俺が、俺が自分でやったことなんだよ! 父さんを殴ったのもお前を殴ったのも俺がやった! 学園に行きたくなかったから、この部屋にずっとこもりたかったから、それで嘘をついたんだよ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 許してください! お願いします! 右腕に悪魔なんて憑いてないから切り落とさないでくださいっ!」

 こんなに真剣に謝ったのは生まれて初めてかもしれない。軽く酸欠になり、咳き込んでいると右腕からナイフの感触が離れた。許してもらえた。そう思うと、安堵の息が出る。

「…………やっぱり悪魔憑きは恐ろしいものだね」

「えっ」

「右腕だけと思っていたけれど、もう意識まで悪魔に乗っ取られてるのか」

「…………は、ぁ?」

 今、彼女は何と言った?

 まさかあれほど真剣に誠意を込めた言葉すらも、悪魔の発言だと捉えているのか?

「う、嘘じゃない! 本当のことだ! だから、もう」

「でも安心して、首藤さん。悪魔が憑いた部所を切り離せば、ちゃんと元に戻るから」

 そう言って少女は首を後方に捻った。彼女の視線の先を追うと、開いた扉の向こう側に姉貴が佇んでいる。じっと俺達を見る姉貴に俺は叫んだ。

「姉貴! 助けて!」

 早く、この頭のおかしな少女に言ってほしい。俺の右腕を切り落とすことを止めるように言ってほしい。家族の中では一番仲がよかった姉貴だ。俺のことを助けてくれるはず。

「それで、飛鳥の悪魔憑きは治るんだよね?」

「あね、き……?」

「治ると言うには少々語弊があるけれどね。とりあえずは元の飛鳥くんに戻るよ」

「それじゃあ、お願い無々篠さん。もうこれ以上飛鳥が苦しむところ、見たくないから」

「あ……姉貴。何言ってるんだよ」

「あとは頼むね、無々篠さん」

 ばたん、という扉を閉める音が大きく聞こえ、姉貴の姿は見えなくなった。

「なんで」

 なんで俺の言葉より、この少女の言葉を信じるんだ。十年以上一緒の家で暮らしてきた肉親なのに、俺を信じてくれない。そんなのおかしい。

「どうしてきみの言葉がお姉さんに届かないか、わかる?」

 少女が囁くように問いかけてきた。

「飛鳥くんが悪魔憑きになったことで、一番壊れたものは何か考えてみなよ。きみが最初に傷つけた父親、首藤家の世間体、そんなものじゃないことくらいわかるはずだ。一番壊れたものは、きみの家族の心じゃないのか」

「俺の、家族の、心?」

「さっきのお姉さんを見たでしょう。先月から初めてクラスメイトになったばかりの私を安々と信じて、きみの言葉には耳も貸さなかった。彼女はもうとっくに壊れてるんだよ。実の弟である飛鳥くんの言葉が届かないほどにね。……弟の腕が切り落とされようとしているのに、それを容認してしまうなんて壊れてるとしか言いようがない」

 少女の右手が、ナイフを握り直す。その様子は俺の目に溢れてきた涙でぼやけた。

「本当に性質の悪い悪魔憑きだよ、飛鳥くん。きみが壊したものはあまりにも大きい。その報いは受けるべきだ。最後に教えてあげよう。――安易に悪魔憑きを騙るような悪い人間のもとには、怒った魔女が現れるんだよ」

 そして、彼女は動いた。

 

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