2.《魔女》
放課後になれば生徒は各々掃除や部活動を始める。しかし今週の掃除当番ではなく、なおかつ帰宅部である私のような生徒だけは例外だ。
明治時代からの長い伝統を持つ日月学園には現時点で五十種類もの部活動や愛好会が存在するらしいが、私はこの学園に入学したとき、つまり中等部一年生のときからどこにも所属していない。そのため今日はHRが終わるとすぐに下校という、無味乾燥な予定のはずだった。少なくとも、クラスメイトの首藤さんに話しかけられるまでは。
「あ、あの……無々篠さん。ちょっといい?」
「何」
私は首藤さんを一瞥して教室から出た。慌てた様子で首藤さんは自分の鞄を取りにいき、すぐに私のもとに戻ってきた。しかも行く手を阻むように。なかなか迅速な行動だ。
「話があるの」
「私にはないよ」
「そ、そうかもしれないけど」
「じゃあ、さよなら」
私が横を通り抜けようとすると、首藤さんは両手で私の右腕を掴んできた。
「待って!」
ただクラスメイトというだけで、特に友人でもない首藤さんのために時間を割くほど私は優しい人間じゃない。そのことを教えるための我ながら冷たい対応だったが、彼女は特に怒り出す様子も悲しむ様子もなく、ひたすら懇願の表情を浮かべている。
「お願い。話だけでも聞いてくれない……?」
「急いでるんだ。悪いけど、話はまた今度の機会に」
今度の機会なんて当然作らないつもりだが、嘘も方便。このくらいの嘘を平気でつくのが人間だろう。それにしても周囲からの視線がちくちくと不快だ。私はそれほど力強く掴んではいなかった首藤さんの手から逃れ、さっさと階段を下りようとした。
「悪魔憑き」
それはとても小さな声だったが、私の足を止めるには十分な威力を持つ言葉だった。私は振り返って首藤さんを見上げた。悲壮感を押し込めたような暗い目をしている。
「弟……私の弟に、悪魔が憑いたみたい、なの」
弟という言葉で真っ先に思い浮かんだのは、三つ年が離れた私の弟。この学園とは別の中学校に通うあいつも全ての授業が終わって、もう下校している頃だろうか。そう言えば前に弟からこの学園に近い喫茶店の割引券を貰ったんだっけ。使用期限は確か、今日まで。
「話を聞くよ。喫茶店でいい?」
私の言葉に首藤さんは表情をぱあっと明るくして、大きく頷いた。
約十分間の移動中はお互いずっと無言だった。
ショットバー風の趣向を凝らした喫茶店『ミケシュ』の奥まった席に座り、私は割引が使える苺のミルクセーキを注文した。首藤さんが三分ほど悩んだ末にオレンジジュースを注文し、ウェイトレスが去ったところで切り出す。
「それじゃあ弟くんのことを詳しく話して」
「あ、うん……。まずは写真、見せるね。昨年の一月に撮ったものなんだけど」
そう言って首藤さんは携帯端末を取り出し、写真を表示した。雪が降る自宅の庭らしき場所を背景にして、恐らく二人で作ったのだろうと思われる雪だるまを間に挟み、笑顔の首藤さんとその弟らしき少年がピースサインをしている。ぎこちない微笑を浮かべた少年は目の辺りが首藤さんと似ているが、姉とは違って眼鏡をかけていた。あまり外で遊ぶような子じゃないのか色が白く、全体的に細身。柔和な顔立ちで文学少年っぽい。顔を見た限りでは私の弟の方が断然可愛い、と比較してしまう。
「弟は同じ学園の中等部三年生で、十四歳。名前は飛鳥。ちょっと面白いでしょ」
「何が?」
「弥生時代と飛鳥時代。間に一つ、時代が開いてる」
全く要領を得ず、私が小首を傾げると首藤さんは怪訝そうな表情になった。
「えっと……もしかして私の名前知らない?」
「知ってるよ。首藤さん」
「そうじゃなくて、名前。ファーストネームのこと」
「ああ、確かにそっちは知らない。それより首藤さんで正解だったんだ? 正直自信なかったんだよね。私、まだクラスメイトの名前と顔が完全に一致してなくて」
「ひどいよ無々篠さん」
そう言って首藤さんはわかりやすく肩を落とした。
「私は先月、体育で忘れたタオルを拾ってもらう前から無々篠さんのこと知ってたのに。余計なお世話かもしれないけど、クラスメイトくらい覚えた方がいいよ」
「だってまだ五月じゃない」
「もう五月だよ。クラス替えしてから一ヶ月経ってる」
昔から興味のないことに関しては著しく記憶力が低下する私にとって、一ヶ月間で約三十人分の名前と顔を覚えられるなんて尊敬に値することだ。
「失礼かもしれないけど、無々篠さんって友達いるの?」
「何が失礼なのかはわからないけど、いるにはいるよ。ほんの数人だけ」
「あ、そうなんだ」
これは事実だ。そもそも日月四天王なんて馬鹿っぽい総称を他人様から与えられた私達は、あまり人から好かれない、という共通点がある。友人が少ないのは当たり前だ。だがその事実に悲観していないのは、四人ともあまり友人という存在に執着する性格ではないからだろう。これも共通点かもしれない。
「私の名前は弥生、弟が飛鳥。初等部で歴史を習い始めた頃には、よくからかわれてたの」
「ふうん。そんな余談は置いといて重要なところを話してくれるかな」
「結構歯に衣着せない人なんだね、無々篠さんって」
そこで注文した飲み物がさっきと同じウェイトレスによって運ばれてきた。それぞれストローで一口飲み、さっきより小声で話を元に戻す。
「多分なんだけど、飛鳥が悪魔憑きになったのは半年……いや七ヶ月くらい前だと思う」
「そのときのこと、覚えてる?」
「うん。よく覚えてるよ」
そう言って首藤さんは両目を閉じた。
「飛鳥はあの見た目からわかるように幼い頃から大人しいインドア派なんだけど、決して部屋に引きこもるような子じゃなかった。ただ休日は同年代の友達と遊びに行くよりも家か図書館で過ごすことが多かったよ。課題以外にも予習復習を毎日しっかりするような……私に似ず秀才で、それ以外は普通の子だったと思う」
「続けて」
「昨年の十月中旬だったかな。私の家では家族皆で夕食を取る決まりがあって、でも、その日は飛鳥が二階から降りてこなかった。いつまでも部屋から出てこなかった。何回も声をかけてみたんだけど、返事すらなかったんだよね。だから父さんが飛鳥の部屋に行ったの。家での決まりごとにはちょっと厳しいから、叱るつもりで。……でも、その後突然大きな音がしたの。何の音かはわからなかった。急いで二階に駆け上がった私と母さんが見たのは、顔に大きな痣を作って気絶してる父さんの姿だった」
私は黙ってミルクセーキを飲む。初めて注文したものだったが、思っていたよりも程よい甘さでなかなか美味しい。
「父さんをそんなふうにしたのは、飛鳥だった。でも、本当は飛鳥じゃなくて」
「悪魔がやった、ってこと?」
「そう。部屋からは飛鳥の泣き喚くような声が聞こえた。あの子が泣いてるなんて、初等部の頃以来だからあまりにも久しぶりだった。そのとき《俺じゃない。俺の右腕が勝手にやった》って言ってたの。《右腕に悪魔が憑いた》って」
「右腕に?」
「飛鳥はそう言ってた。そのとき、私が部屋の扉を開けてすぐ飛鳥に閉められたんだけど、ちらっと見えた飛鳥の右手は大きく腫れていた気がする」
「………………」
右腕に悪魔が憑いた、か。なんだかダークファンタジー漫画の主人公にでもいそうだ。
「そんな悪魔憑きの事象は今まで聞いたことないけど、単純に私が出会ってないだけかもしれないね。実際に飛鳥くんを見てみないことには何とも言えない」
「そっか」
首藤さんの話に価値はあるが、それに全て頼ることは命を縮める行為と同じだろう。人が語る情報に正確な情報などない。大抵の人は全てを自らの主観で語るからだ。最終的には自分の得た情報を自分で整理し、自分で判断しなければいけない。それが人の話を聞くときに自分が持つべき最低限の責任だろう。
その後も私は首藤さんから飛鳥くんの情報を色々と聞いたが、有益な情報はほとんどなかった。とりあえずわかったのは現在飛鳥くんが引きこもりの状態で、昨年の十月以来自室から出てくることは滅多にないということだ。
「それで、あの……えっとね」
「何」
「無々篠さんには、飛鳥を助けてほしいの」
「いいよ」
「本当に!?」
突然大きな声を上げた首藤さんに店中の視線が集まった。しかし彼女はその視線を気にする様子もなく、今にも泣きそうだが笑っているという微妙な顔になった。
「ありがとう。そう言ってくれて、すっごく嬉しい」
「まだ助けてないんだから、お礼を言うには早いよ。じゃあ、そろそろ行こうか」
ミルクセーキのグラスを空にして、割引券と伝票を片手に席から立ち上がる。まだオレンジジュースを半分近く残している首藤さんはきょとんとした顔で私を見た。
「さっそく悪魔憑きの飛鳥くんと対峙させてほしい」
「で、でも大丈夫? 私は構わないんだけど、無々篠さんの準備とか」
「準備って何の」
「十字架とか、聖書とか聖水とか」
あまりにも素人丸出しな発言に思わず笑い出したくなったが、失礼だろうから一応堪える。どうやら首藤さんは《魔女》と呼ばれる私とエクソシストを混同しているらしい。
「私がそんなものを使って、悪魔と戦うとでも思ってる?」
「えっ、違うの?」
「あくまで私個人のやり方だけど、基本的に悪魔憑きの問題は示談で解決するんだよ」
ぽかんと口を開けた首藤さんに背を向け、私は自分の分だけ支払いを済ませた。
首藤さんの家に到着するまで喫茶店『ミケシュ』から十五分足らずだった。徒歩通学ができるなんて、電車通学の私には少々羨ましくもある。
「どうぞ。両親は共働きだから、今いないんだけど」
「いや、そっちの方が都合いいよ。お邪魔します」
すぐに二階の飛鳥くんがいる部屋の前まで通された。鈍色に光る真鍮のドアノブがついた扉は鍵がついていないとのこと。
「飛鳥くんは今、確かにこの部屋の中にいるんだよね」
「お風呂もトイレも使用中じゃなかったから、そのはずだよ。……私が呼んでみようか?」
「いや、結構」
私はブレザーとネクタイを脱いで廊下に置くと、すぐに扉を全開にした。首藤さんが息を呑み、ぬるりと纏わりつくような生温い空気が肌に触れる。それほど散らかってはいない部屋だ。しかし現在開いた扉から見える情報の中に、飛鳥くんらしき姿はない。私は首藤さんにそのままでいるように言って、右足から部屋の中に入る。
「あっ」
首藤さんの声が後ろで聞こえたのと、迫る拳が私の目に映ったのはほぼ同時。左頬に衝撃を感じた次の瞬間、私の身体は飛んだ――かと思えば後頭部に衝撃が走り、左頬がじくじくと痛み出す。じわりと血の味が口内に広がり、何か硬いものが転がった。吐き出してみると、血に濡れた歯だった。乳歯か永久歯かなんてわからない。
もし私じゃなくて《皇帝》や《くノ一》だったなら、少年漫画の登場人物よろしく常人離れした素晴らしい身体能力で、こんな突然の攻撃をあっさりとかわすことだってできただろう。……《ベルセルク》の場合は避けられなかっただろうが、その後のことを考えるだけで背筋がぞっとする。とにかく私は飛鳥くんに殴られ、その勢いで頭から本棚に激突したのだった。頭上から文庫本が降ってくる。実に格好悪い。
「無々篠さん!」
「大丈夫だよ。首藤さんは部屋に入らず、そのまま扉を閉めておいて。あと私が開けてって言うまでは絶対に扉を開かないで」
「でも……っ」
「お願いだから」
扉が閉まる音を確認して、私はもう痛みが消えている左頬をさすりながら立ち上がった。目の前には肩で呼吸する飛鳥くんがいる。首藤さんに見せてもらった写真と変わらない文学少年っぽい男子中学生だが、眼鏡の向こう側にある目だけは違った。私をじっと見下ろすその両目は大きく見開き、赤く血走っていて、瞳孔は開き切っている。狂気的だ。確かに悪魔憑きに見えなくもない。
「初めまして。首藤飛鳥くん」
私が話しかけたところ、飛鳥くんは獣じみた叫び声を上げた。同時に右腕を振り上げ、第二撃を開始しようとする。私はそれをかろうじて避けた。特別な戦闘能力がなくても不意打ちでなければ何とか攻撃を回避できる。
さて、ここから先は泥仕合だ。
「きみの体力が尽きるまであとどれくらいかな」
格闘ゲームみたいにライフゲージが上に表示されればありがたいのに。