二十話 氷解
メルディアの弱々しい手をを無理矢理振り払ってまで部屋を出て来たユージィンは、複雑な心境を苦渋の表情で押さえ込んだ。
あの、泣き虫で人見知りなメルディアが、夜会で人並みの務めを果たしたというのは、本当に凄いことだと喜びが込み上がる。
素晴らしい結果を残したと、手放しに絶賛をしたかった。
良く頑張ったと、共に喜びを分かち合いたかった。
ところが、メルディアは使用人という立場からの褒め言葉をユージィンに要求せずに、幼馴染のユージィンとして褒めて欲しいと言ってきたのだ。
「……」
その昔、食べ物の好き嫌いの多かったり、学士院へ行くジルヴィオを寂しいからと離さなかったり、仕事に行く両親を泣いて引き止めたりと、周囲を困らせる事があったメルディア。
その度に幼いユージィンは年上のメルディアを一生懸命説き伏せて、何とか克服出来れば、優しく頭を撫でで額に口付けを落としていたのだ。
これはユージィンの母親がしていた行為を真似たものだった。
今となっては、それをする事すら許されない立場にある。
メルディアを送ってくれた青年、ミゲル・アウグスト。
伯爵家の人間で、人の良い好青年だ。容姿も整っており、困った行動をするメルディアを許す器もある。
そんな男ならばメルディアも心を開き、いずれは惹かれ合って結婚、という妄想にまで辿り着いてしまう。
今日は様々な事情が重なった為、いつものように上手く受け流す事が出来なかったのだ。
途中で食堂に寄ると、軽食を用意して貰い、茶器と共に手押し車へと運ぶ。
メルディアが帰宅をする数分前にジルヴィオが買い付けから帰って来ていたが、夕食を食べないで執務室へと直接行ってしまったのだ。
部屋の戸を叩いて返事を聞いた後に中へ入ると、ジルヴィオが少しだけ疲れた顔で書類の山を崩す作業を行っていた。
執務机の前にある低い机の上に食事を並べ、お茶を淹れる。
肩を叩きながら、食事が並べられた机の前にある長椅子に腰掛けたジルヴィオは、ユージィンから一日の報告を聞いた。
「先ほど、お嬢様がご帰宅をされました」
「おや、今日は遅い帰りだったのですね。うちのお姫様は、また泣いて帰って来たと?」
「いえ、お務めを立派になさったようです」
「へえ、それは凄い」
愉快そうな表情でユージィンの話を聞きながら、ジルヴィオは香辛料の掛けてある炙った肉と茹でた野菜が挟まれた正方形のパンを一口で頬張る。それから注がれた果実酒を飲んで、喉の渇きを癒した。
ちなみに熱い紅茶は苦手なので、食後に取っている。
ユージィンは給仕をしつつ、報告を続けた。
「それと、帰りはアウグスト家のミゲル様が送ってくださいました」
「ミゲル・アウグスト、ですか」
「お知り合いで?」
「いいえ。少し前に顧客であるアウグスト夫人からメルディアとのお見合いの申し出があって、その相手がミゲル・アウグストだったので、偶然だな、と」
「……」
ちなみにそのお見合い話は父親であるアルフォンソが即座にお断りを入れたので、白紙となっていたのだ。
何故、という疑問が顔に出ていたからか、ジルヴィオは見合いを断った理由について語る。
「父は、結婚は本当に好きな人とするように、と言っています」
「左様、でしたか」
「それには理由がありましてね」
ジルヴィオは思い出し笑いを噛み殺しながら、話し続ける。
「ユージィン、ちょっと笑えるお話なのですが、ああ、もう勤務時間外ですね。時間は大丈夫ですか」
「? はい、まだ」
「では残業代を付けておきましょう。――それで、話は戻りますが、うちの父はその昔、婚活おじさんと、周囲から陰口を叩かれていたそうです」
「婚、活?」
「結婚相手を探す活動の略ですね」
「それは、存じませんでした。勉強不足で」
「いえいえ、覚える必要の無い言葉ですよ」
婚活おじさん・アルフォンソ。
その昔、メルセデスと結婚する前のアルフォンソは、数年に渡って必死になりながら器量の良い娘を探していた。
当時、三十七歳だったアルフォンソが若い娘を食事に誘ったり、買い物に連れて行って何かを買い与えている様子を見た人々は、「あのエロ親父は若い娘ばかりを狙ってからに」と大きな反感を買っていたのだ。
そんな噂を一切気にしなかった訳は、探していたのは自分の結婚相手では無かったからだ。
「父は当時二十八歳で結婚適齢期の叔父の結婚相手を探していたのです」
ところが、そんな噂話を聞きつけたブランシュ子爵家から、一件の見合い話がアルフォンソに舞い込む。
それは、アルフォンソの現在の妻・メルセデスの実家からの申し出だった。
当時二十五歳の若いメルセデスを娶る、という事を中年のアルフォンソは難色を示していた。勿論自分の結婚相手を探している訳では無かったし、初婚の娘は荷が重いと考えていたのだ。しかしながら、古くからの付き合いのある子爵の懇願を断ることが出来ずに、渋々と若妻(※アルフォンソにとっての)を迎えた。
「初めこそ愛のない結婚で、衝突ばかりしていたのですが、次第に惹かれあった両親は、互いに愛するようになったとか。しかし、そんな中で父は斜め上の行動へ出ました」
アルフォンソは妻・メルセデスこそが長年探していた理想の女性だと気が付き、生まれながらの屑野郎の自分には勿体無い、離婚をして弟と結婚して貰おうと考えたのだ。
「まあ、当然その話を聞いた母と叔父は激怒をしたらしく、父は一生誰の結婚にも口出しをするなと、叱られてしまったそうです」
「それは、なんと言っていいのか」
「私も酔っ払った叔父から両親の恋話の詳細を聞いて、どういう反応をしていいのか分からなくなりましたが、こうして思い出せば、とても愉快な話だな、と」
「……」
「これが、我が家の婚活おじさんの最期場となった訳です。以降、父は、結婚相手は自力で探せ、という考えに変わったとか」
そんな事情に加えて、愛情以外の関係で結ばれた縁談など不幸にしかならないと、三度も離婚経験のあるアルフォンソは子供達に教え込んでいるという。
「そんな感じで、メルディアがアウグスト家の次男を気に入れば、誰も反対をしないので婿入りは簡単に決まるでしょうね」
「次男?」
「ええ。ミゲル・アウグストは伯爵家の次男ですよ。それに事務官をしているとの事で、ベルンハルト商会では即戦力でしょうね」
「……」
「うちは父の気に入った人間しか入れないので、常に人不足ですから、さっさと決めてくれると助かります」
「それは、そう、です、ね」
俯きながら返事をするユージィンを、ジルヴィオは意地悪な笑みを浮かべながら観察をしている。
少し揺さぶりが強かったかな、とも感じていたが、この堅物が簡単に自我を失うとは思えなかったので、念には念を、と止めを打つ。
「明日でもいいので妹に、ミゲル・アウグストを家に招待するような手紙を書くように伝えておいて下さい」
「!!」
ハッとして、視線を床からジルヴィオへ移したユージィンの表情は、絶望に染まっていた。
「迷惑を掛けたので、綺麗に着飾って、丁寧に持て成すように、と」
「は、はい。畏まり、ました」
「下がってもいいですよ。お疲れ様でした」
「……」
ユージィンは無言で深々と頭を下げ、執務室を後にする。
◇◇◇
食堂で皿洗いを手伝ったり、夕方に買いに行っていた文房具を補充していたりと、勤務時間が終わっているのも忘れて作業に打ち込んでいたら、帰る時間帯には自宅近くまで走っている辻馬車の最終時間を乗り過ごしてしまった。
ベルンハルト邸から自宅までは歩いて一時間ほど。
頭を冷やすのに丁度いいと思い、ユージィンは雪が軽く積もった道を、小さな角灯片手にサクサクと進んでいく。
頭の中でぐるぐると回っているのは、現実味を帯び出したメルディアの結婚。
ベルンハルト家にて小間使いとして働いたこの三年間、メルディアに何度も冷たく接してきたのに、いつまで経っても胸が痛んでいたし、慣れることなど一度も無かった。
辛い。身を裂かれるかのようだ。そのように、憂鬱になりながら。
メルディアの結婚を祝福出来ない自分は、なんという矮小な存在であるのかと、何度も自らを責めながら苛む。
自宅へ到着しても、温かな室内へ入る気などとても起こらなかった。
呆然とした状態で、どれだけ家の前で立ち尽くしていたのか分からなくなっていたその時、背後から声を突然掛けられる。
「まあ、ユージィン。何をしているのですか!?」
「!!」
同じく帰宅をして来たのは、裁縫店に勤めているユージィンの祖母だった。
玄関前で怪しい様子を見せていた孫の顔を角灯で照らせば、憔悴しきったような、情けない顔でいた。
「メルディア・ベルンハルトと何かあったのですね」
「……」
何事にも動揺を見せる事のないユージィンが、唯一我を忘れる存在がベルンハルト家のメルディアだというのは家族の間では周知の事実だった。
しかしながら、この絶望を経験したかのような顔を見て、結婚でも決まったのかとユージィンの祖母は推測をする。
「こんな遅くに帰宅をして、仕方の無い子ですね」
「申し訳、ありま」
「もう、いいのです」
「え?」
「あなたは、十分に頑張りました」
「お祖母さん、なにを?」
「何って、メルディア・ベルンハルトの事ですよ」
メルディアの事だと言われて尚、ユージィンには何を頑張ったのか理解出来ずにいた。
そんな物分かりの悪い孫を見て、その祖母はため息を吐く。
「この三年間、日々、美しく成長する愛する女性を眺めるだけだったのは、辛かったでしょう。あなたは立派に働きました。もう、好きなようになさい。若い頃は、感情の赴くままに生きるのも、いいでしょう」
「!! しかし、それでは」
ユージィンの祖母は好きなようにしろと言ったが、メルディアの父親の不興を買えば、ザン家の生活は一気に破綻してしまうのだ。
そんな一時期の感情だけで突っ走り、今までの安定した生活を一気に失ってしまうという勝手な行動など出来る訳がないと、ユージィンは首を振る。
「うちの事は心配ご無用。息子と娘と私は、一度、素晴らしい生活を味わい、その後、一瞬にして全てのものを失うという経験をしております。それがもう一度訪れても、二度目なので平気でしょう。きっと、苦難を乗り越えられるという、自信があります」
「お祖母さん……」
しばらくの沈黙の後に、ユージィンの祖母は夜空にポツンと一つだけ浮かぶ星を指差した。
「あの星を、知っていますか?」
「宵の明星、です」
「そうです。別名は【幸せの星】」
「……」
続けて故郷である大華輪国では星玉・【導きの星】と呼ばれ、迷った旅人に正しい道を示す存在だと説明をした。
「その昔、あなたのお母さんが、私にあの星を贈ってくれました。こうして、両手で作った枠を宝石箱に見立てて」
左右の人差し指と親指をくっ付けて四角い枠を作ると、その手を上げて空に浮かぶ唯一の星を閉じ込める。
「その時、私は不幸の絶頂だと思い込んでいました。ですが、それは違うと言って、この【幸せに導いてくれる星】を託してくれたのです」
この星を持っていれば幸せになれる、私は幸せになれた、そう言ってからユージィンの母は義理の母親に両親から貰った唯一の宝物を贈ったのだ。
「そう。ことの始まりはあなたの祖父、エドガル・ライエンバルトの思いつきから始まったのですよ」
「お祖父さん、が?」
「ええ」
母方の実家であるライエンバルド家は、その昔爵位のある名家だったという過去がある。しかし、財産を枯らしてしまった当時の当主は、エドガルに没落した家を押し付けて地方へ逃げたのだ。
そして、金も仕事も無いエドガルが、妻に求婚をする際に贈った物が、【宵の明星】だったと。
「エドガル・ライエンバルドは、宵の明星に誓って幸せにすると言ったそうで。それにあなたのお祖母様はコロっと騙されてしまったそうですよ」
こうして、その星は母から娘に渡り、その娘から異国の母へと渡った。
「私は今、とても、幸せな状態にあります」
「?」
「だから」
空に向かって四角い枠を作っていた手を下ろし、ユージィンの祖母はぎゅっと孫の手を握り締めた。
「【幸せに導く星】はあなたに差し上げます」
「!!」
「幸せに、おなりなさい。いいえ、きっとなれますよ」
祖母に手を握られながら、ユージィンは肩を震わせる。
「さあ、中に入って温かいものを飲みましょう。手が、こんなに冷えて可哀想に」
いつもは冷たい祖母の言葉が、室内の暖かなぬくもりが、ユージィンの凍った心を溶かすような、そんな穏やかな感情で胸がいっぱいになっていた。