十一話 慕情
「お帰りなさいませ、お嬢様」
仕着せを纏った十代後半の使用人が、丁重な態度で屋敷のお嬢様を出迎える。
他人行儀な態度の使用人を見た令嬢は、まるで迷子になった子供のような表情を浮かべていた。
その悲痛な顔を、使用人は必死になって見ない振りをしている。
それが、彼らの日常だった。
◇◇◇
――遡ること三年前。
学士院から帰宅をして来たユージィンは、凄まじい形相をしている祖母に話があると呼び出された。
父方の祖母であるランフォン・ザンはとても厳しい人で、幼い頃から少しだけ苦手意識があった。
祖母と父は異国生まれで、色々あってハイデアデルンに移住して来たとユージィンは聞いている。言葉も文化も違う国で、様々な苦労をしたであろう祖母の言葉は、どれも耳に入れるのが辛くなるような重たいものばかりだ。
けれど、それがザン家の長男であるユージィンへの期待である事を知っている。
今回の話も、きっと重たいものに違いないと憂鬱になりながらも、祖母の部屋に繋がる階段を上がって行った。
「――話を聞いていて、顔から火が出るかと思いました!!」
「……」
案の定、祖母の話はユージィンが一番指摘されたくないものだった。
洋裁店で働く祖母に、とある噂話を持ちかけた人物が居た。その内容は【かの、ベルンハルト家のお嬢様は大きな雑種の黒い犬を溺愛している】というもの。
雑種の黒い犬、というのは言うまでも無く、異国の血が混じったユージィンの事だ。
ベルンハルト家の令嬢、メルディアとの付き合いは、幼少期から十一年も続いている。周囲は姉弟のように育った二人と微笑ましく見守っていたが、そう思わない者も居たのだ。
「念のために確認をします。あなた達は、二人で密室に篭り、一線を越えている訳ではありませんよね?」
「いえ、ただ、本を読んでいるだけです」
「仲良く肩を寄せ合って?」
「……」
メルディアと二人、どのようにして本を読んでいたかなんて覚えていない。それに、肩を寄せ合って一冊の本を二人で読んでいたのは幼少期の話だ。
最近は、ユージィンは図書館で借りてきた本を、メルディアは兄の書斎にあった本を持ち寄り、毎日のように本を読むだけという時間を過ごして来た。
それを誰かに見られて、良からぬ噂が広がったのだろうとため息を吐く。
「もう、今までのような付き合いは止めた方がいいでしょうね」
「それは、分かっております」
「本当に?」
ユージィンはメルディアとの決別が近い未来に必ず訪れるだろうと予測出来ていた。
だが、それが今だとは考えもせずに、日々、メルディアが隣に居るのが当然だと思う毎日を送って来たのである。
「メルディア・ベルンハルトは今年で十八歳。もう、見合いの一つ、いいえ、結婚をしていても可笑しくはない年齢です」
「!!」
メルディアの結婚。
それも、ユージィンの頭の中では想像していたが、自分以外の男の元へ嫁に行くという事がどうしても現実的では無かったのだ。
『ユージィン大好き!』
『ねえ、ユージィンは、いつまで私だけのユージィンでいてくれるの?』
『私、ユージィンの言う事は、なんでも聞くわ』
全てメルディアの口癖だ。
こんな事を言っている娘が、他人のモノになるなど想像出来ただろうかと、自らに問い掛ける。
「あなたは、自分の立場を把握していますか?」
「それは、分かって、おります」
「いいえ、分かっていません。自分の顔を、鏡で御覧なさい」
「?」
「大切な物を奪われたような、酷くおぞましい顔をしています」
「!!」
「メルディア・ベルンハルトは、あなたの所有物ではありません。ましては、恩人である、アルフォンソ・ベルンハルトの娘に手を出そうという考えから間違っています」
「……」
十七年前、ユージィンの両親と祖母は大華輪国という国からハイデアデルンへと移住した。その際に、異国人であった父親をベルンハルト商会で働けるように手配し、生活の手助けまでしてくれたのが、メルディアの父親であるアルフォンソだったのだ。
それ以前に母方の祖父も、職に困っている時期に拾ってもらう形で働き始めたという話も聞いている。
「あなたが国立の学士院の通えているのも、ベルンハルト商会から頂いている給金があってこそ、なのですよ」
「……はい」
学士院はとにかくお金が掛かる。
授業料に教本代、毎年変わる制服に、支払いが強制されている行事支援金。
これらのお金は普通の家の親に支払いが出来る金額ではない。
元々国家学士院は、裕福な貴族の子供達が通うような場所なのだ。
平民であるザン家が、それらの支払いを可能としているのは、父親の稼いでくるベルンハルト商会の給金があるからで、一般的な商会勤めならば不可能である事はユージィンも十分に自覚している。
「もしも、アルフォンソ・ベルンハルトの不興を買えば、騎士学校に通うエドガーも退学を余儀なくされるでしょう。騎士学校がベルンハルト家の援助を受けている事は」
「存じております」
「結構。……それに、リュファだって今から学士院に通うのですからね。父親がベルンハルト商会を解雇になればどうなるか、分からない程馬鹿ではないでしょう?」
「それも、分かっております」
ユージィンの行動一つで、ザン家はあっさりと傾いてしまう。それに弟や妹の輝かしい未来をも潰してしまうのだと、強く自分に言い聞かせた。
「急に距離を取れば、相手も傷つくでしょう」
「……」
「ユージィン、あなたも」
「覚悟は、出来ております」
「いいえ、出来ていません。顔を、鏡を御覧なさい」
「……」
そう言われたユージィンは、暗くなった窓に映る自分の顔を確認する。
そこには、見たことも無いような、深い悲嘆に暮れた己の顔が映し出されていた。
平気と言っている人間の表情ではないのは一目瞭然。
そんなユージィンに、更なる容赦ない一言が掛けられる。
「そうですね、これから、ベルンハルト家で働くといいでしょう」
「それは、どういう?」
「あなたと、メルディア・ベルンハルトとの立場を明確にするのです」
「……使用人と、お嬢様」
「その通り」
使用人としてメルディアに頭を下げ続ければ、自分の居る位置も分かってくるだろうと、ユージィンの祖母は言う。
そして、その言葉通りにユージィンはベルンハルト家で働く事となった。
メルディアは相変わらず幼馴染として接して来たが、ユージィンは使用人としての対応に徹した。
突然冷たい態度になったユージィンにメルディアは深く傷ついたかのような表情を見せていたが、時間が解決をする問題だと、何度も言い聞かせた。
メルディアもいずれは立派な貴婦人となって、生涯の伴侶を見つけて幸せになる。無邪気に笑いかけるメルディアは居なくなるのだと、この時は信じて疑わなかった。
それから三年後、ユージィンの予想を斜め上に裏切って、メルディアは昔と変わらぬままで居続けた。
お茶会では誰とも話せないで落ち込んで帰って来る。夜会に参加すれば、ベルンハルト商会の陰口を聞いて、泣いて帰って来る。
そして、ユージィンの顔を見れば、泣きついてくるのだ。
このままでは本当にいけない。
そう思ったユージィンは、ある願いをメルディアにする。
「あなたには、美しく、気高いお嬢様で居て頂きたい」
嘘だった。
年下の自分を無条件に慕ってくれる、いつものメルディアが好きだった。
けれど、今のメルディアが傍に居れば、ユージィンは必ず間違いを起こしてしまうと、そう確信していた。
だから、気高く、社交界を渡っていけるような完璧な令嬢になれば、諦めがつくと考えたのだ。
臆病で泣き虫、おまけに人見知りのメルディアが社交界で上手くやっていける事が無理なのはユージィンが一番分かっている。
けれど、それ以外に諦める術を思いつかなかったのだ。
しかしながら、メルディアの変化はすぐに現れた。
友達が出来たというメルディアは、今までの引き篭もり生活が嘘のように外出を繰り返すようになる。
少しずつではあるが、完璧な令嬢への一歩を踏み出そうとしていた。
そんなメルディアをユージィンは心の中で応援をする。
自らの中にある恋心を、元から無い物としてすり潰しながら。