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そう思いたくても、次の瞬間聞こえてきた声に全て打ち消された。
「ノア」
大して大声を張り上げたわけでもないのに鮮明に聞こえてきたその声に私の肩が小さく跳ねた。まるで悪戯っ子が悪戯を見つけられて怒られるのを恐れるような感覚だった。きっと昔から非日常の中に浸かり今ここにいる二人には理解できないだろう、そんな当たり前の感覚。そしてドア越しから声をかけてきたあの陰険野郎にも理解できないだろう感覚。
声が聞こえた瞬間二人の視線はドアに集中し、私はさらに顔を俯け一瞬下唇を噛みしめた。顔を上げた時にはもう何でもないという顔で音もなく立ち上がって、もうほとんど治った左手でドアを開けた。
「……なに?」
不機嫌さも隠さずに顔を上げれば、目の前にいたのは黒いロングコートに身を包んだ男。頬にかかる前髪、うなじにかかる髪全て漆黒でさらにその双眸も中に見える衣服も靴までも全て黒。まさに、黒い男。私はこの男を頭領と呼んでる。
名前は知らない。みんな好きなように呼んでるし、私も好きなように呼んでる。
「…ひどくやられたようだな」
単調で、それでも冷たさを感じさせる声。その場にいるだけで肌を粟立たせ、何も知らない平和な人間なら恐怖で立ち竦むほどの威圧感。慣れている私たちでさえこの男がそばにいれば冗談を言い合いながらも内心その存在感を無視することはできない。
「あいつ、私が猫化してないのに本気になりかけた」
「それはお前が弱いからだ。あんな姿にならなくてもいいように強くなることだな」
言い捨てる私を見下ろしながら頭領は興味もなさそうに淡々と言う。別に興味を持たれたいわけでもないけど、無関心はそれはそれで少し腹が立つ。
私は、この男が嫌いだ。憎んでる。…でも、それと同じくらい生きていくのになくてはならない存在だ。この男がいなければ私は路頭に彷徨っていたのだろうから。だからと言って好きになったりすることなんて絶対にあり得ないけど。
「アンタたちそこで何してるの?」
「ノアに用があったんじゃないのか?ボス」
開けっ放しの部屋の境目で立ったまま言葉を交わす私たちを不知火とサニーが不思議そうに見つめていた。本当、何のためにここまで来たんだ。というか誰に聞いたんだろ…当事者は二人とも[医務室]にいるのに。
「姫に聞いた」
……偶然とはいえ、心を読まれた気分だ。不愉快極まりない。
「あ、おったおった。乃鴉、怪我はどうなん?」
私が眉を顰めていると今話しに出ていた姫が顔を覗かせた。深紅の髪を高く一本に束ね、茶目っ気な金色の猫目の京都弁の女。私の姿を見て、頭領の前に出ると腰までを覆う淡い桃色の浴衣、藤色のグラデーションの帯、水色の紫陽花の帯留め、デニム素材のホットパンツに身を包んでいた。胸を覆う白いサラシと覗かせる健康的な足がとても印象的だ。
「どうして姫様がここに?」
「どうしたもこうしたもあらへん。サニーに担がれとる乃鴉を目撃したんや」
口角を上げながら笑う姫に私は苦虫を噛み潰したような顔になる。あんな情けない姿を見られていたなんて…しかも頭領にまで知られてしまった。もとはと言えばサニーがあんなことするから…。
私が首を後ろに向けて改めてサニーを睨むとサニーは素知らぬ振りして顔を背けた。
「…姫、乃鴉。仕事だ」
溜息をつきながら言葉を発したのは姫の後ろにいた頭領。今は朝の7時過ぎ。こんな時間から仕事だなんて…あまりいい予感はしない。
それでも断るなんて選択肢は存在しないから私は返事も聞かずに背を向け歩き出した頭領の後ろを姫と一緒について行く。
ここは、一言で言うなら地下だ。
元々はどこかの軍の施設だったものを頭領が奪っ…もとい、譲り受けたそうだ。電気はもちろん水道もガスも通っていてしかも何故か使い放題。各個人の部屋を始め、[挌闘場]や[医務室]、[大浴場]、[訓練所]、[武器庫]など実に様々な部屋が揃っている。今挙げた例は私も使ってる部屋だけで、入ったことのない部屋だって数多くある。地下だから窓は無いけど換気扇もあるしそこまで不快な環境じゃない。来たばかりの頃は慣れずに何度も地上に空気を吸いに出てたけど慣れた今は、住めば都状態だ。
各個人の部屋は地下一階、[挌闘場]や[医務室は]とかは地下二階、[大浴場]や[武器庫]とかは地下三階になっていてさらに下の階もある。
それに対して人数は少ないけど、今出てきた人以外にもいる。部屋に籠ってるやつ、[訓練所]で斬りまくってるやつと撃ちまくってるやつら。他にもなんかしらしてるやつら。どいつもこいつも腹に一物抱えていて、私以外全員がその手のプロだ。
殺し専門の、プロ。
暗殺だけじゃない、拷問やスパイ活動などといった闇の世界の職業。
ここに来て、もうすぐ二年になる。
私たちは[対策室]と書かれた部屋に入った。
「まずは説明だ」
そう言って頭領は机を挟んで私と姫に向き直って言葉通り説明を始める。
要は、こういうことだった。どこかのお偉いさんに頼まれて、悪行を働き続ける罪人を殺してほしいと。そいつは自分が高い地位であることに溺れ、不正な賄賂や女関係にだらしがない男だそうだ。典型的な、駄目男。こういう正当に見える(・・・・・・)依頼は度々舞い込んでくる。確かにそいつが生きていたって不幸になる人間が悲しむだけだという理屈は理解できるけど。
「姫は標的の誘惑。あとは乃鴉と一緒に自殺に見せかけろ」
「普通に殺してまうのはダメなん?」
それは私も思った。別にそんなやつ、物盗りの犯行に見せかけて普通に殺しちゃえばいいじゃん。むしろそういうやつが自殺するのってよっぽどの理由がないと成立しないと思うんだけど。
「…最近、俺たちを嗅ぎまわっている連中がいるらしい」
「ああ、ほんならあまり下手に動かれへんね」
一瞬だけ眉を顰めた頭領の言葉に納得したように頷く姫だが、私には理解できなかった。私たちを見つけ出そうと躍起になってる連中は腐るほどいる。こういう職業は仕事の取り合いになるから自分たちの仕事を奪う可能性のある組織を消そうとすることが多い。だからって、今回はそんな面倒なことをする理由になるのか?
私の顔に不満が浮き出ていたのか姫が腰に手を当てながら説明してくれた。
「あんな、乃鴉。ウチらを捕まえようっちゅう奴らがまずどこで躓くか知っとるか?」
「手がかり、とか?」
「そうやね。じゃあどうやって手がかりを手に入れるん?」
「情報とか」
「そうや。けどな、ウチらの情報を管理してるんはアイツやろ?せやからここがバレることはおろか、ウチらの誰一人として見つけ出すことはほぼ不可能になんねや」
うん。引き籠ってばかりのやつだけど、確かにそこだけは信用できる。
私は姫の言葉に小さく頷いた。
「せやから普通はこないなミッションにまで持ち込む必要なんてない。けど、たまに居んねや。まぐれでウチらの尻尾掴みよる連中が」
……前言撤回、信用できなくなりそうだ。アイツ何してんだよ。
私が思わず眉を顰めて半目になると姫は苦笑い気味に説明を続ける。
「まあ、人間誰にでも隙はあるさかいしゃあないわ。せやからそないにアイツを責めんでやって。むしろ、問題はその連中のほうや。アイツに隠れて尻尾掴めるっちゅうことはそれなりの手練れ、しかもこの情報を掴むことでウチらに消されることを恐れんやつらや。そやったら、なんで恐れんか分かるか?」
「一人じゃ…ない?」
そうだ、普通こんな殺し屋集団に関われば消されることだってあり得る。それなのに私たちに関わろうとするということは、撃退できる策があるということ。たかがハッカー一人じゃ私たちを知ることなんて出来ない。それなら…バックになにかついてる。
「そや。しかも少数やない、下手したらどっかの組織が動いてるかもしれんねん。ウチらが負けるなんてことあらへんけど、避けられる問題は避けて通るべきや」
「でも、尻尾掴まれてるなら引き上げられるんじゃ?」
「それはない。もし引き上げられそうなら全部消すって頭領は言いよる。避ける言うことはまだそこまではないってことや。とにかく、あとはアイツが撒いてくれるんやからウチらはなんの痕跡も残さずに仕事をやり遂げるんや」
なるほど。物盗りに見せかけて余計なものを残すより、強引にでも自殺に見せかけて何も残さずに無理矢理終わらせるってことか。どうせ暗殺なんて闇の職業者なら状況を見れば同業者だって分かる。だからって、別にそいつらだって私たちを法律の元に晒したいわけじゃない。もちろん、そうやって消すこともできるけどそんなことすれば自分たちだって無傷ではいられないことは理解してるはず。
でも、一応私たちって闇の職業者には結構有名だって聞いたけど…何で狙われてるんだろ。まあでもここが簡単に陥落することはないだろうからまずは目の前の仕事をこなすことが優先か。
私は頭領に体を向けて小さく頷くと、頭領も微かに目を細めて私が理解したことを理解してくれた。
初めは簡単そうな仕事から。
まだ色々と説明不足なところはありますがそれはこれから説明する機会をつくるつもりです。