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第一章 (4)



 曇り空から光りが射し込み、水溜りがキラキラと光っている。虹は依然として空にかかったままだった。

 グレディは本館を背に立ち、正面から歩いてくる一人の人物を待っていた。その人物は最初グレディに気づかずにゆっくりと歩いていた。だが、ふと気づいたらしく足を止め、少し微笑んでから足早に歩いてきた。

「珍しいな、外出だなんて。仕事でもなさそうだし」

 やって来た人物――アイリにグレディは言った。

「ルークに話しがあるって言われて。だけど行ってみたらただお茶したかっただけと言われたわ」

 ルーク・シーゼントはアイリと同じく準幹部の男だ。彼もまだ若く、その顔には少年のあどけなさを残していた。レイニング社の中でグレディが一番親しくしている人間である。

「あなたはまた仕事を抜け出してきたみたいね」

「アイリに聞きたいことがあって」

「何かしら。手短にお願いするわ」

「この会社をやめようと思ったことは?」

「ないわ」

 即答だった。グレディは続けて質問をする。

「おまえは俺がここにいることに反対なのか」

 昨日アイリが言ったことはそんな風にも聞こえた。グレディにここを出るようにと忠告しているように。

「いろんな意味にとれるわね。質問が抽象的すぎて答えられないわ」

 答えるつもりはないのだろう。グレディは小さく息を吐いた。

「悲しい瞳だな」

 アイリの瞳を見て言葉がグレディの口をついて出た。アイリは何も言わずにグレディの瞳を見てから空を見上げた。

「不思議な人……」

 顔を戻してただ一言そう言った。グレディのほうを見ることはなかった。

「私があなたと会ったのは二年前が初めてだったわ。だけど変ね、なぜかあなたの眸を見るとずっと昔から知っているような気がしてしまう」

 淡々とした言葉だったが、それはぽろりともらした彼女の本音のようにも聞こえた。

「もしかしたら昔どこかで会ったことがあるかもしれないな」

 グレディは口にしながらもそれはないと思っていた。昔あったことがあるのならば、忘れるはずがない。こんなにも印象的な目をもった女を覚えていないはずがない、と。

「そうだとしたら、面白いわね」

 アイリ特有の口元だけでの微笑が浮かんだ。

「――グレディ・カニンガム。ディアラム、フレサ地区出身。十七歳でエンフェル地区の医学学校に入学、二十二歳のとき優秀な成績で卒業。卒業後レイニング社の準社員として採用される」

 グレディの反応を窺うようにアイリは言葉を切った。アイリの口から出た言葉にグレディは少なからず驚く。彼女はまったく自分の経歴を知らなかったわけではなかった。それは最近知ったのか、それともグレディがここに来たときから知っていたのか。

「なかなか輝かしい経歴だろ?」

 そうね、とアイリは煙草をくわえた。

「人事課で調べたのか?」

「だったら」

「だったら光栄だな。俺に興味を持ってくれたってことだろ?」

 その言葉にアイリは火をつけようとした手を止めた。

「嬉しいね、少しでも俺のことを知ろうとしてくれたなら」

「そんなんじゃないわ」

 静かに言い、アイリは煙草に火をつけた。

「よろしければ、もっと詳しくお教えいたしますよ」

 おどけたように言うグレディにアイリはくすりと小さく笑った。

「必要ないわ。本人から聞かなくても知ることはできるもの」

 煙を吐きながらアイリは言った。

「社員のことは全部調べてあるってわけか」

「家族構成から何までね。あなたも自分の調査書を見てみたら? 案外自分の知らなかった事実があるかもしれないわよ」

 なるほどね、グレディは苦笑した。さすが、ディアラム一の大企業だ。たとえ準社員であろうと得たいの知れない人間は雇わないってわけか。

「それで? アイリは俺の調査書を見たのか?」

「一準社員の調査書をみるほど暇じゃないのよ」

 ぴしゃりとしたもの言いにグレディは肩をすくめた。見ていないのなら誰かから聞いたのだろうか。

「それじゃあ、正社員ならどうなんだ?」

 アイリがグレディを見た。一瞬、驚いたような表情が浮かんだ。

「それとも準幹部ともなれば一正社員の調査書にはご興味ありませんか? 出世したら興味を抱いてくれるんですかね」

「何を言っているの。知ってほしいの? そんなに面白い経歴の持ち主なのかしら」

「自分の知る限りつまらないと思うんですけどね」

 でも、とグレディは続ける。

「幹部直々に正社員にならないかとお誘いを受けたんですよ」

 今度は明らかにアイリは驚いた様子を見せた。彼女の知らなかった事実なのだろう。

「いつ? 誰に?」

 静かな声に僅かに動揺が見えた。

「今日、ブレイナードに」

 そう、と呟きアイリは煙草をゆっくりと吸って吐いた。

「どうするの? その様子だとなんだか腑に落ちないみたいだけど」

「そうだろう。かいかぶり過ぎな気がするからな」

「なら、断ればいいわ」

 アイリは携帯用の灰皿に煙草を押し込んだ。

「アイリは反対なのか?」

 アイリは何も答えずに煩わしそうに長い髪をかきあげた。

「長話だったわね、戻るわ――」

 脇を通り過ぎようとしたアイリの腕をグレディは掴んだ。アイリは驚きもせず、ただ不快そうに眉を顰めグレディを見た。

「何?」

「答えてないだろ」

 グレディの眼差しを受けてアイリはしばらく黙った。腕を振り払うそぶりもなかった。

「決めるのはあなた自身よ」

 しっかりとグレディの目を見据えてアイリは静かに答えた。その深く強い眸にグレディは悲しくなる。どうしたらまだ二十歳そこそこの若い女がこんな目を持つようになれるのか。

「離して。あなたの立場をわきまえなさい」

 事務的な口調を受けてグレディは反対にアイリを自分のほうへ引き寄せた。

「正社員同士なら構わないのか?」

「――馬鹿なことを!」

 アイリはグレディの腕を振り解いた。すばやくグレディから離れ、背を向けた。

 二人の間を風が吹きぬける。その風に運ばれてきたかのように、雨上がりの空気に懐かしさを感じた。なおも吹きつづける風にアイリの長いダークブルーの髪はなびいていた。

「偽り……」

 か細い後ろ姿にグレディは静かに声を投げかけた。アイリの背中からは何の感情も読み取れない。

「人は偽りの自分を作り出す。本当の自分を他人に見せることは恐いよな」

 しばらくの沈黙の後グレディは言葉を続けた。

「アイリはどうしていつも悲しい瞳をしているんだ?」

 何も言わずアイリは本館に向かって歩き出した。動きにつれて髪の毛が揺れる。グレディから十数歩離れたところで足を止めた。

「……あなたはよく考えるべきね」

 結局そのままアイリが振り返ることはなかった。

 自分は彼女の背中を見つめてばかりだな。そう思い、自然と自嘲めいた笑いが漏れた。

 手には細くひんやりとしたアイリの腕の感触がまだ残っていた。自分の手を見つめグレディは手を握り締め、空を仰いだ。

 曇り空はいつのまにか晴れていた。


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