プロローグ
とても長いお話です。話が進むにつれ、矛盾点も出てくるとは思いますが、気長にお付き合いください。
縦令 君が世界の何処にいても必ず君を助けに行く。
縦令 君が望んでいなかったとしても。
君のことだから、守られるのは嫌だといいそうだけれど。
君は確かに助けを求めているのだから…。
君を守りながら、君と一緒に戦いながら、この世界を旅できたらきっと楽しいだろう。
縦令 君の前に姿を現すことが叶わなくとも。
君は自分の未来なのだから。
一週間以上も続いた雨はようやく完全に途絶えそうだった。先ほどまで少し残っていた灰色の雲も流れ、空は水を張ったように澄んでいた。
雨は天からの恵みとも言われるが、この国にとってはただうっとうしい存在でしかなかった。多くの化学物質を含んだ雨は、逆に植物の成長を妨げ、人体に少なからず影響を与える。このまま雨がやまなければ出港はさらに遅れることになっただろう。
旅商人のジャンは出港の合図である汽笛を聞き、慌てて乗船の手続きをして船に乗り込んだ。
「時間通りに来ていただかないと困ります」
ジャンのお蔭で一度しまったタラップを再び戻すことになった若い船員は、少し迷惑そうに注意した。
「あいすいません。何かあったらしく道が混んでいましてね……。いや、申し訳ない」
近くの乗客たちは無遠慮に好奇の目をジャンと彼の背中の大きな荷物に向けていた。視線に耐えられなくなり、ジャンは大きな荷物を揺らし、逃げるようにこの場を去った。
改めて汽笛が鳴り、今度こそ船は港から離れた。港の喧騒が徐々に遠くなり、やがて聞こえなくなったが、船からはまだ港が見える。ジャンは完全に港が――その島が見えなくなるまで、動くことなく島を見つめた。
そうしないと不安でならなかった。自分は本当にあの国を出たのか? と。馬鹿らしいとわかっていたが視線を逸らすことはできなかった。
ほどなく島は完全に見えなくなり、船からは水平線だけが見えた。小さく息を吐き、ジャンは甲板へ向かった。
ジャンが乗っている船は旅客船ではなく定期連絡線である。どこが違うのかといえば、個室がないことだろうか。もちろん旅客船に比べれば設備は劣り、居心地も悪いかもしれないが、休憩所も屋台もあるのでさほど不便は感じないだろう。値段も安いためほとんどの旅行者が利用していた。
久々の連絡船のためか船は人々でごった返していた。中でも甲板の賑わいは暗い気分さえもふっとんでしまいそうなものだった。あちらこちらでジャンと同じような旅商人が露店を出していて、威勢の良い声が行き交っていた。
ジャンは他国から出稼ぎに来た商人である。二ヶ月程前にあの島国――ディアラムに来たのだが、国の実情に嫌気がさし、予定よりもはるかに早く故郷に戻ることにした。
遥かに進んだ文明。老いも病もなく、人々は皆王侯貴族のような暮らしをしている――他国ではそんな噂が流れていた。何しろ潮流の関係で気軽に船を出して行ける国ではないから、そのような噂がながれるのも無理はない。おまけに近年になって規制が布かれたためになおさらだった。
「確かに比べものにならないほどの文明だったさ」
ジャンは吐き捨てるように呟いた。最初にあの地に下りたときはまだ夢を見ていた。しかし、それが壊れるのに時間はかからなかった。もう考えるのも嫌である、というように首を振り、柵に寄りかかり海を眺めた。
ふと横を見ると、自分と同じように海を見ている男が目に入った。二十代中頃で短い黒髪に眼鏡をかけた背の高い男だった。全身真っ黒な姿のせいもあるのか、この天気とは反対に陰気な雰囲気をしており、それがやけに目を引き、ジャンは男に気づかれないように横目で観察していた。
「――おう! ジャンじゃねぇか」
突然肩を叩かれ、ジャンは驚いて情けない声をあげた。
「……ああ、カルロかい! 同じ船とは奇遇だね」
こんな所で同郷の人間に会えるとは思っていなかったのでジャンは素直に喜んだ。
「でもお前さんあと半年はいるんじゃなかったのかい?」
カルロは陽に焼けた顔に苦笑を浮かべた。
「そのつもりだったんだけどよ。どうにもあの国は俺の性に合わなくてな。まあ、稼ぎは結構あったな」
「俺と同じだね。いくら文明が発展しても花が咲かない国はもう、人が住むべき場所じゃない」
皮肉を込めてジャンは言った。
「ああ……。夢を見ていた俺らが馬鹿だったよ。天国なんてどこにもないってことがわかった」
「俺には天国があるよ。愛する妻と子供たちが待っている故郷が俺にとっての天国さ」
「よくそんな恥ずかしいことが言えるな」
「負け惜しみとしか聞こえないね。お前さんも早く良い嫁さん見つけて天国をつくることだな」
「余計なお世話をどうも。まあ、あの国に天国を夢見てがっかりする人間は減るかもな」
ディアラム製の煙草をくわえ、カルロは呟いた。
「どういうことだ?」
「今より規制を強くするらしい」
「……なんのために?」
「さあ? 国家元首が殺されたことも関係あるんじゃねぇのか?」
カルロの言葉にジャンはギョッとした。
「殺された!?」
「ん? なんだ知らないのか?」
ああ、とジャンは呟いた。道が混んでいたのはそのことも関係あるのだろうか。一体この国はどうなっているのか。
「ジャンはビャクタンで下りるんだろ?」
ディアラムにはもう興味がないのか、カルロは話題を変えた。
「もちろん」
「それじゃあ、一緒だな。俺はちぃとばかし寝てるからよ。何かあったら起こしてくれな」
そう言って船内へと向かうカルロにジャンは軽く手を振って答えた。さて、自分は小遣い稼ぎに露店を開くことにするか。
ジャンはさらに人が多く、賑わっている方へと移動した。
背中の荷物を下ろし、中を開ける。目に飛び込んできたのは二人の息子へのお土産の自動車のおもちゃと妻へのディアラム製のブローチだった。故郷にいる家族の顔を思い浮かべながら商品を並べ始める。もう少しで愛しい家族に会えると思うと顔がにやけてしまう。
人の気配にふと顔をあげると目の前に男が立っていた。先ほどの若い男だ。煙草をくわえ、どうも不器用そうに火をつける。まるで慣れていないように。次の瞬間、男は思いきりむせていた。その様子にジャンは自然と首をかしげた。
男はむせながらもジャンが並べた商品を見ていた。
「かわいいわね」
若い娘の声にジャンは我に返った。娘はしゃがみこんで指輪を一つ手にとった。
「すごく安いけど、本物なの?」
「お嬢さん、こんなに綺麗で可愛らしく、しかも手作りの一点もの。それでこの値段!」
ジャンはそこで一旦言葉をきって、にっこりと娘に笑いかけた。
「――もちろん偽物です」
おどけるように肩をすくめたジャンに娘は笑った。これください、と娘はピンクの石が三つついた指輪を買っていった。人が次々と集まってきた。
「それ、もらおうか」
落ち着いた静かな声が聞こえた。例の男が紅い石のついたシルバーの指輪を指差していた。近くで見ると眼鏡の奥の瞳が驚くほど深い色をたたえているのがわかった。
「毎度!」
ジャンは指輪を男に渡した。無造作にお金を渡し、男は人ごみの中へと去っていった。もう煙草にむせることなかった。ほどなくすると幸いにして商品がすべて売れた。
船内へ戻ろうかと考えていたが、ジャンはどうしてか気になり、急いで露店を片づけ、男を捜した。
露店を開いていた場所から少し離れた柵の側で男は眩しそうに空を仰いでいた。久しぶりの澄んだ青空に、男は先ほど買った指輪をかざしていた。シルバーの指輪もその紅い石も光を受け輝いている。
「気に入ってくれたかい?」と声をかけようとしたが、ジャンは言葉を飲みこんだ。男が泣いているように見えたからだ。実際には男は涙を流してはいなかったが、その姿は確かに泣いているように見えた。
男は指輪を握り締め、目を閉じていた。まるで祈りを捧げるように。
次の瞬間、男は指輪を海に向かって高く、遠く投げたのだった。ジャンは思わず目を見開いた。何も言えず、スローモーションに感じられる指輪の軌跡をただ見ていた。
指輪は空の青から海の青へと落ちていった。ジャンは指輪が海底に着く音が聞こえたような気がした。
自分が精魂込めて作ったものを投げられていい気はしない。だが、ジャンにはその行為が男にとって大切な意味を持っていることを切に感じた。自分でも意識しないうちに自然と声をかけていた。
「――こんなに澄んだ青い空は久しぶりですね」
口から出た言葉はあまりにも他愛のないものだった。
ジャンの言葉に男はゆっくりと振り返った。
煙草を一口吸い、一呼吸置いてゆっくりと吐き出す。
何も言わずに男は微笑んで軽く頭を下げた。そして、そのままジャンの横を通り過ぎていった。賑わいを見せる人々の中に男はそのまま消えていった。
「おーい、ジャン! いつまでもそこにいないで中で一杯やろうぜ」
寝ていたのではなかったのか、船内から出てきたカルロは顔を昼間から赤らめていた。
「おう、いいな! 今行くよ」
そう言い、ジャンは旧友の元へ走って行った。
相変わらず空は雲一つなかった。