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東京カプセル・トイ

作者: 3106.ina
掲載日:2026/01/24

第一章 透明なカプセル


 オフィスの中は、一年中同じ湿度が保たれている。

 午後七時。渋谷スクランブルスクエア二十八階。「ヒューマン・リソース・バンク」のフロアには、キーボードを叩く乾いた音だけが、さざ波のように響いていた。空調の微かな唸り音が、深海の底で聞く水流の音に似ている。

 安住奏あずみ かなでは、眼前のデュアルモニターに表示された「商品」のスペックを淡々とスクロールした。

 ブルーライトを浴び続けた眼球が、乾いた砂のように軋む。

 『ID:90482 男性 34歳』

 『スキル:Java(B)、Python(C)、PM経験なし』

 『希望単価:月額60万〜 稼働:即日可』

 『備考:コミュニケーションに難あり。フルリモート推奨』

 画面の中では、人間が均質なデータへと圧縮されている。

 奏の仕事は、この圧縮された人間たちを、彼らの形状に適合する企業という名の「空きスロット」へとはめ込んでいくことだ。コーディネーターという肩書きはついているが、やっていることはパズルのピース合わせに近い。あるいは、工場で規格外の野菜を選別する作業か。

「安住さん、この9048、いけますかね? 急ぎの案件なんですが」

 隣の席から、営業の男が声をかけてきた。やたらと甘ったるいムスク系の香水の匂いが、乾燥した空気に異物として混じる。

「厳しいですね。クライアントは『能動的に動ける人』を求めてますから。この経歴だと、指示待ちの傾向が強い。現場に入れたら一ヶ月でクレームになりますよ」

「そこをなんとかねじ込めないっすかね。今月の数字、あと一人足りないんで。とりあえず入れて、ダメなら交換すればいいじゃないですか」

「……ねじ込んだところで、弾き出されて傷つくのは彼ですよ」

 奏は冷たく言い放ち、そのウィンドウを閉じた。男は舌打ちをして、また別の「弾」を探し始める。

 彼らに悪気はない。ここにあるのは、ただの流通だ。需要と供給という巨大なポンプが、都心の高層ビルの中で休みなく稼働し、人間という流体を吸い上げては吐き出している。

 机上のスマートフォンが短く震えた。登録スタッフからの相談メッセージだ。

 『今の現場、空気が合わなくて息が詰まりそうです。なんとかなりませんか』

 奏は既読をつけずに画面を伏せた。息が詰まるのは、あなただけじゃない。

 

 奏はふと、窓の外を見た。

 眼下には、無数の光の粒が流れている。車のヘッドライト、街灯、ビルの窓明かり。それらは巨大な水槽の底で光るバクテリアのように見えた。

 ガラスに映る自分の顔は、青白く、どこか他人行儀だ。無表情なその顔は、深海魚のそれに似ているかもしれない。

 

 自分自身もまた、誰かが設定したパラメータ通りに動く、ひとつのユニットに過ぎないのではないか。

 二十九歳。独身。年収四百五十万。都内ワンルーム在住。趣味、特になし。

 もし自分がこのデータベースに登録されたら、誰が「採用」ボタンを押すのだろう。あるいは「在庫処分」のタグを貼られるのがオチか。

「お先に失礼します」

 定時を二時間過ぎていた。誰からの返事も期待せず、奏はタイムカード代わりのICチップを端末にかざした。

 『退勤』の電子音が、あまりにも軽く鳴った。

 渋谷の喧騒を避けるように、奏はいつも裏通りを選んで歩く。

 再開発から取り残された、古びた雑居ビルが並ぶ一角。そこだけ時間が止まったような、埃っぽい匂いがするエリアだ。真新しいビルのガラス壁が光を反射する一方で、この路地は都市の影を吸い込んで湿っている。

 コンビニで買った発泡酒のロング缶を片手に、あてもなく歩く。これが唯一の趣味と言えなくもない「深夜徘徊」だ。

 整然としすぎたオフィスから解放されると、無性に乱雑なものが見たくなる。ひび割れたアスファルト、錆びた看板、室外機から滴り落ちる水。それらの「ノイズ」こそが、今の奏には精神安定剤だった。

 ふと、一軒の閉まったタバコ屋の軒先に、見慣れない筐体が置かれているのが目に入った。

 ガチャポンだ。

 最近流行りの、何千円もするようなプレミアムな代物ではない。塗装が剥げかけ、赤色のボディは日焼けしてピンク色になり、プラスチックの窓が黄ばんだ、昭和の遺物のような機械。

 中には、色あせたカプセルが数個だけ、コロンと転がっている。

 ――『都会の夢 一回・百円』

 手書きのポップが、変色したセロハンテープで雑に貼られていた。

 百円。今どき、自販機の水さえ買えない金額だ。

 奏はポケットを探り、百円玉を一枚取り出した。小銭入れの中で冷たくなっていた硬貨を、投入口に押し込む。

 ガリッ。

 ハンドルを回すと、錆びついた金属が擦れる鈍い音がした。まるで、この街の関節が悲鳴を上げているような音だ。

 抵抗を感じながら、ゆっくりと回す。

 

 一回転。

 

 ゴトン。

 取り出し口に、くすんだ半透明のカプセルが転がり落ちてきた。

 

 奏はしゃがみ込み、それを拾い上げた。

 軽い。中身が入っているのか疑わしいほど軽い。

 街灯の明かりにかざしてみる。カプセルの中には、小さく丸められた紙切れのようなものと、何か硬質な欠片が入っているのが見えた。

 開けようとして、手が止まった。

 今ここで中身を知ってしまえば、それはただの「ゴミ」になるかもしれない。

 カプセルという殻に閉じ込められている間だけ、それは「夢」という可能性の状態(シュレーディンガーの猫)でいられる。

「……馬鹿みたいだな」

 奏は自嘲し、カプセルを開けずにコートのポケットに突っ込んだ。

 ポケットの中で、指先でその球体を転がす。滑らかなプラスチックの感触。

 見上げると、先ほどまで自分がいた高層ビルが、夜空に突き刺さるようにそびえ立っていた。

 その窓の一つ一つが、巨大なガチャポンのカプセルのように見える。

 

 あの透明な箱の中で、人々は膝を抱え、いつか誰かが「ハンドル」を回してくれるのを待っている。

 昇進というハンドル。結婚というハンドル。成功というハンドル。

 運命の大きな手が、ガリガリと音を立てて自分たちを外の世界へ転がり落としてくれるのを、酸素の薄い部屋で待ち続けているのだ。

 奏は、ポケットの中のカプセルを強く握りしめた。

 微かな痛みを感じるほどの強さで。

 その時、スマートフォンが振動した。

 マッチングアプリの通知だ。

 『Minaさんから「いいね!」が届きました』

 画面には、加工アプリで肌を陶器のように白くし、ブランドロゴの入ったバッグをさりげなく写り込ませた女の写真があった。背景はナイトプールの水色だ。

 これが、次のカプセルか。

 奏は無感情に「いいね」を返し、また歩き出した。

 都会の濁流の中へ、身を投じるように。

 三日後の土曜日。奏は表参道のカフェテラスにいた。

 アプリでマッチングした「Mina」こと、ミナとの初対面だ。

 

 彼女は、プロフィール写真よりもさらに精巧に作られていた。

 揺れる素材の白いブラウス、完璧にカールされた栗色の髪、そして隙のないメイク。まるでショーケースからそのまま抜け出してきたマネキンのようだ。

「はじめまして、ミナです」

 声のトーンまで調整されているようだった。高すぎず、低すぎず、男が心地よいと感じる周波数。

「安住です。写真通りの素敵な方ですね」

「やだ、安住さんこそ。人材系のお仕事なんですよね? なんかインテリって感じで緊張しちゃう」

 会話はスムーズに進んだ。まるで台本があるかのように。

 彼女は二十四歳(自称)で、現在は家事手伝い兼インフルエンサー見習いをしているという。テーブルに置かれたカプチーノには手を付けず、彼女はしきりにスマホの通知を気にしている。

 そして、彼女の視線が時折、値踏みするように奏の腕時計(量販店のセイコー)や靴(手入れされたリーガル)へ走るのを、奏は見逃さなかった。

 

 彼女は探しているのだ。自分が「投資」するに値するカプセルかどうかを。

 

「私ね、東京って大きな水槽みたいだなって思うんです」

 不意に、ミナがそう言った。冷めたカプチーノの泡をスプーンで突きながら。

 奏はドキリとした。

「水槽?」

「ええ。みんな綺麗に泳ごうと必死で。でも、本当に輝けるのは一部のレアな魚だけでしょ? SSRスーパースペシャルレアみたいな」

「ミナさんは、SSRになりたい?」

「なりたい、じゃなくて」

 彼女は少しだけ目を細め、強い光を宿した。その瞳の奥には、渇望という名の飢えが見えた。

「なるんです。だって、そのために田舎から出てきたんだから。ノーマルのまま終わるなんて、死んでるのと同じでしょ?」

 その夜、流れで彼女のマンションへ行くことになった。

 港区の、家賃相場が奏の月収を越えそうなデザイナーズマンション。

 「パパが借りてくれてるの。実の親みたいな人」と彼女は悪びれずに言った。

 部屋は、驚くほど物がなかった。

 生活感がない。壁にはハイブランドの紙袋がアートのように飾られ、中央には撮影用のリングライトが鎮座している。

 家具も食器もすべてが白で統一され、汚れ一つない。冷蔵庫には、輸入ミネラルウォーターと美容液しか入っていなかった。

 

 ここは部屋ではない、と奏は思った。

 これは、彼女自身を展示するための透明なパッケージだ。

 彼女はこの狭いガラスケースの中で、外からの視線だけを酸素にして呼吸している。

「ねえ、私のこと、綺麗だと思う?」

 ベッドの上で、彼女は奏に尋ねた。

 その肌は冷たく、どこかプラスチックのような感触がした。体温を感じない抱擁。

「ああ、綺麗だよ」

 嘘ではなかった。だがそれは、精巧な造花を愛でるような感情だった。

 

 彼女はSSRを目指していると言ったが、奏の目には、彼女自身が「量産型の承認欲求」という規格品に見えてならなかった。

 自分も、彼女も、この都市のどこにでもある在庫の一つに過ぎない。誰かに選ばれ、消費され、飽きられるのを待っているだけの。


第二章 回転するハンドル


 一ヶ月後。奏の職場には、見えない「処刑人」が立っていた。

 最新鋭のAIマッチングシステム『HR-Next』の本格稼働だ。

 これまではコーディネーターの経験則と対話で行われていたマッチングが、完全自動化された。

 効率は劇的に向上した。だが、奏はモニターの前で、吐き気のような違和感を抱えていた。画面上の数字が、血の通わない冷たい羅列に見える。

「おい、このマッチング、本気か?」

 奏は画面を指差して叫んだ。

 AIが推奨したのは、登録スタッフの田口さん――五十二歳のベテランエンジニア――を、過酷な短納期の炎上案件へ投入するというプランだった。

 『適正率98%』

 モニターにはそう表示されている。だが、奏は知っている。田口さんには介護が必要な母親がいて、残業ができないことを。そして、その案件は過去に三人のエンジニアが鬱でリタイアしている「人食い案件」であることを。

「部長、これは承認できません。田口さんをこの案件に入れるのは、死刑宣告と同じです」

 奏は部長席へ詰め寄った。しかし、部長は手元のタブレットから目を離さずに答えた。

「安住くん、データは嘘をつかないよ。彼のスキルセットと過去のストレス耐性値から算出された最適解だ」

「耐性値? 人間を消耗品扱いするんですか。彼は部品じゃない、生活があるんです」

「彼らはリソースだ。使い所を間違えなければ輝く。AIは感情を挟まない。だからこそ公平なんだよ」

「公平な虐殺だ!」

「言葉を慎みたまえ」

 部長は冷ややかな目で奏を見上げた。それは、不良品を見る目だった。

 奏は自分のデスクに戻り、システム上で手動修正を試みた。

 しかし、『権限がありません』という無機質なポップアップが表示されるだけだった。赤い警告灯が、奏の無力さをあざ笑うように点滅する。

 

 その時、ふと気づいた。

 AIが弾き出した「不要リスト」のタブが、画面の隅で点滅していることに。

 恐る恐るそれをクリックする。

 そこに並んでいたのは、登録スタッフの名前ではなかった。

 

 『推奨削減リスト:コーディネーター部門』

 その三行目に、『安住 奏』の名前があった。

 背筋が凍った。

 自分が誰かを選別しているつもりでいた間に、自分自身もまた、さらに上位のシステムによって選別されていたのだ。

 奏は震える手でマウスを握った。クリック音がやけに大きく響く。

 自分はプレイヤーではなかった。ただの駒ですらなかった。

 ガチャポンのカプセルの中で、「選ばれる」のを待っているだけの、ちっぽけな中身に過ぎなかったのだ。

「悪いが、安住くん」

 背後から部長の声がした。振り返らなくてもわかった。それが、ハンドルの回される音だと。

「来期から君のポジションは、このシステムが兼務することになる。……わかるね?」

 同じ頃、ミナもまた、煌びやかな地獄の底にいた。

 六本木のタワーマンション最上階。会員制のホームパーティ。

 夜景を見下ろす広大なリビングには、シャンパンの泡のように華やかな男女が群がっていた。空気さえも金色に染まっているような錯覚。

 ミナは、勝負服の黒いドレスを着て、「パパ」の腕に手を添えていた。

 パパはIT企業の役員で、ミナの生活の全てを支えているスポンサーだ。今日、彼が投資家仲間に自分を紹介してくれるはずだった。「自慢の恋人」として。

 それが、SSRへの階段だと信じていた。この階段を上れば、もう誰からも見下されることはない。

「あ、健太さん!」

 パパが声を上げた。視線の先には、有名なベンチャー社長がいる。

 パパはミナの手を振りほどき、小走りで駆け寄っていった。

 取り残されたミナは、グラスを持ったまま立ち尽くす。グラスの中の氷が、カランと虚しい音を立てた。

 ふと、パパが誰かを連れて戻ってきた。

 「紹介するよ。今度うちの会社のイメージモデルになってもらう、リサちゃんだ」

 そこにいたのは、ミナより三つは若い、透き通るような肌の少女だった。

 あどけなさと、残酷なほどの若さ。そして、何より「加工」のいらない天然の美しさ。

 パパの目は、もうミナを見ていなかった。リサの肩に手を回し、まるで新しい高級車を見せびらかすような顔をしている。

「……え?」

 ミナの声は喧騒にかき消された。

 誰もミナを見ていない。さっきまで親しげに話しかけてきた取り巻きたちも、潮が引くようにリサの周りへ移動していく。

 自分が透明人間になっていく感覚。いや、最初から透明だったのだ。中身のないカプセルだったから。

 その時、バッグの中でスマートフォンが異常な振動を始めた。

 嫌な予感がして画面を見る。

 SNSの通知が止まらない。画面を埋め尽くす罵詈雑言。

 『この整形女、脱税で捕まった詐欺グループの愛人じゃん』

 『加工なしの画像流出してるw 顔違いすぎ』

 『パパ活おつかれー』

 『ざまあ』

 ニュース速報の通知。パパの会社の不正疑惑、そして主要メンバーの逮捕状。

 それに群がるハイエナたちが、関係者としてミナのアカウントを特定し、晒し上げていたのだ。

 透明な水槽が一瞬にして泥水で満たされる。

 過去の投稿、虚勢を張ったブランド自慢、すべてが薪となって炎上していく。

「ちょっと、君」

 インカムをつけた黒服のスタッフが、無表情に近づいてきた。

「主催者様から、ご退場いただきたいとのことです。……場の空気が悪くなるので」

 

 ミナはパパの方を見た。彼はリサと談笑しながら、シャンパンを掲げている。警察が来る前の、最後の晩餐とも知らずに。

 彼は一度も振り返らなかった。

 

 ミナは逃げるようにエレベーターに乗った。

 ガラス張りの箱が、高速で地上へと落下していく。

 気圧の変化で耳が痛い。

 いや、痛いのは耳ではない。

 自分が必死で膨らませてきた「特別」という名の風船が、破裂する音だった。


第三章 路地裏の逃避行


 深夜二時。冷たい雨がアスファルトを叩いていた。

 奏とミナは、代々木公園近くの東屋で合流した。

 

 ミナはブランドバッグ一つを抱え、濡れた野良猫のような姿で震えていた。

 ドレスの裾は泥で汚れ、ヒールは片方折れている。完璧だった巻き髪は雨で張り付き、メイクは崩れて黒い涙の跡を作っていた。

 奏もまた、ダンボール一箱分の私物を抱えたまま、行き場を失っていた。

「……全部、なくなった」

 ミナが呟いた。白い息が雨に溶ける。

「家も、カードも、フォロワーも。私、ただのゴミになっちゃった」

「奇遇だな。俺もだ」

 奏は自嘲気味に笑い、コンビニで買った温かいお茶のペットボトルを渡した。

「ねえ、泊まるところある?」

「いや。会社の寮だったから、今日で締め出された。ビジネスホテルに泊まる金も節約したい」

「じゃあ、私たち、ホームレス?」

「一時的な、な。……雨宿りできる場所を探そう」

 二人は雨の中を歩き出した。

 行く当てはなかったが、止まっていれば寒さと惨めさで凍え死んでしまいそうだった。

 深夜のコンビニの明かりが、残酷なほど眩しく見える。ショーウィンドウに映る二人の姿は、都市の異物そのものだった。

 辿り着いたのは、路地裏のコインランドリーだった。

 二十四時間営業の、無人の店舗。

 ガラスドアを開けると、温かい乾燥機の排気と、柔軟剤の甘い匂いが充満していた。

 そこは、都市の底にあるエアポケットのようだった。蛍光灯のジーッという音が、妙に落ち着く。

 ベンチに並んで座り、回る洗濯機を眺める。

 グルグルと回るドラムの中で、誰かのシャツやタオルが揉みくちゃにされ、叩きつけられている。

「あれ、ガチャポンみたい」

 ミナが言った。視線は回転するドラムに固定されている。

「回されて、洗われて、脱水されて。……私たちも、あの中に入ってるのかな」

 奏は、ドラムの中で叩きつけられる洗濯物を見つめた。

「そうかもな。巨大な洗濯機の中で、汚れを落とされている最中なのかもしれない」

「私の汚れは落ちないよ。ネットに一生残るもん。デジタルタトゥーってやつ」

 ミナは自分の手の甲を爪で強くこすった。

「みんなが見てる。嘲笑ってる。私が『量産型』のくせに、調子に乗ってたから」

「……ここにいるお前は、画像データじゃない」

 奏はミナの手を取り、自傷気味な動きを止めた。

 冷え切った指先。虚飾のメッキが剥がれた彼女の手は、驚くほど華奢で、そして温かさを求めていた。

 そこにはSSRの輝きはない。けれど、確かな脈動があった。

「俺たちは、選ばれなかった。弾かれた不良品だ」

 奏は静かに言った。

「でも、だからこそ、誰のショーケースにも並ばなくていい。自由だ。もう、誰かの評価のために呼吸しなくていいんだ」

 ミナは泣き出しそうな顔で笑った。

 化粧の落ちたその顔は、初めて会った時よりもずっと幼く、そして人間らしく見えた。

「安住さん、変な人。……でも、少し温かい」

 二人は肩を寄せ合い、乾燥機が止まるまでの束の間、泥のような眠りに落ちた。外ではまだ、雨が都市の汚れを洗い流すように降り続いていた。

 翌朝、雨は上がっていた。

 空は洗われたように青く、雲ひとつない。

 二人は、奏が以前借りていたワンルームの鍵がまだ使えることを思い出し、荷物を取りに向かった。

 退去立会いまでの数時間だけ、そこは二人の避難所になった。

 何もない部屋。家具も家電もない、白い箱。

 引越しの荷造りをする気力もなく、二人は床に座り込んだ。

 

 奏はふと、コートのポケットに入れたままだった「あれ」を思い出した。

 一ヶ月前の夜、路地裏で回した百円のガチャポン。ずっとポケットの中で、握りしめていたもの。

 

 奏はクローゼットに掛けてあったコートを探り、そのカプセルを取り出した。

 くすんだ半透明の球体。

「何それ?」

 ミナが顔を上げる。

「俺の『夢』だ。百円のな」

 奏はカプセルに力を込めた。パキッ、という乾いた音がして、カプセルが割れる。

 中から転がり出てきたのは、安っぽい金メッキの指輪だった。

 大きなプラスチックの宝石がついている。子供騙しの、昭和の駄菓子屋にありそうなオモチャだ。

 ミニブックには『宇宙の秘宝リング・全十種』と書かれている。

「……何よそれ。ゴミじゃない」

 ミナが呆れたように言った。

「ああ、ゴミだ。原価なんて数円だろう」

 奏はそれを指先で摘まみ、窓から差し込む朝日にかざした。

 チープな赤いプラスチックが、光を乱反射してキラキラと輝いた。その輝きは、どんな高価なダイヤモンドよりも、今の二人には鮮烈だった。

「でも、これは俺が選んで、俺が回して出したゴミだ。誰かに与えられた餌じゃない」

 奏は、その指輪をミナに差し出した。

「SSRじゃない。レアでもない。ただのハズレだ。でも、カプセルから出せば、こうして光を透かすことはできる」

 ミナは震える手でそれを受け取った。

 彼女の細い指には、そのオモチャの指輪はあまりにも不釣り合いで、滑稽だった。

 けれど彼女は、それをじっと見つめ、やがてふっと息を吐いた。

 それは、演じられた溜息ではなく、肺の底から絞り出された生身の呼吸だった。

「……バカみたい。本当にバカみたい」

 彼女は泣きながら、少しだけ笑った。

 その笑顔は、どんなフィルターを通した自撮りよりも美しく、奏の目に焼き付いた。

 二人は、都市の底に堆積したダブりのカプセル同士だった。

 けれど、割れて中身を曝け出したその瞬間、初めてお互いの体温に触れた気がした。透明な殻は、もうどこにもなかった。


最終章 星空の軌道


 季節が二つ巡った。

 奏は「ヒューマン・リソース・バンク」を辞めた――いや、実質的に追い出されたのだが、後悔はなかった。

 今は、湾岸エリアにある小さな物流倉庫の現場管理をしている。

 給料は以前の三分の二になり、場所も都心から離れた埋立地だ。毎日、トラックから吐き出される荷物を検品し、汗を流す。

 だが、モニター上の数字ではなく、重みのある「モノ」を扱う今の仕事は、意外と性に合っていた。筋肉の疲労が、夜の深い眠りを約束してくれる。AIに管理されるのではなく、自分の目と手で現場を回している感覚があった。

 ミナ――本名、美奈子は、SNSのアカウントを全て削除した。

 今は東京を離れ、北関東の実家に戻っている。地元の小さなパン屋で働き始めたという。

 

 『東京の水は合わなかったけど、こっちの小麦粉は悪くないよ』

 昨日届いたメッセージには、焼き上がったばかりの不格好なクロワッサンの写真が添えられていた。

 照明も凝っていない、加工もしていない、ただの茶色いパンの写真。けれど、湯気が立つようなその写真は、かつての彼女が投稿していたどんな高級フレンチよりも美味しそうだった。

 彼女はもう、SSRを目指していない。ただの「パン屋の店員」として、カプセルの外の空気を吸っている。

 奏は仕事帰り、久しぶりにあの路地裏へ足を運んだ。

 タバコ屋はとうとう閉店し、シャッターが下りていた。「貸店舗」の貼り紙が風に揺れている。

 しかし、あの古びたガチャポンの筐体だけは、なぜかまだそこに置かれていた。まるで、忘れ去られた地蔵のように。

 覗き込んでみると、中身はもう空っぽだった。

 誰かが全部回したのか、それとも業者が中身だけ回収したのか。

 空っぽの透明なケースだけが、夕日を浴びて寂しげに光っている。

 

 奏は、百円玉を入れることなく、空のハンドルを回してみた。

 ガリッ。ガリッ。

 重たい手応えだけが返ってくる。中身が出ない回転音は、どこか物悲しい。

 ふと、ベランダのメダカの話を思い出す。

 狭い鉢の中で、飼い主の気まぐれに翻弄されながら生きる小さな命。

 自分たちもまた、この東京という巨大な筐体の中で、見えない力に回され、転がり落ち、どこかへ運ばれていく存在なのかもしれない。

 その運命からは、完全には逃れられない。

 だが、カプセルを割って外に出ることはできる。

 たとえ中身が期待していた黄金ではなくても、空気を吸い、自分の足で歩くことはできる。

 鉢の外には、もっと広くて、少しばかり塩辛い海が広がっているのかもしれない。

 奏は空を見上げた。

 冬の澄んだ夜空に、オリオン座が見える。

 あの星々の配置もまた、神様が回したガチャポンの中身のように、無造作で、けれど残酷なほど美しかった。

 一つ一つの星は孤独だが、離れているからこそ、星座という物語を描けるのだ。

「悪くないハズレだな」

 奏は白く濁った息を吐き出し、コートの襟を立てた。

 ポケットの中には、まだあのオモチャの指輪が入っている。ミナが実家に帰る時、「お守り代わりに持っていて」と置いていった、唯一の戦利品だ。

 指先でその凸凹を確かめると、不思議と力が湧いてくる。

 彼は雑踏へと歩き出した。

 無数のカプセルがひしめき合う、この街の片隅で呼吸を続けるために。

 足取りは軽い。誰かのハンドルではなく、自分の意思で地面を蹴っているのだから。

(完)

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