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第2章 第7話:欠番000の調律

佐藤アラタは自らの「ルーツ」を一つ清算した。 しかし、その勝利の代償はあまりにも大きかった。


アラタの「死への渇望」を守り抜こうとした管理官・リプレは、管理対象であるアラタと魂を紐付けた結果、彼の「色を失いたい」という意志に侵食され、存在の崩壊デリートを始めてしまう。

急速に色彩の砂漠へと溶けゆくリプレ。 事務的で、冷徹で、けれど誰よりもアラタの魂を「査定」し続けてきた彼女を前に、アラタは一つの決断を下す。


それは、自分を空っぽにするための旅路において、初めて自分以外の誰かのために「自分の欠片」を差し出すことだった。


この世界で最も忌むべき禁忌――「記憶の直接譲渡」。 一人の男と、一人の女神。 ただの管理関係だった二人は、一つの記憶を共有することで、逃れられない「共犯者」へと堕ちていく。

砂漠に倒れたリプレの体は、もうほとんど背景の紫色の砂に透けていた。 首筋の『欠番:000』が、断末魔のようなノイズを撒き散らしながら激しく明滅している。


「おい……っ、これを開け! 冗談じゃねえぞ!」


俺は必死に空中のウィンドウを叩いた。 「査定」だの「残業」だの抜かして、自分を削ってまで俺を守ったこのお人好しな死神を、こんな場所で終わらせてたまるか。


視界に、警告音が鳴り響く。


【警告:管理ユニット000の構成データが臨界点を突破】

【修復には高純度のパーソナル・データ(記憶)の直接譲渡が必要です】


「譲渡……?」


リストを見る。だが、第5話で守り抜いた『妻と娘との朝食(120万)』の項目は、ロックがかかったように暗い。魂の核に直結しすぎている記憶は、他人に移すことができない仕様らしい。


リプレの指先が、砂のようにさらさらと崩れ始める。 迷っている暇はない。俺は震える指で、リストの隅にある「端金はしたがねにもならない記憶」をかき集めた。家族との思い出じゃない。俺が俺であったというだけの、取るに足らない欠片。

誰も知らない俺だけの記憶。


『五歳の夏、誰にも内緒で一人で泥遊びをしていた午後』

『夕立の匂いと、冷たい泥が爪の間に入る感触』

『ただ、泥の城を作って、それが崩れるのを眺めていた空虚な時間』


「……持っていけ、リプレ! 全部、あんたにやる!」


俺はウィンドウを掴み、消えかかっている彼女の胸元へと叩きつけた。


パリン――。


モノクロの俺の体から、泥の冷たさと夕立の匂いが光となって彼女の中へ吸い込まれていく。 それと同時に、俺の脳内からその感触が急速に色褪せ、消えていった。


「――っ、が、あ……ッ!!」


リプレの体が大きく跳ねた。 彼女の欠落していた回路に、俺の記憶が泥のように流れ込み、無理やり個体としての形を繋ぎ止めていく。 やがて光が収まり、砂漠の上にリプレが静かに横たわった。体はもう透けていない。


「……リ、プレ?」


恐る恐る声をかけると、彼女の睫毛が震え、瞳が開いた。


「……泥、遊び」


リプレが、ぼうっとした声で呟く。 「……冷たくて……でも、少しだけ、誰かに見てほしかった、午後の色……。佐藤さん、これは……?」


彼女は自分の手をじっと見つめ、それから俺を見た。その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。


「佐藤さん……あなた、なんてことを……。管理官が対象者の記憶をそのまま受け取るなんて、規約どころか、この世界のことわりそのものに背く行為です」


彼女は震える手で自分の胸元を押さえた。 通常、記憶は「エネルギー」に変換されて消費される。だが今、俺の記憶は変換されず、彼女の個体データの一部として「上書き」されてしまったのだ。


「管理本部にバレれば、私は即座に初期化フォーマットされ、あなたは不適格者として強制排除される。……今の私たちは、この世界のシステムを内側から食い破る『共犯者』になったのですよ」


声はいつもの事務的なものに戻ろうとしている。だが、言葉の端々が抑えきれない感情で震えていた。 リプレの中に、俺という人間のバグが入り込んだ。 彼女はもう、冷徹な「審判者」ではいられない。俺が消えれば、彼女の中にある「泥遊びの記憶」も共に消える。彼女は俺を生かし続けるしかなくなったのだ。


「……上等だ。三五〇円のレシートを気にするような奴が、俺より先に消えるんじゃねぇ。あんたは俺を最後まで監視ガイドしなきゃいけないんだろ」


俺は地面に座り込み、大きく息を吐いた。 だが、リプレは悲しげに首を振ると、俺のリストを指差した。


「……いいえ、佐藤さん。ここからが本当の地獄です。あなたが私を救うために『自分だけの記憶』を譲渡してしまったせいで、この世界の最も残酷なルールが牙を剥きます」


リプレは、絞り出すような声で続けた。


「この世界において、エモーションの価値は『記憶の価値の重さ』で決まります。あなたが今私に渡した『自分一人だけの記憶』は、あなたという人間を支える最後の『純粋な土台』だった。それを失った今のあなたは、もう、自分一人では自分を維持できない」


彼女の表情が、これまでにないほど曇る。


「この世界は、『誰かを救いたい』という善意を、最も高純度な燃料として燃やすように設計されています。……自分を支える土台を失ったあなたが、今後、誰かのために動こうとしたり、優しさを見せようとするたびに、システムはあなたの意志に関係なく、あなたの最も大切にしている記憶……つまり『家族の思い出』から優先的に、自動で削り取ってエネルギーに変換し始めます」


「……なんだって?」


「あなたが私を救ったことで、システムはあなたの『愛』を最高の燃料ターゲットとしてロックオンしてしまった。あなたの根幹ですものね、エモーションも高くなっています。……もう、引き返せません。あなたが優しくなればなるほど、あなたはあいつらの名前を、笑顔を、光の速さで失っていくことになる」


俺の背筋に、氷を突きつけられたような寒気が走った。 リプレを救った代償は、俺が最後まで守り抜くと決めた「妻と娘との朝食」の記憶を、システムという巨大なあぎとの前に差し出すことだった。


「……佐藤さん。あなたのこの記憶……私、一生、誰にも売らせませんから」


リプレが立ち上がり、衣服の砂を払う。 その背中は、以前よりも少しだけ、モノクロの俺に寄り添うような色彩を帯びていた。


俺たちが共有したのは、たった一日の孤独な泥遊び。 けれど、その消えない汚点と「愛を燃料にする呪い」を抱えたまま、俺たちの心中へのカウントダウンは、世界を敵に回す逃避行へと姿を変えた。

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