第1章 第5話:50円の希望、100万エモーションの絶望
「思い出に、値段をつけられる恐怖を知っているか。」
リプレが自らを削って守ってくれた一夜が明け、佐藤は忘却の街『レム』の朝を迎える。 しかし、安らぎは長くは続かない。 街を出るため、そして生き延びるために必要な「物資」を揃えようとする佐藤の前に、この世界の露悪的なまでの価値基準が立ちはだかる。
昨日まで大切に抱えていた記憶が、この世界ではたったの「50円」で買い叩かれ、 一方で、愛する者の面影を繋ぎ止めるための代償には、到底払いきれないほどの「絶望」が要求される。
「自分の価値」を数字で突きつけられる極限状態。 佐藤は、自分の中にある「最後の一線」を守り抜けるのか。 第1章、ここに完結。
「……起きましたか。予定より三〇分寝坊ですよ、佐藤さん」
宿のロビーに降りると、リプレが相変わらずの社畜顔で端末を叩いていた。 だが、窓から差し込む極彩色の陽光に透けた彼女の横顔は、昨日よりも白く、どこか脆そうに見えた。昨夜、俺の眠りを守るために彼女が削った「バグ」――彼女自身の欠片の代償を、俺はまだ知らない。
「出発前に、装備を整えます。今のあなたの武装では、次のエリア……『色彩の荒野』は越えられません」
連れて行かれたのは、街の裏通りにある「感情の質屋」だった。 店内に漂うのは、古い写真が焼けるような、鼻を突く焦げた匂い。そこには、剣や防具、そして怪しげな薬の数々が並んでいたが、値札の代わりに、奇妙なスキャナーが設置されていた。
「佐藤さん、これに手を。あなたの『持ち物』の市場価値を確認します」
俺が恐る恐る手をかざすと、機械が不快な電子音を立てて、俺の脳内を舐めるようにスキャンした。 網膜に映し出された査定リストを見て、俺の心臓が凍りつく。
【感情価値・査定結果】 ・『学生時代の部活動の記録』:200エモーション(価値:低) ・『雨の日に同僚と交わした挨拶』:1エモーション(価値:皆無) ・『妻が作ってくれた最後の朝食の匂い』:1,200,000エモーション(価値:国宝級)
「……なっ!? 一、一二〇万……?」
俺の三十数年の歩みが、ゴミのような端金として並べられている。 一方で、あいつとの、あのかけがえのない朝の、味噌汁の湯気やトーストの焼ける匂いだけに、都市一つを買い取れるほどの「懸賞金」がかけられていた。
「……ひどいな。俺の人生、全部合わせても、あいつとの朝食一回分にすら勝てないのか」
「それがこの世界の『需要』です」 リプレは冷たく言い放つ。 「ありふれた日常の風景は、燃料としての燃焼効率が悪い。ですが、強烈な愛着や後悔が混じった記憶は、核融合にも等しい高純度エネルギーを生む。……佐藤さん。その『朝食の記憶』を売りなさい」
「ふざけるな! それを売ったら、俺はもう……あいつの温もりを思い出せなくなる!」
「それを売れば、最強の剣と、半年分の安全、そして彼女の面影を『記録データ』として保存できる高性能デバイスが手に入る。……思い出を『自分』の中に閉じ込めて共に朽ちるか、思い出を『情報』に変換して、あなただけが生き残るか。どちらが合理的か、考えなくてもわかるはずです」
リプレの言葉は、正しすぎて反吐が出た。 彼女が勧めているのは、あいつを「思い出」から「記号」に格下げすることだ。 俺は、リストの最下段……自分の『初恋の人の名前』すら、たったの50円(50エモーション)で買い叩かれているのを見た。この世界にとって、俺という人間を形作ってきた歴史は、それほどまでに無価値なのか。
リプレの指先が、端末の上で微かに震えている。 彼女の首筋にある『欠番:000』が、激しく明滅していた。 彼女は、俺が「朝食の記憶」を売らなければ、昨夜自分を削ってまで守った俺の命が、次の角を曲がった先で消えてしまうことを恐れている。……そんな矛盾した感情を、彼女は必死に「社畜の事務的な提案」で塗り潰そうとしていた。
「……朝食の記憶は、売らない。絶対にだ」
「……っ。なら、どうやって生き延びるつもりですか! その錆びたナイフで世界を斬るとでも?」
「ああ。……代わりに、こいつらを全部持っていけ」
俺は、ウィンドウに並ぶ「50円」や「1円」の価値しかない雑多な記憶たちを、次々とゴミ箱へドラッグした。 小学校の帰り道。つまらない会議の風景。初めて買った自転車の感触。 あいつとは関係のない、俺の人生の「背景」だったはずの記憶を、手当たり次第に、無慈悲に、燃料へと変えていく。
「背景がなくなれば、俺という絵は無様になる。……でも、中心にあるあいつだけは、まだ切り離さない」
「……非効率を通り越して、ただの自傷行為ですよ、佐藤さん」
リプレは大きなため息をつき、首筋の刻印を隠すように襟を立てた。 俺の手元に残ったのは、寄せ集めの端金で買った、刃こぼれした錆びた短剣一本と、昨日と同じ、味のしない50円のオレンジが一つ。
「……行きましょう。その錆びた意地がどこまで持つか、私の『残業』に付き合ってもらいます」
リプレは背を向けて歩き出した。 彼女の銀髪は、昨日よりも少しだけ色が抜け、彼女自身もまた「透明」に近づいているように見えた。
俺は、失った記憶の数だけ重くなった右足を引きずり、極彩色の街を後にした。 俺を構成する景色は、もう、半分以上が真っ白に塗り潰されていた。
佐藤アラタは、自分の人生の「背景」をすべて燃やし尽くし、錆びたナイフ一本を手にした。 彼が守り抜いた120万エモーションの価値を持つ『朝食の記憶』は、果たして明日を生き延びるに値する聖域か、それとも自分を焼き尽くすための呪いか。
さて、もしあなたがこの「極彩色の地獄」に放り込まれたとしたら――。
目の前に浮かぶ査定ウィンドウを見つめ、飢えを凌ぐために、あるいは明日の一歩を踏み出すために、あなたなら何を「燃料」として差し出しますか?
「初めて挫折した時の、あの喉の渇き」を売って、今日一日の水を買いますか?
「親友と朝まで語り合った、あの熱量」を売って、身を守る防具を買いますか?
「愛する人の、名前を呼ぶ時の声のトーン」を売って、敵を焼き尽くす力を手に入れますか?
あなたの人生の中で、最も「査定額」が高い記憶は何でしょう。 そして、それはあなたが**「自分自身」であるために、最後まで売らずにいられるもの**ですか?
物語は第2章へ。 佐藤の「背景」が消え、物語の余白が白く染まっていく中で、彼はついに、自分を支え続けていた「負い目」そのものと対峙することになります。




