表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/13

第1章 第2話:『1200時間()の対価、あるいは観覧車の査定額』

「思い出は、力(燃料)になる。」


この極彩色の地獄において、かつての幸せは何よりも価値のある「資源」だ。


第1話で主人公・佐藤の前に現れた案内人・リプレ。 彼女が突きつけた「1200時間」という猶予(あるいは境界線)の正体が、ついに明かされる。


迫りくる飢えた狼。 守ってくれるのは、32年間の確執が生んだ「父の残像」という皮肉な盾。 そして、窮地を脱するためにリプレが提示した悪魔の取引。


生き延びるための一歩は、自分を構成する最も大切な「記憶」を、無機質なスキルへと変換することだった。 あの日、観覧車で共有したはずの体温。色彩。言葉。 それらがリプレの指先一つで「査定」され、破壊の力へと書き換えられていく。


佐藤が手に入れたのは、希望か、それとも救いようのない喪失か。 「自分」を切り売りして進む、残酷なレベリングが今、幕を開ける。

「……っ、親父!」


俺の背後に立ち上がった「父の背中」の残像。狼の鋭い爪がその半透明の肩を切り裂くが、残像は岩のように動かない。 火花が散り、強烈な衝撃が俺の背中にも微かに伝わる。


「へぇ、なかなかの耐久値。さすが32年間、一度も真正面から向き合わなかった『負い目』が詰まってるだけありますね」


すぐ横で、リプレが相変わらずパイプ椅子に座ったまま、退屈そうに空中のウィンドウをスワイプしている。第1話で俺を突き放した時と同じ、冷めた社畜の顔だ。


「感心してる場合か! 早く、こいつを倒す方法を……っ!」


狼が二撃目を放つ。 父の残像が、ガラスが割れるような不吉な音を立てて大きく揺らいだ。


「教えるも何も、さっき言ったじゃないですか。今のあなたは防御特化。親父さんの背中に隠れてるだけじゃ、定時になっても決着はつきませんよ。……ほら、また削れた。親父さんの『日曜大工の記憶』が一つ消えましたね。合掌」


「……あ」


リプレが指差す先。父の残像の一部が霧のように溶けて消える。 同時に、俺の脳裏から、かつて実家の庭で父が黙々と犬小屋を作っていた光景が、消しゴムで消されたように真っ白に塗り潰された。


「くそっ……! やめろ、壊れる……親父が、壊れる!」


俺は支給品のナイフを握り直すが、手が震えて力が入らない。 3年間のモノクロな隠遁生活で、俺の「闘争心」はとうの昔に錆びついている。


「佐藤さん、提案です」


リプレが、ビジネスライクな、それでいて悪魔のような響きを孕んだ声で言った。 彼女はウィンドウの一箇所を強調表示し、俺の目の前に突きつける。


「攻撃用のスキル、解放アンロックしませんか? 今なら特別キャンペーン中で、少しの記憶を売るだけで、その狼を消し飛ばせる力が手に入りますよ。……あ、もちろん自己責任セルフですけど」


「記憶を……また売れっていうのか。もう、あいつらの顔すら……思い出せないのに!」


「大丈夫。まだ『エピソード』は残ってます。……えーと、在庫確認。あ、これいいですね。査定額も高い。『奥さんとの初デートの記憶』。これ一発で、その狼を真っ二つにできる攻撃スキルに変換できます。……どうします? 売りますか? それとも、親父さんの背中が消えて、今ここで食われますか?」


狼が咆哮を上げ、大きく口を開いた。 親父の残像に、今にも崩落しそうなほど深い亀裂が入る。


「…………っ」


俺は、自分の右拳を見た。 あいつらとの思い出を切り売りして生き延びる。 それは、家族を二度殺すことと同じではないのか。 だが、死ねない。ここで終われば、あいつらがこの世にいたという「最後の証明」である俺さえも、この極彩色の地獄に飲み込まれて消えてしまう。


「……売る。売ればいいんだろ! 売ってやるよ!」


俺が叫ぶと同時に、リプレの指先が虚空を叩いた。


【固有スキル:未完の残像(刺突)を解放】 【代償:記憶『初デートの観覧車』を消去しました】


その瞬間、頭の中でパリンと何かが割れる音がした。 俺の脳裏に、あの日あいつが着ていたワンピースの色が浮かびかける――だが、その色は鮮やかさを増す直前で、一気にモノクロへと反転し、砂のように崩れ落ちていった。 何を話し、何を見て、どんな体温を共有したのか。 一番大切な「核」の部分が、リプレの操作によって、無慈悲な数字の羅列へと書き換えられていく。


「……あ、あああああああッ!」


心臓を掴み出されるような虚無感。 それを埋めるように、俺の右手に、身の毛もよだつような「力」が宿った。 モノクロの世界には存在し得なかった、ドス黒いほどの「破壊」の色彩。


狼が、獲物の変貌を察知して身を翻そうとする。 だが、もう遅い。


俺は一歩、地を蹴った。 背後の「父の残像」を自らの体で突き破り、無謀なまでの突進。 父に守られていた温かな檻から、思い出を犠牲にして手に入れた力で、外へ飛び出す。


右拳を突き出す。 そこに現れたのは、あの日、波に飲み込まれる直前にあいつが俺に伸ばした「手の残像」だった。 泥にまみれ、それでも俺を求めた、細い指。 その残像が俺の拳を包み込み、狼の眉間へと吸い込まれていった。


「――ガ、ッ……」


咆哮すら許されなかった。 衝撃波が草原をなぎ払い、牛ほどもあった巨躯が、内側から爆発するように極彩色の霧となって霧散していく。 あいつの指先の残像が、最後に俺の頬を撫でたような気がした。


静寂が戻る。 残ったのは、焦げた芝生の匂いと、俺の荒い呼吸音だけだ。


「……お見事。クリティカルヒットですね。佐藤さん、やればできるじゃないですか」


リプレがパチパチと、やる気のない拍手を送ってくる。 彼女はパイプ椅子から立ち上がり、手元のウィンドウをスワイプして「戦闘終了」のボタンを押した。


「ほら、見てください。レベル、一気に8まで上がりましたよ。これで当面は死ぬ心配もありませんね。初期設定のわりには、かなり効率的なレベリングでした。私の査定も少しはマシになるかな」


「……リプレ」


俺は地面に膝をついたまま、かすれた声を出した。 右手の熱が引いていくのと同時に、心臓の奥が、氷を詰め込まれたように冷えていく。


「観覧車で……俺たちは、何を話したんだ」


「え?」


「妻と二人で乗ったんだ。それは覚えてる。高い場所が苦手な俺を、あいつが笑ったことも、なんとなくは……。でも、あいつがどんな声で笑ったのか、何を指差していたのか、思い出そうとするほど、脳裏にノイズが走るんだ……!」


地面を掴む指先に力がこもる。 今の俺は、自分の手で、あいつをもう一度泥の中に沈めたのだ。生き延びるための「燃料」として。


「そんなの、私の端末に残ってるログを見れば一文字一句わかりますけど……教えませんよ」


リプレは面倒そうに自分の銀髪をかき上げた。 その目は、相変わらず冷めた社畜のそれだったが、ほんの一瞬だけ、視線を俺から逸らした。


「それはもう、あなたの『燃料』として消費されたんです。私が教えたら、それは私の記憶であって、あなたの思い出じゃない。……ですよね?」


「…………」


「後悔してる暇があったら、これ。支給品です」


彼女が放り投げたのは、不自然なほど鮮やかなオレンジ色の果実だった。


「一個五〇円。私の自腹ですから。それ食べて、さっさと立ち上がってください。次の街まで歩かないと、私の今日の仕事、終わらないんですから。残業代、出ないんですよ、うち」


リプレは背中を向けて歩き出した。 色彩の暴力に満ちたこの世界で、彼女の無機質な言葉だけが、皮肉にも俺を現実へと繋ぎ止めていた。


俺は、味のしない果実を口に放り込み、一歩を踏み出した。 一歩進むたびに、幸せだった頃の自分が、一秒ずつ死んでいくのを感じながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ