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第1章 第1話:父の背中と、三五〇円のレシート

神様は、天から優しく見守ってくれる存在だと思っていた。 あるいは、悪魔のように傲慢に、人の運命を弄ぶ存在だと思っていた。


だが、現実はもっと救いがない。


俺の人生、俺の家族、俺の心。 そのすべてを「データ」として扱い、「効率」と「納期」だけで切り捨てていく。 そこにいたのは、神でも悪魔でもなく、ただの**『疲れた事務員』**だった。


これから語るのは、一人の男が家族の顔を忘れていく悲劇。 そして同時に、一人の女神が三五〇円のレシートに頭を抱える喜劇。


その最悪な交差点が、俺の二度目の人生のスタートラインだった。

「――う、ぐ……っ」


喉の奥にせり上がってきたのは、胃液の苦味だった。 視界を覆っていた光の奔流がようやく収まり、俺は地面に両手をついた。


「はぁ、はぁ……」


顔を上げた瞬間、俺は思わず目を細めた。 痛い。 情報のすべてが鋭利な刃物のように網膜を刺す。 空は、かつて子供たちが描いたクレヨンのような、不自然なほどの青。草むらは、毒々しいまでに鮮やかな緑。 3年間、モノクロの世界に住んでいた俺にとって、この色彩カラーは暴力だった。


「……ここ、は」


「異世界、第4層。……あー、やっぱり。転送座標が数メートルずれてるわ。これだから旧式の水晶プラグは困るのよね」


すぐ隣から、ひどく無機質な、事務連絡のような声がした。 見れば、さっきの銀髪の女――リプレが、どこから持ってきたのか折り畳み式のパイプ椅子に踏んぞり返り、空中に浮かぶ複数のウィンドウを猛烈な勢いでフリックしている。


「あ、佐藤さん。目覚めました? とりあえず無事みたいですね。あなたのデータ、今のところ『生存』で確定しときましたから。……あー、でも不備だらけ。これマニュアルの402ページ、例外処理案件だわ」


「……リプレ、お前……。俺の、記憶は……どうなった」


俺は震える手で頭を抱えた。 記憶はある。俺には家族がいた。愛していた妻。そして、まだ幼かった二人の子供。 あの日、俺が仕事に出ている間に、家ごと波に呑まれたあいつらが。


だが、おかしい。 「妻」という概念は、頭の中にある。 「子供が二人いた」という事実も、記録データとしてそこにある。 なのに、妻の名前を呼ぼうとして、唇が凍りついた。


「……え?」


あいつの、あのやんちゃな笑顔。 下の子の、まだ柔らかかった手の感触。 思い出せる。確かにそこに「あった」ことは確信できる。 それなのに、いざその細部を脳裏に描こうとすると、ピントが合わなくなる。 まるで、古びた映像の肝心な部分に、無慈悲なモザイクがかけられたかのように、記憶の芯が真っ白なノイズに塗り潰されているのだ。


「思い出せない。あいつらの顔が、名前が……っ!」


「あー、それ。不具合じゃなくて仕様なんで。命のローンを払うには、それくらい『換金性の高いデータ』を燃料に出してもらわないと。……というか、佐藤さん、そんなことより深刻な問題があるんですけど」


リプレが真顔で俺を指差した。


「私、さっきおにぎり食べたんですけど、そのレシートを境界の世界に落としてきたっぽくて。経費で落ちないんですよ、これ。自腹。三五〇円もしたのに。……今のあなたの喪失感、私のこの三五〇円の喪失感に比べれば誤差みたいなもんじゃないですか?」


「…………殺すぞ」


「あ、今の発言、カスハラとして本部に報告しときますね。あーあ、これだから現場仕事は嫌なのよ……」


リプレは欠伸をした。その時、草むらの奥から、低く、湿った唸り声が響いた。 現れたのは、牛ほどもある巨大な狼のような獣。その瞳は血のように赤く、俺を「処理すべき肉塊」として見定めている。


「グルルッ……」


「あ、来ましたね。ちょうどよかった。佐藤さん、その犬、適当に片付けてください。私、これからこのエリアのログイン状況を報告しなきゃいけないんで。あ、死ぬなら定時までに死んでくださいね。時間外の死亡処理、書類が三倍になるんですよ。マジで勘弁」


「お前……! 助けないのか!?」


「私、運営オペレーターですよ? 現場のトラブルはユーザーが自己責任で解決するのが規約なんです。わかったら、さっさとそのスキル使ってください。……えーと、スキル名は……『未完の残像』? うわ、中二病っぽい。これ、あなたが名付けたんですか?」


「俺じゃない!」


狼が地を蹴った。 死の恐怖が心臓を叩き起こす。逃げなきゃならないのに、足が震えて動かない。 その時、視界の端でウィンドウが激しく点滅した。


【固有スキル:未完の残像(父の背中)――自動発動】


「……親父?」


俺の背後に、半透明の「何か」が立ち上がる。 それは、かつて実家の庭で、寡黙に日曜大工に勤しんでいた親父の背中の残像だった。


「ガアッ!」


狼の爪が振り下ろされる。だが、衝撃は来なかった。 岩を叩いたような鈍い音が響き、狼の方が弾き飛ばされる。 俺の背後に立つ「親父」が、その広い背中で、俺を庇っていた。


「へぇ、防御系。親父さんの記憶がベースですか。皮肉ですよね、親孝行もしてないのに守られてるなんて」


リプレは端末に目を向けたまま、栄養ドリンクをズズズッと音を立てて飲み干した。


「さあ、守られてる間に終わらせてください。あなたが戦うたびにレベルが上がって、あなたの記憶がまたチャリンチャリンと燃えていきますけど……。まぁ、私のボーナスが戻るわけでもないですし、ご自由にどうぞ」


リプレは退屈そうに自分の髪の枝毛を探しながら、俺と狼の死闘を「他人の残業」でも眺めるような目で、ぼんやりと見守っていた。


極彩色の残酷な世界で、俺は自分の「過去」を切り売りしながら、最悪の第二歩目を踏み出した。

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