終話:色彩の向こう側
「アラタさ~ん、今日はお加減いかがですか?」
「・・・」
「今日は調子よさそうですね?なにか思い出しましたか?」
「・・・」
看護師はカルテを見た
【佐藤あアラタ 重度の記憶障害と精神疾患のため~・・・・】
鏡である「審判の門」が、圧倒的な白色の輝きを放ちながら、俺たちの前に立ちはだかった。
「……リプレ。あんたが持ってる俺の記憶を、門に返せ。そうすれば、あんたはバグではなくなる。あんたは元の『優秀な管理官』に戻れるんだ」
俺の体は、もう透けて消えかかっている。 家族の記憶のすべてをリプレに預けた俺には、この世界に留まるための質量がもう残っていない。
だが、リプレは俺の震える手を取り、強く、痛いほどに握りしめた。 彼女の瞳には、今も俺の妻の微笑みと、娘の泣き顔が、鮮やかな色彩として宿っている。
…やめてくれよ。つらくなる。
「……いいえ、佐藤さん。それはできません。この記憶を門に返せば、あなたの魂は『未練なし』と判断され、再生の権利を失って消滅します。……それは、私の『代筆』が失敗したことを意味する」
リプレの首筋にある『欠番:000』が、激しい光を放ち始めた。 彼女は、俺を現世に押し戻すための「エネルギー」を、自分自身の中に蓄えられた俺の記憶を燃やすことで作り出そうとしていた。
「やめろ! それを燃やしたら、あいつらが……俺の家族が、本当に消えちまう!」
「……いいえ。消えません。私が『覚えている』限りは」
リプレが、俺の耳元で囁いた。 その声は、かつての事務員としての冷徹さを保とうとしながらも、深い情愛に震えている。
「佐藤さん。この世界の最後のルールを教えます。……再生の門を潜る者は、この世界で得たすべての『色』と『記憶』を置いていかなければなりません。あなたが現世に戻った時、あなたは、自分の名前も、家族の顔も、そして私の存在も……すべてを忘れています」
「……なんだって?」
「それが、再生の対価。……代わりに、私があなたの『未練』のすべてを引き受けます。あなたが忘れてしまうあいつらの笑顔も、泥遊びの冷たさも、私の中に永遠に保存し、私はこの地獄で、あなたの人生を語り継ぐ『亡霊』として生き続けます。……それが、共犯者の最後の仕事です」
「……あんた一人が、地獄に居残り続けるだけじゃないのか?」
俺の言葉を遮るように、リプレは俺の背中を、門の向こう側へと力いっぱい突き飛ばした。
「……さようなら、佐藤さん。……不器用で、優しすぎた、私の大切なバグ(被験者)」
白光が俺を飲み込む。 俺の脳内から、あいつらの声が、景色が、リプレの銀髪の色が、猛スピードで剥がれ落ちていく。 必死に手を伸ばしたが、リプレの姿は、俺の家族の記憶と共に、色彩の彼方へと遠ざかっていった。
目が覚めると、俺はがれきの山の前に座り込んでいた。 救助隊の声が遠くで聞こえる。
「……俺は、何を……」
自分の名前さえ、すぐには思い出せなかった。 胸の奥に、ぽっかりと大きな穴が開いたような感覚。 何か、とても大切なものを、どこかに置いてきてしまったような、泣き出したいほどの寂しさ。
「おい、大丈夫か!? 怪我はないか!」
駆け寄ってくる救助隊員。俺は呆然と自分の手を見つめた。 そこには、三五〇円と書かれた、覚えのないコンビニのレシートが握られていた。
……俺の家族は、誰だっただろう。 ……俺は、なぜここで泣いているんだろう。
思い出せない。 けれど、なぜだろう。不思議と、前を向いて歩き出さなければならないという、強い意志だけが体に残っている。 誰かが俺の代わりに、この空虚な人生を「守ってくれている」ような、そんな温かい予感がした。
その頃。 極彩色の荒野に、一人、歩き続ける銀髪の女性がいた。 彼女の足取りは、かつてのような機械的なものではなく、どこか人間らしい重みを湛えている。
彼女は、ときどき空を見上げては、誰にも聞こえない声で独り言を呟く。
「……今日はいい天気ですね。佐藤さん」
彼女の中には、一人の男が生きた証のすべてが、宝石のように美しく詰め込まれている。 彼が忘れてしまった愛を、彼が捨ててしまった涙を。 彼女は、たった一人の「佐藤アラタの代筆者」として、この永遠の地獄で、彼の物語を紡ぎ続けていく。
いつか、彼が天命を全うし、再びこの門を訪れるその日まで。
「色彩の心中」 ―― 完
現世で思い出と記憶にむしばまれていたアラタにとって
現世も色彩の世界もどちらも地獄です。
ならせめて、なにもかも忘れて生きていくことが救済なのかもしれませんね。
今回は短編ということでダークな作品を考えていました。
いかがだったでしょうか。
次回はもう少し長編に挑戦してみます。
どうぞお付き合いください。




