第2章 第11話:鏡の向こうの境界線
俺の妻はどんな顔をしていたのだっけ?
子どもたちは?
親は?
俺の大事なものが、俺の中ではなく外にある絶望
調律官たちの追撃を振り切り、俺たちは極彩色の世界の最果て、空がドロドロとした鉛色に淀む「無銘の岸」へと辿り着いた。
俺の心は、驚くほど静かだった。 いや、「静か」なんて高尚なものじゃない。ただ、空っぽなのだ。
俺を俺たらしめていた『家族の記憶』のすべてをリプレという器に預けてしまったせいで、今の俺には「なぜここにいるのか」という理由さえ、霧の向こう側にある。
「……佐藤さん」
隣を歩くリプレが、俺を呼ぶ。 その声には、以前のような事務的な冷たさは微塵もなかった。 彼女の瞳は、今や俺の妻の優しさと、娘の無邪気な光をそのまま宿している。俺が失った「色」のすべてが、彼女という銀髪の身体に美しく、残酷に発現していた。
「……なあ、リプレ。あいつらは、どんな顔で笑ってたっけ」
俺の問いに、リプレは胸元を愛おしそうに押さえ、少しだけ伏し目がちに微笑んだ。その仕草さえ、どこか記憶の中の妻に似てきている。
「……奥様は、少しだけ眉を下げて、困ったように笑います。娘さんは、あなたが帰る足音が聞こえると、玄関まで裸足で駆けてくるんです。……とても、温かくて、眩しい光景でした」
リプレが語るたび、俺の胸にわずかな疼きが走る。 だが、それは「思い出した」という実感ではない。他人の書いた完璧な小説を読まされているような、どこか遠い国の出来事を聞いているような、奇妙な疎外感だ。
「……そうか。……なら、もういいんだ」
俺は地面に座り込んだ。 記憶を預けたことで、システムからの「搾取」は止まった。燃やすべき燃料(家族への愛)が俺の中にないからだ。だが、それは同時に、俺がこの世界で「生存する目的」を失ったことも意味していた。
「佐藤さん、何を……。まだ、先へ行けます。この岸を越えれば、管理本部の手が届かない『未定義領域』へ……」
なるほど、この先には安全な場所があるかもしれないのか、でもな、リプレ…
「リプレ、あんたは気づいてないのか」
俺は、自分の透け始めた手を見つめた。 記憶という「魂の重り」を失った俺の存在は、今や風に舞う塵よりも軽い。
「俺が俺であるための部品は、全部あんたの中にある。今の俺は、ただの『佐藤アラタという名前の抜け殻』だ。……皮肉なもんだな。あいつらを忘れたくないからあんたに預けたのに、預けたせいで、俺はあいつらを愛していた『自分』がどんな奴だったのかさえ、思い出せなくなっちまった」
リプレの瞳に、激しい動揺が走る。 彼女の中に流れ込んだ俺の愛が、彼女の管理官としての理性を激しく揺さぶっているのだ。
「……嫌です。そんなの、認めません。私が預かっているのは、あなたが戻るための『資産』です。あなたが消えてしまったら、この記憶は、ただの行き場のない幽霊になってしまう……!」
リプレが俺の肩を強く掴む。その手の温もりさえ、俺にはもう、システムのノイズのようにしか感じられなかった。あんだけ愛していたものがなくなってしまったら、
こんな無の感情になるのだな。
その時、鉛色の空が割れ、巨大な鏡が降りてきた。。
「……リプレ。あんたはもう、十分すぎるくらい『代筆』してくれたよ」
俺は彼女の手を優しく解き、立ち上がった。 目の前の鏡が、俺の「空虚」と、リプレの「過積載」を冷酷にスキャンし始める。
「今のあんたは、俺よりもずっと『佐藤アラタ』に近い。……だったら、俺の代わりに、あんたがあいつらの記憶を連れて、どこか遠くへ行ってくれ」
「……馬鹿なことを言わないで! 記憶だけがあっても、そこに『あなた』がいなければ、それはただの死んだ記録なんです!」
リプレの絶叫が、静まり返った岸に響き渡る。 彼女の目からこぼれる涙は、今や完全な色彩を帯び、極彩色の砂漠をモノクロに染め変えていく。 俺を救うために俺自身を取り込んだ彼女と、彼女を救うために自分を差し出した俺。
二人の境界線は、もうどこにも存在しなかった。




