第10話:色彩の陥穽(かんせい)
私はなぜ、この人を守ろうとしているのでしょう。
私にはもうなにも残っていないから?
それとも彼を知ってしまったから?
いっそのこと彼にそまってみようかな染まってみようかな…
記憶という意味で
俺の記憶の外付けハードディスクとなったふらふらの事務員としばらく歩いた。
辿り着いたのは、かつて繁栄した都市の残骸のような場所だった。 立ち並ぶビルの壁面は、溶け出した絵具のようにドロドロとした極彩色に染まり、地面からは「未練」という名の毒々しい霧が立ち込めている。
「……追手が来ます」
リプレが短く言った。 彼女の体は、第9話で俺の記憶を燃やして戦った代償として、その輪郭にデジタルなノイズが常走するようになっている。俺の代わりに俺の『自分らしさ』を肩代わりして燃やし続ける彼女は、今や半分、この世界のバグそのものに変貌していた。
バグになった俺たちは、この世界の【警察】みたいなものから粛清される運命なのだとリプレから聞いた。
「管理本部……『調律官』か」
「ええ。今の私たちは、エネルギーを循環させるための『歯車』ではなく、システムを蝕む『ウイルス』と見なされています」
その時、霧の向こうから、感情を一切排した幾何学的な仮面を被った一団が現れた。本部の執行部隊――『調律官』だ。彼らが手にする槍から放たれるのは、記憶を消去するための「純白の光」。
「不適格個体:佐藤アラタ。及び、エラーユニット:000。速やかに全データの初期化を開始する」
機械的な声が響くと同時に、周囲の色彩が反転した。 逃げ場はない。ここは、逃げようとする者の「恐怖心」を燃料にして、出口を無限に遠ざける陥穽だった。
「佐藤さん、私の後ろへ! 家族の記憶に、決して触れさせてはいけません!」
リプレが前に出る。だが、彼女の『代筆』はもう限界だった。 槍が彼女の肩を掠めるたび、彼女の中に蓄積された俺の断片的な記録が火花となって散っていく。俺が自分で忘れてしまった『泥遊びの記憶』の残滓が、目の前で消滅していくのを見るのは、自分の魂を削られるより辛かった。
「……やめろ、もういい……リプレ、下がれ!」
俺は彼女の肩を掴み、引き戻そうとした。 その瞬間、調律官の槍が俺の胸元に突き立てられた。
「――っ!?」
痛みはない。だが、脳内に鋭い吸引力が走る。 システムが、俺の心の奥底に眠る『朝食の記憶』という巨大なエネルギー溜まりを強制的にこじ開けようとした。
(……やめろ……これだけは……これだけは……っ!!)
一二〇万エモーションという莫大な熱量が、無理やり引きずり出される。 食卓を囲む妻の笑顔。娘がこぼした味噌汁の温かさ。 それらが、俺の意識から「情報」としてではなく、「ただの数字」として変換されようとしたその時――。
「――上書きを、拒否します!」
リプレが、俺と槍の間に割って入った。 彼女は俺の胸に手を当てると、自らの首筋にある『欠番:000』を、その槍の穂先に叩きつけた。
「……リプレ!?」
「私のデータが……空っぽなら、あなたの記憶を……吸い出すことはできません。……佐藤さん、私の『空洞』を使ってください!」
リプレは、自分という存在を維持するための根源的なプログラムさえも、自ら削除し始めた。
そうなると、彼女の体の中に、一切の記憶も人格もない、真っ白な「虚無」が広がる。 システムが俺から引き抜こうとした『家族の記憶』は、調律官の槍を通ることなく、リプレという巨大な『空っぽの器』の中へと流れ込んでいった。
「あ……が、ああああ!!」
リプレの瞳が、俺の、あの幸せだった朝食の色に染まる。 俺の記憶が、リプレという外部ストレージに「避難」したのだ。
その瞬間、調律官たちの動きが止まった。 目の前にいる男からは記憶の反応がなく、隣にいる女には本来あるはずのない高純度の感情が詰まっている。 システムの論理が、決定的に破綻した。
「……逃げ、ましょう……。佐藤、さん……」
リプレが膝をつく。彼女の瞳には、さっきまで俺の頭の中にあった、妻と娘の姿が映っていた。 今の俺は、自分の家族がどんな顔をしていたか、思い出せない。 大切な記憶のすべてを、俺は「相棒」という名の器に預けてしまった。
「ああ……行こう。……俺を、連れて行ってくれ。……俺の、家族を連れて」
モノクロの男と、他人の家族を瞳に宿した銀髪の女神。 二人は、もはや人間でも管理官でもない、名もなき「バグ」として、極彩色の地獄を駆けていく。




