父の影
気づくと夜になっていた。
母の意識はまだ戻らない。夜の病院は静まり返っていた。
集中治療室前のベンチに座る玲子に、看護師が面会時間が終わることを伝えに来る。
玲子は看護師が去ると、スマホでSNSの画面に文字を打ち始めた。
《警視庁捜査二課の大野さんという刑事さんに証拠もないのに、まるで私が犯罪者かのような扱いを受けました。さらには岡島さん殺害の黒幕みたいな扱いまで。そんな横暴な捜査が許されるの?》
投稿ボタンを押すと、数秒も経たないうちに通知が鳴り始めた。
匿名の信者たちが一斉に反応する。
《警察の対応はひどすぎる!秘書を殺されて玲子さんは被害者なんじゃないの?》
《警察は本気で玲子さんを潰す気だ》
《権力に立ち向かう玲子さんが好きです。負けないでください!》
《警察は何がなんでも玲子さんを逮捕したいんだろうな。闇を感じる》
《玲子さんのような人が殺人なんてやるわけないだろ!警察を絶対許すな!》
その声を玲子は無表情で流し見してから、ゆっくり目を閉じる。まぶたの奥に浮かんだのは父親の写真。かつての優しく笑う父の顔。
父と手を繋いで歩く幼き日の玲子。玲子は何より父親っ子だった。
しかし、いつの頃からか、大好きな父に反発するようになった。
父も母も、反抗期だろうと思っていたし、玲子自身も反抗期という言葉は知っていたから、そんなに深く考えることもなかった。
だが、成人しても父を避けるようになってしまっていた。
大学進学と同時に一人暮らしを始めた玲子の元にはよく父から電話も来た。喋りたくなくて、気が進まないから、あえて父からの電話には出ないようにしていた。
そんな気持ちを察してか、週に一度は必ずかけてきた電話も二週間に一度、三週間に一度、一ヶ月に一度と頻度が減って行った。
大学三年生頃だったか、母から相談をされたことがあった。ある政治家の支持者から父が嫌がらせをされているというのだ。
母の様子から不穏な空気を感じてはいたが、玲子はそこまで深刻には取らなかった。
母からのその話をされたのはその一度だけだったからだ。
今思えば、玲子に心配をかけないために、あえて知らせなかったという見方でもできるのだが、事態は相当、深刻だったのだろう。
大学卒業を目前に控えた二月。
雪がうっすらと積もる寒い朝、父の死体が発見され、父は帰らぬ人となった。
なぜ父にもっと優しくできなかったのか?
なぜ父ともっと話をしようと思わなかったのか?そのことについては、後悔しかない。
スッと立ち上がる玲子。母を一瞥してから歩き出す。ぽつりと呟いた。
「私は父みたいな人生はごめんよ……」
声は低く、しかし確固としていた。
「朝から晩まで働いて働いて、真面目に生きてきたのに、影響力のある人間に一瞬で潰された。ボロ雑巾みたいに死んで終わり。そんな人生、絶対にイヤ。私は何がなんでも影響力を手に入れるのよ。影響力さえあれば議員を辞めても一生食いっぱぐれないし、頭の悪いバカどもだってなんでも言うこと聞いてくれる……」
ここまで来たら、もう後戻りはできない。
静かに立ち上がり、病院の薄暗い廊下を歩き出す。コツコツとハイヒールの音が響く。
◆
捜査二課の刑事部屋は、翌朝から張りつめた空気に包まれていた。
会議机の周りに刑事たちが勢揃いし、ざわついていた声が課長の一言で静まり返る。
「改めて、先方から抗議文が来たよ。二十四時間以内に謝罪しなければ、名誉毀損でお前を訴えるってな」
土屋が書類をテーブルに放る。その紙を見て、葵は肩をすくめるように言った。
「こんなの、スラップ訴訟ですよ」
「なに?」
「スラップ訴訟です。佐原玲子は昔からスラップ訴訟を連発して、批判を封じ込めるんですよ。それが彼女のやり方なんです」
土屋は呆れたようにため息をつく。
「スラップだかスマップだか知らんが、お前、好き嫌いで仕事してないか? 我々刑事は公平な目を…」
「わかってます。わかってますけど」
「わかってますけどなんだ?言ってみろ、え?言ってみなさいよ」
「課長は許せるんですか?部下がこんな目に遭わされて!」
「まあまあ」
と宮下が割って入る。
「ところで課長、佐原玲子の母親が倒れたって聞きましたが?」
「え?」
と葵が聞き返す。
「ああ、命に別状はないみたいだがな」
「母親の意識が戻ったら、事情聴取してみてもいいんじゃないですかね、課長」
そうだなと頷いていると、葵が勢いよく刑事部屋を飛び出して行く。
「おい、こら大野!お前が行ったらまた揉めるだろ!」
と土屋が止めるが、葵の耳には届かないらしい。「おい、田上、お前も行け」
と田上に命令する土屋。
「わかりました」
と言って田上も葵の後を追う。




