95話:歌劇の題材
「——フェノア」
シェイラが、イディオンを伴って、フェノアの研究室に顔を出すと、フェノアはなにかの楽譜を見ながら、音律を取っている最中だった。
汚部屋と言われていた研究室は、シェイラの自動化魔術によって、現在はなんとかまともな体裁を保っている。使いっぱなしの茶器なども今のところ放置されていない。
内心でほっとする。
フェノアは、すぐにぱっと顔をあげた。シェイラを認めて、それから後ろに見えたイディオンの影を捉えると、椅子が倒れる勢いで立ち上がった。
「殿下じゃございませんか!」
倍音の乗った声が研究室に反響する。
少しだけ、耳が痛くなった。
イディオンは、慌ててシェイラの長外套に少し隠れ、肯くようにする。
「ほんとうに、殿下ですのね! すごいわあ、シェイラ。やっぱりあなたってすごいのね。殿下がこんなぼろぼろの大学塔に顔を出されるなんて、はじめてじゃないですか」
フェノアは立ち上がると、研究室から出るようにして、シェイラとイディオンを共同空間の談話室に追い返すようにした。後ろ手に閉めると、イディオンをまじまじと見ながら言う。
「はじめまして、殿下。フェノア・マリアと申します。と、言いつつも、わたくしは宮殿で歌を披露しておりますので、お見知りではあるかもしれませんが」
「イディオンだ。いつも宮中を盛り上げてもらって感謝する」
「まあ!」
フェノアはうっとりと頬に両手をやった。
「とてもいい声をされておりますのね! フィシェーユの去勢歌手も顔負けのお声ですわ! どうです? うちの国に遊学されませんか? 三王の一人が手ほどきいたしますわよ?」
「フェノア、イディさんに野蛮な誘いはやめてください」
シェイラは白い目で言う。
「あら、野蛮な誘いって失礼ね」
「去勢歌手は、野蛮であると一部から非難されています」
「それは決めつけね。ちゃあんと、本人たちが望んでやっているんだから。
——どうです、殿下? あとは殿下のご意志のみですわよ?」
「……丁重に断る」
イディオンがいささか引いた様子で言えば、フェノアはつまらなそうに肩をすくめて両手をあげるようにした。
フェノアのことだから、これからもイディオンに何度も誘いをかけるような気がする。
シェイラは危ない魔導師と引き合わせてしまったと、げんなりした気分になった。
「——それで、わたしになにか用?」
フェノアは、うふふ、と朱唇を妖艶に描きながら、シェイラに本題を尋ねる。
「ラムル師の研究室はどこか知ってますか? この階の談話室を共用していないので、わからず」
「げっ」
シェイラが答えると、フェノアは美しいかんばせを不愉快そうに歪めた。
そんな顔をするフェノアをはじめて見たので、シェイラは目をぱちぱちとさせる。
「仲悪いんですか?」
「……ちがうわよ。ラムル師は、わたしに気色悪い恋文を送りつけてくるから、あまり関わり合いたくないのよ」
「え」
「あの魔導師、言葉の選択が絶望的に古いのよね。今時、歌劇でもあんな言葉使ったりしないわ」
「……そ、そうなんですか」
長葱の新しい一面を知ってしまって、シェイラは一瞬だけ引いてしまった。
(いけないですいけないです、シェイラータ)
そうやって人に対して偏見を持ってはいけない、と自分をたしなめる。
「……まあ、仕方ないから教えてあげる。あんまり関わりたくないのに教えてあげるんだから、なにかと引き換えじゃないと、割に合わないわ」
フェノアは言うと、性の悪い笑みを浮かべた。傾国の笑みだ。
シェイラはいやな予感を覚える。
「ねえ、教えてよ」
「なにがですか」
「決まってるじゃない!」
フェノアは、両手を合わせてうっとりと言った。
「あなたの恋の話! 両想いだったんでしょう?」
「……覚えてたんですか」
シェイラは食い気味のフェノアに後退る。
後ろに隠れていたイディオンが、ちらっとシェイラを見上げた。
「覚えてるに決まってるじゃない! そんなおいしい話題!」
「いやですよ。引き換えにしません。身売りじゃないですか」
「ええー。だって、絶対に面白いじゃない!」
「……面白くありませんよ、なにも」
シェイラは、ぽつりと言う。
「もう……、どうにもならないんですから」
シェイラが、言い聞かせるように噛み締めるのを見て、フェノアは、数秒その様子を見てから、にやっと笑う。
ラムルの研究室に足を向けながら、楽しそうにつぶやく。
「そう。悲恋なのね?」
「…………」
「悲恋はいいわねえ。歌劇でも、舞踊劇でも、いい題材」
「……わたしのは、題材になりませんよ」
「どうかしらねえ。だってあなた、オルリアの貴族だったのでしょう? だけど、貴族の位を剥奪されている。それと関係あるのじゃなくって?」
「…………」
「もうっ、だんまりなんだから。でもまあ、今日のところはこれくらいにしておいてあげる」
フェノアは、見上げるイディオンを瞥見する。
「こわい御方が睨みを利かせているもの」
フェノアは、ころころと美しい声を転がす。
言われてシェイラは、はじめて気がついたように、イディオンを見た。苦笑する。
「つまらないお話を聞かせましたね」
「いや。だが、フェノア師、」
イディオンはシェイラの言葉を短く否定してから、柳弦の音を低くした。
「シェイラをいじめないでやってくれ」
「あら」
「シェイラが困っている」
聞こえてきた声に、シェイラは感動してめまいがした。歩む足元がふらつきそうになる。
(なんていい子なんでしょう……!)
歌劇を見なくても涙が込み上げてきそうだった。
「あらあらあらまあまあまあ」
フェノアも感激したように両手を頬にやった。
「わかりましたわ。いじめるのはやめておきます。殿下に免じて、お代はこれでということで」
「助かる」
イディオンの返事に、フェノアは、ふふんと鼻歌を歌いはじめる。足で音律でも刻みはじめそうだった。そのままの機嫌で、階段を下りて辿り着いたラムル師の研究室の戸を叩く。
「なにかねっ」
不機嫌さ丸出しの返答に対して、フェノアは機嫌よく戸を開けて、鈴鉢の音を奏でた。
「ちょっといいかしら。シェイラがあなたに用があるみたい」
扉を開いた先のラムルは、卒倒しそうになった。
そのまま後ろに倒れて頭をぶつけて失神しそうな勢いだったが、ぐらりと細長い体をなんとか維持する。
「我が女神っ!」
ええー。
おそらく、シェイラとイディオンの内心だった。
「よもや私めのところにご降臨されるなど……!」
「まあまあ、崇拝するのはよくってよ。わたし、今とっても気分がいいのよ?」
「女神がご機嫌でいらっしゃる! ああ、なんたる僥倖! なんたる命運!」
「そのままに、わたしの言葉を聞きなさいな? シェイラと殿下の話をきちんと聞くこと。これは命令よ?」
「御名のままに!」
「そう。ではよろしくね」
フェノアは優雅に手をひらりとさせ、黄金のゆるやかな髪からふわりと芳香を残していくと、去っていった。
シェイラとイディオン、ラムルだけが残される。




