9話:〈穢民―サジェノス―〉
ユートは一度きょとんとしてから、すぐに長外套の下の袖を見せてくれた。利き手のほうだったので、ちょうどありがたい。
シェイラはその腕を観た。
観て、それから人差し指と中指をそろえて、腕の表面にふれる。
どくんっどくんっ、という鼓動の感覚が指にふれ、そして、シェイラの目にはユートの青色の瞳と同じ流れが見える。
魔力の流れであり器官——〈導脈〉が賦活しているのをたしかに捉えた。
だが、流れがあまりにも荒々しい。
(これですね)
シェイラは仮説が引き結ばれるのを感じる。あとは、ユートが実際に魔法を使っている場面を見れば、証明は得られるだろう。
「ありがとうございます」
シェイラが礼を言えば、ユートはなんでそうしたかは疑問に思わないようだった。
ふたりでテントウムシとアブラムシを探し合って、テントウムシがほんとうにアブラムシを捕食するのか実験して、算術の時間は終わりになった。
〜*〜
その日は朝から、春霞がたち込めていた。濃い霧の、たまごが腐乱して蜂蜜と混ざったようなあまいにおいが充満していた。
どことなく教師たちも子どもたちも落ち着かない。薄くなってきているとはいえ、朝霞というのは〈魔導霧〉の残り滓だ。休校とするか否か議論がなされ、陽光が上がってくるにつれて霞がたち消えると、そのまま授業を開始することになった。
キルシュ師の学環で、実践の授業が開かれるのは、昼餉ノ憩いが終わってすぐだった。
教導館の奥、初等部と中等部の学舎のあいだに、教導館と同じくらい古めかしい館があった。学園の講堂で、等間隔で柱が並んでいる。柱頭飾には緋衣草と環状の玉縁があしらわれている。ひとつの組が学環と称されるように、仲間とともに知識を得る素晴らしさが象徴されていた。
講堂はさまざまな用途で使われているが、頑丈なバラムの石材でできた講堂は、魔法の実践を行うにも、うってつけの場所だった。
「——では、本日は元素魔術のひとつ、火炎魔法を扱いたいと思います」
キルシュはそうして、粗朶から抜き取ったような小枝状の杖を持ち上げた。火炎を操る呪文を呟いたのち、指示棒のようにも見える杖先から、燐寸ほどの火が灯る。
「この程度の大きさを十秒維持できたら合格とします」
キルシュの指示に、ユートも含め全員が「はい!」と言った。
心待ちに楽しそうにしていた声が、きゃっきゃっと聞こえる。
シェイラは皆のあいだを縫うようにして練習の風景全体を窺った。皆、練習用の杖を持っている。杖は魔法や魔術を扱うにあたって、一般的な触媒だった。
まあ無難。困ったら杖。特に月ヤナギがおすすめ。
そんなふうに称されるのが杖だった。初等部では練習用に一律で学園から月ヤナギの杖が貸し出される。使っていいのは実践の授業の時とされているが、往々にして違反者が出る。子どもとはそんなものだ。
(さて、ユートさんはどうでしょうか)
シェイラはふらふらしながら、赤銅色を探す。すでに十秒維持できている子もいれば、煙を出す子、杖を燃やしてキルシュ師に怒られる子などができあがっている。
シェイラの推察では、まずユートは触媒として杖が合っていない。べつの触媒がいいだろうと思う。
触媒には、杖の他に、魔導書、装身具、武器などさまざまなものがある。シェイラは圧倒的に装身具で、十ある指輪と両耳に下げている耳飾りがそれだった。これら十二の装身具は、触媒であり箍でもあった。シェイラの魔導を制御するためのものだ。
(ユートさんには……)
武器か、あるいはなくてもいいかもしれない。ないほうが制御しやすそうに、観える。
武器という言葉から、聖剣を触媒としたかつての婚約者の顔が脳裏をよぎった。
ずきっ、と古傷が哀感を伴って疼く。
うろたえそうになって、呼吸を意識する。吐いて吸う。吐いて吸う。自分は動揺している。動揺する気持ちが浮かび上がってきている。
そうやって、呼吸を意識しながら自分の気持ちを認めると、不思議とうろたえたものが凪いでいった。
目の前のユートの姿に注意が戻る。
「……っうし」
長いこと杖と睨み合っていたユートは周囲をきょろきょろと見てから、学友と距離を取る。杖先をだれもいない空間のほうに向けた。
本人が一生懸命、他者を気遣っている行動が垣間見えて、胸がきゅんとした。抱き締めてぎゅっとしてあげたい。
ユートはすっと杖を壁に向けると、火炎の呪文を呟いた。一言一句あやまたない素晴らしい発音だった。
瞬間、それは起きた。
シェイラは観た。
突然膨れ上がる青い熱、〈導脈〉の活性化。そしてその勢いのまま触媒である杖を通って杖先に向かい、火炎の渦が発射される。
ごおっ、と壁を焼きあげるような轟音と熱風に、他の子たちの悲鳴があがった。
「わーお」
シェイラはのんびりと言う。
とはいえキルシュ師が慌てる前に、手はすぐに動かした。右手の平を開き、引き寄せてつかむように、拳を作る。
そうすると、火炎の渦はまたたく間に消失して、あとにはあたたかい空気だけが残った。
一番驚いていたのはユートで、杖先を向けたまま固まっている。周囲の行動ははやく、それまで以上にユートと距離を取って遠巻きに身を寄せ合った。こわいよ、やっぱあの子変だよ、などと声が聞こえる。
「——シェイラ師、助かりました。導師が来られる日に火炎魔法の実践にしておいてよかったです」
キルシュ師がひっつめた黒髪を振り乱すように、シェイラに近寄った。
シェイラは、にっこりと微笑む。
「いやあ、すごかったですね。びっくりです。これはなかなか見どころがありますよ」
磨けば光る原石のようだと、シェイラは気持ちが高揚していた。
これほどまでの高く濃い魔力と〈導脈〉。制御を覚えたら魔法使いや魔術師の一流どころではない。自分と同様に、魔導師に叙されるかもしれないと思う。
(さてさて、どうしてあげましょうかね)
いろいろと観て、手立ての当てはついた。
あとはキルシュ師と打ち合わせて実施するのみである。優先順位や条件によっては多少時間がかかるかもしれないが、ユートはまずまちがいなく原石だ。ガルバディアの大学府の小耳に入れておこうと企んでおく。
呆気に取られていたユートのところに、同性の学友が近づいてきたのは、シェイラがそんな企みを頭のなかで練っていた時のことだ。
視界には入れていた。興味本位で近づいたのだろうと思った。男の子というのは派手でかっこいいものを好む傾向にある。今の火炎は、最高に派手で素晴らしくかっこよかった。これはよき関係性のはじまりか? とその行動を肯定的に捉えていた。
「お前、うまく魔法使えてねえから、やっぱ〈穢民〉じゃん」
純粋無垢な悪意のない罵りだった。その言葉の意味をなんとなく知っているから、それっぽい文脈で使ってみただけだろう。思ったから言った。そういう言葉だった。
けれど、聞いていたシェイラは凍りつき、言葉を失う。
己の過去を思い出す。過去で同じように学友が言われて傷ついた時の記憶が、シェイラの思考を止める。皮膚の下の〈脈〉が統制を失ったように波打つようになる。
だが、その言葉で今一番傷ついたのは、ユートだった。瞠目した目がくしゃりと歪む。青い目から大粒がこぼれそうになって——
「——謝りなさいっ!!」
怒号のようなキルシュの声が、講堂にきーんと跳ねた。




