89話:雪原
「ここは……」
長靴が、ざくっ、と踏む感覚を得た。
シェイラの声が出る。けれど、その声は今踏みしめたものに吸い取られてしまったように、反響しなかった。
ざくっ、ともう一歩足を踏み出す。
「——ここは、なに」
雪原。針葉樹の森。冷たく、強烈な寒気が、シェイラの頬を撫でた。
空には、極光の窓布がゆれ、逆さになった岩の渓谷が浮かんでいた。谷間を流れる河もまた逆さに重力が働いているように流れている。
異様なのは、空だけではなかった。
気配を感じて振り向く。
顔のない、人形模型。外套を羽織り、冠をかぶっている。顔がないままに、針葉樹の先にある、砂岩の城を目指していた。
宙をいくつも飛ぶのは、白い翼。折り重なり、風車のようになった翼が回りながら、宙を飛ぶ。
極めつけは、目だった。
黒い瞳の、人間の顔もあるほどの目が浮かんで、シェイラを凝視していた。まばたきもせず、じいっと。じっと、シェイラの姿を監視している。
シェイラは、かたまる。
見られている。そして、見ている。
睨み合いと言ってもいい時間が経過した。
シェイラもまた、またたきせずに見返していると、ふっと目のほうが興味をなくしたように視線をそらした。
そうして、目は目のまま、人形模型のあとを追っていく。
城を目指すようにして。
シェイラは、ふっと息を吐くと、急速に体が脱力していった。
《……ラ》
とても消耗を覚える。
ここはどこなのだっけ。わたしは、なにをしていたのだっけ。
次は、なにをしなければいけないのか。
《——シェイラ!》
耳元で、大きな声が聞こえて、シェイラは、はっと目が覚めた。
秋の空気が戻ってくる。窓から入り込んできた風が、頬をなでた。
「シェイラ……!」
焦ったイディオンの顔が目に入った。
シェイラは、息を吐き出す、それから吸い込んだ。息が止まっていた。そして、イディオンの腕を取ったまま、もたれていたようだった。
汗が、噴き出す。心臓の鼓動が早鐘を打っていた。
(今のは……)
シェイラは顔をあげて、イディオンを見つめた。そこに消失する魔力を見つける。
イディオンが、シェイラの頭に抱きつく。ふわっとさきほど立っていた雪原の香りがするようだった。
「シェイラ、びっくりした。急に意識を……」
「わたしは……」
今、いったい、なにが起きたのだ。
ぎゅっと、イディオンが母に泣きつくようにシェイラの頭を抱き寄せる。そのまま、声をあげて泣き出してしまうのではないかと思った。
シェイラは脱力を感じながらも、イディオンの頭を抱き返す。よしよし、と髪をなでてやる。
「ごめんなさい、イディさん。……ちょっと不測のことがありました」
「…………」
「すみません。うっかり」
「……やめてくれ」
目の前で心配になるようなことはしないでほしい。
イディオンはそう言っている。
やっと、頼ってみたいと思った人物に出会えたのに、そのよすがを奪わないでくれ。
そう言っているようだった。
しばらくして顔が上がる。
「なにがあった」
イディオンが問う。
「わかりません……」
シェイラは正直にこたえた。
「わからない?」
「イディさんの〈導脈〉の魔力をさぐっていたら、いつの間にか知らないところに……」
「知らないところ?」
なんだそれは、とイディオンは首をかしげる。
かしげてから、聞き逃してはならない単語があったことに気がついて、シェイラを見る。
「〈導脈〉? ぼくに?」
「そうです。きちんと魔力もありました。青くて銀色のきれいな色でした」
「ばかな」
自分のことなのに、イディオンは否定する。
「いえいえ、ありましたよ。ちゃんと{解析}しましたから、まちがいないです」
「ありえない。ぼくは、〈導脈欠損症〉だと言われた」
「そんなばかな」
シェイラが今度は否定した。
否定とともに、怒りが沸いてくる。
「だれがそんなことを言ったんです?」
「医術師と医療魔導師たちだ。ぼくは、数年前にそう診断されている」
イディオンの言葉に、シェイラは額にぴきっと青筋が浮かぶようだった。久しぶりに、怒りを覚える。
「ありえません! 医術師でないわたしでもわかることです!」
「シェイラ……」
「許せません。なぜ、そんな診断を。そいつら、だれですか。わたしがぶん殴ってきて差し上げます」
「……暴力はよくない」
少しだけ後ろ暗そうに、イディオンがシェイラをたしなめる。
それでも、シェイラは怒りが沸いてきた。腹が立つ。そう診断した魔導師や医術師たちに。
「シェイラ、落ち着いて」
「ですが……っ」
「落ち着いて、大丈夫。ぼくは気にしていない。あなたから今聞いて驚いたが、大丈夫だ。それよりも、知らないところって? どういうこと? そっちを教えて」
なだめられて、シェイラは怒りを息を吐き出すとともに、どうにかおさめる。呼吸を思い出す。一、二、三……数えているうちに、怒りが凪いでいく。
(あとで調べてやるんですから)
そんな適当な診断をしてきたやつらを。
最後にそう思って、気持ちを切り替える。
イディオンの問いに、答える。
「……雪原がありました。気づけば、そこに。たしかな感覚があって……もしかしたら意識だけ飛んでしまったのかもしれません」
「雪原?」
どんな? と訊かれて、シェイラは見たものを語った。風景からものまで、広大に見えた世界について話す。
そうすると、イディオンは黙り込んでしまった。
しばらく考えてから思い出したように立ち上がると、棚からひとつ、なにかを取り出した。
大きめの写生帳、だった。
「それって、もしかして……」
言いながら、空き瓶に適当に入れられていた角墨を取り出す。
それからシェイラが驚く速度で、ざっざっ、と風景を描きはじめた。まるで、シェイラと一緒に見てきたような鮮明な絵を、白黒で描き出す。奇妙なものたちもまた写実的で、色がないだけで、目の前にいるかのような立体感のある絵だった。
(イディさんは絵の才能もあるんですね)
それは神童などと褒めそやされるわけだ。
シェイラには、こんな絵を描くことはできない。
「——こんな感じだった?」
あっという間に書き終えたイディオンに、シェイラはしっかりと肯いた。
「すごいです。わたしの言葉だけで、よくこんなに正確に再現されましたね。まさに、そんな世界でした」
シェイラが答えると、イディオンはまたもや黙り込んでしまった。
角墨で汚れるのも気にせずに顎に手をやって考える。
シェイラもまた、一緒に考えはじめた。
驚いてはいたが、ひとつだけ、思い当たることがある。調べなければわからない。今考えても、明快なものは得られない気がした。
「——イディさん、すみません、ちょっと今日はもう帰りたいと思います」
シェイラが言えば、イディオンは顔をあげて肯いた。
「わかった」
「いろいろ調べて、また来週の福音ノ日にやって来ます」
「うん、ありがとう。……ぼくも調べてみる」
イディオンの言葉に、シェイラも肯くと、その日は散会となった。




