88話:移ろい
象牙の扉をくぐると、そこはたしかに、物が整頓されて、塵ひとつなくきれいに磨かれていた。
窓布が開けられて、照り葉の明かりが、部屋全体を薄づいたばかりの紅葉の色合いに染めている。格子となっている上げ下げ窓を開けば、初秋の涼やかな空気がやさしく吹き込む。心地のよい気候だった。
シェイラがうっとりと目を閉じ、まぶたで風を、鼻腔でにおいを感じていると、隣にイディオンの気配がやってくる。
「秋が好きなのか?」
「どうでしょう……気持ちがよいので、好ましいのはたしかです」
シェイラは目を開いて答える。
「けれど、好きなのは秋だけではないです。四季の移ろいが好きなのかもしれません」
「移ろい?」
「はい。それぞれの季節が深まった時よりも、季節と季節のあいだの移ろいが。今だったら陽がのぼると、まだ夏の香りも少し残っていますよね? けれど朝とか、夕方は秋を感じる。そういう混ざりあった移ろいが好きです」
「混ざりあった移ろい」
「はい。わたしは小さな頃、旅芸人でしたから、はっきりとしたものよりも、移ろうものが好きな気がします。旅芸人は定住せず、移ろうものでしたから」
「……そうか」
イディオンは感慨深げに窓の外を見やる。
花ツバメが、秋の色に羽色を変えて、旅路の準備をしていた。南のほうへ向かうのだろう。
「人の気持ちや心にも関心があって、心ノ理学を修めましたけれど、それも人の心が定まるものではなく、移ろうものだからこそ、関心があるのかもしれません」
「定まった心は、いやなのか?」
イディオンが不安げに見上げてくる。
これからがんばろうと決心したばかりで、シェイラの発言に気持ちが乱れたのだろう。
ゆるゆると首を振る。
「まさか。そんなことはありません。けれど、心が定まっていても、人とは時に揺れるものです。それも含めて移ろいで、すべてが尊いと思います」
「……そっか」
イディオンは納得すると、下がっていった。
片づけられて出現した、肘かけのある長椅子に腰かける。もたれて眠れるような意匠だった。近くの小卓から積まれている本を一冊取り出す。
「好きなだけ移ろいを感じてもらってかまわない。ぼくは、待っているから」
シェイラは、その気づかいにくすくすと笑う。
やさしい子だ、と変わらず思う。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。今日はイディさんのための日ですから」
シェイラは言って、イディオンの前に跪く。
「腕をまくって観せていただいてもいいですか? さきほどお伝えしたように、少しさわらせていただきたいです」
「どちらの腕がよいというのはあるか?」
「利き腕のほうがいいかと思います」
イディオンはこくりと肯くと、小卓に本を戻して、右手で左手の手釦を取る。そのまま、袖をまくる。
細い腕だった。あまり食べてないのではないかと心配になるが、橈骨のあたりは筋肉がついているようだった。
そういえば、力が強かったな、と記憶から引っ張り出しながら、イディオンの腕を観察する。
(やはり、〈導脈〉の光は見られない……)
それは、最初に観た時から変わりない。
であれば、ふれながら感じる必要がある。
「失礼しますね」
シェイラは、左手でイディオンの左手を取る。びくっとわずかな震えを感じつつ、気にせずそのまま、右手で手首のところをふれた。人差し指と中指をそろえて、脈より下の層をさぐる。
どくどくっ、という血流のはやい流れと鼓動を感じる。
観て取れないものを感じ取る。
シェイラは、目を瞑ると、呪文をつぶやく。
(——{解析})
長く息を吐き出してから、今度はすばやく息を吸う。
そうすると、シェイラの銀色の魔力が活性化して、医療魔術の{解析}が発動する。吸った息が、シェイラのそろえた二本の指を通して、イディオンのなかに入り込むような、拡張した感覚を得られる。
{解析}は、ヴェッセンダリアの十二老師の一人が作り上げた魔導だが、シェイラの使うそれは老師には到底及ばない。すごい魔導であるけれど、術者の練度によって精度が異なる。身体構造の細胞まで見抜くためには、老師ほどの熟練がなければ難しい。
(……ですが、そこまでできなくても問題ないです)
シェイラは細部までさぐれなくていい。
ふたつ、見つけられれば十分。
(……ありました)
まず、ひとつ。それは、すぐに見つかった。
シェイラの見立て通り。
——涸れた〈導脈〉を見つける。
やはり、あったのだ。イディオンにはきちんと、〈導脈〉が存在する。
少し、ほっとする。
(〈導脈欠損症〉、ではありませんね)
そういう症状がある。生まれた時より〈導脈〉がなく、魔法が使えない場合があった。
そうだったら、そもそも元素魔術を扱うことはできない。そうでなくて、よかったと思う。魔力を宿す器官があるのであれば、手立てを考えられる。
旧ユベーヌやノザリアンナの民は、もとより〈導脈〉を持たない。それゆえ、〈導脈〉に頼らない、まじないや呪術などの魔法に発展していった歴史がある。
欠損はあるはずのものがないことを言う。〈導脈〉に頼る魔法が使えないという結果は同じだが、理由が異なるのだ。
イディオンは、どちらでもない。
(では次……)
なぜ、涸れているのか。それをさぐる。
涸れた河の源を探っていくように、シェイラはイディオンの〈導脈〉のなかを辿っていく。本来はあふれるはずの魔力の河はなく、ただ空洞だけが虚ろにある。
歩いているようにも、泳いでいるようにも感じられて、ただ先を求める。
ふいに、強い流れのようなものを感じた。
うねりのように、ほとばしる力。
(これは……)
魔力だ。青銀。縹と銀がちょうどとけあったような色の力。
魔力を〈導脈〉に感じる。
(では、なぜ)
なぜだろう。この魔力はどこへ行く。どこへ向かう。瞳のなかにもかすかに映って消え失せた魔力はどこへ。
求めていると、シェイラは自分の体が突然、虚空の彼方に落ちる感覚を得た。
落ちていく。急速に。高所より、吸い込まれるように、引力によって。
抵抗を、しなかった。落ちるままにする。青銀の流れもまた、滝になって落ちていくようだった。シェイラは滝とともに、落下していた。
そして、草卒に終わった。




