7話:縹色の少年
シェイラは夜の王都を舞う。波打ち際の夜光虫のように、青い月の光を受けて、四枚の翅を皓白に輝かせる。
霧が出ていた。
魔法王国の眠らない王都ガルバーンは、七色の輝きを放っていたが、高度をあげれば、霧でかすんだ。
今はだれもシェイラのことを見つけられないだろう。
ふうっと息を吐く。修養を積んだ呼吸の——瞑想の感覚がすぐに体全体から外界へと拡がっていった。
今日は霧を濃く感じる。
明日の朝には、霧は〈蟲〉となるかもしれない。
〈蟲〉は、害のない植物を模したものであれば問題ない。霧を研究する学者たちにはよき研究対象でもある。
けれど、蠢くものたち——〈這虫〉ならまだいい。〈蒼鷹〉など街なかに出ようものなら必ず死傷者が出る。
シェイラは二年前の戦いを思い起こした。
ヴェッセンダリアの塔ノ都を襲った〈蒼鷹〉の群れ。その美しい色合いと異なり、恐ろしい異形の〈蟲〉だ。
あの戦いでは導師が数名命を落とした。ヴェッセンダリアが誇る老師らによって殲滅されたが、痛ましい戦いだった。
(今日の霧ならあまり問題なさそう)
王宮に務める星詠みや霧詠みが見極めて、討伐隊に依頼をするだろう。シェイラが心配することはなんらひとつない。
(あ、考えていました)
瞑想中に思考が移ろっていた。
こういう時もある。人間なのだから致し方ない。気づいたのだから、また瞑想に戻ればいい。
シェイラは目を開きながら、感じる、捉える。
終えて、輝く王都ガルバーンの石畳にひっそりと降りた。あまり目立ちたくはない。
途端に、いい香りがシェイラの鼻をくすぐる。
あまい香ばしい油のにおいだ。お腹がぎゅるっと音を立てた。
(もしかして……!)
シェイラは足取り軽く石畳に音をたてる。露天が並ぶ通りにきて、目的のものを見つけた。
(やはり、揚げ麦粉焼です……!)
揚げたての香ばしいにおいが砂糖にまぶされている。口に入れることを思い描くだけで、じわっとよだれが出るようだった。
「ひとつください!」
威勢よくシェイラが言えば、店主の女が満面の笑みで、あいよ、と言ってくれた。
銅貨を渡す。代わりに、紙に包まれたあつあつの揚げ麦粉焼が渡されて、シェイラは顔がほころぶ。よだれと一緒に顔までとけそうになった。
「いただきますっ!」
少し移動して、石段の隅っこに座って、かぶりついた。
揚げた生地から、じゅわっと油が出てくる。油の香りと一緒にフラウ麦のふわっとした味が口を満たす。砂糖の粒が、舌を転がり、あまみをいっぱいに広げた。
たまらず、ぺろっと平らげる。
頬が今度こそ、とけて落ちるのではないかと思った。
シェイラが至福の笑みを浮かべていると、じいっとシェイラを階段のうえから見つめる瞳とぶつかった。
「……む?」
子どもだ。おそらく先日会ったユートと同じくらいか、もう少しうえの男の子。
山を映す湖で染めたような、縹色の双眼だった。帆布頭巾のある黒い長外套を羽織っていて、銀色の髪がちらりと覗いている。
きれいな、まるで花の都の芸術魔術で扱われるような色合いの子だった。
シェイラは一時、言葉を失う。
(むむ?)
正気に戻ると、今が何時か考えた。まもなく十時が近い。八歳か九歳かわからないけれど、その齢の頃合いであれば、寝るべき時間だ。
「も、もしかして、これが欲しかったですか?」
あまりにも凝視されるので、シェイラは今食べきってしまった麦粉焼の入っていた包装紙をひらひらとさせる。
縹色が盛大にしかめられた。
どうやら、ちがうらしい。
「あのあの、見ず知らずの人間からこんなこと言われるのはいやかもしれませんが、そろそろおうちに帰ったほうがよいのではないでしょうか……?」
こんな夜に出歩いているからきっと事情があるにちがいない。
シェイラは子どもが好きで孤児院でも世話を焼いてばかりいたので、節介を口にした。
縹色はますます剣呑さを増す。
(ですよね〜)
子どもの気持ちを聞かずに、大人の一方的な意向を伝えるのはよくない。わかっている。わかっていて言った。だが、剣呑な沈黙があまりにも痛い。
「——おい、イディ! なにしてんだっ、こっちだぞ」
男の子の後ろから、もっと年齢がうえの少年の声が響いた。
縹色が、ぱっと後ろを振り向く。唇を噛むと、シェイラを一瞥して、それから呼ばれたほうに駆けていくようにして姿を消した。
(なんだったんでしょうか……?)
どこかで会ったことがあっただろうか。
シェイラはたいそう記憶力がよいけれど、会った覚えがない。おそらく初対面だろう。
虫のいどころでも悪かったのか。気に食わない人間にシェイラが似ていたのか。
イディと呼ばれた子が、今日の夜よく眠れることをシェイラは祈った。
次の風ノ日、シェイラは朝から首都魔法学園の校門をくぐった。
子どもたちはまだ登校していなかったが、教導館にはすでに多くの教師たちが出勤して、授業の準備をはじめている。早朝に出勤をするか、夕方以降に残るか、そうでもしなければ、準備が終わらないのだ。
人によっては、学園内の寮に居を移して、そこで寝起きしているなかで、準備を終えるのだという。
いつからが仕事でいつまでが仕事なのかわからないのが、教師や教導師という職であり称号であった。それでも子どもたちの笑顔や、教えることを喜びとして集まっているものたちが、仕事に就いている。
シェイラもまた魔法や魔術、そして魔導についてはいくらでも時間を使うことができる。子どもも好きだ。教師たちとは通じるものがある。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
シェイラが、職員の集まる一室に集まって頭を下げれば、一瞬全員が手を止めて瞠目した。
はて? と首をかしげていると、キルシュ師がやってくる。
「おはようございます、シェイラ師。まさかこのような時間にやってきてくださるとは……」
どうも、はやすぎてしまったらしい。
けれど、シェイラは一日この学園でお世話になるのだ。教師たちと同じ時間にやってきても、不自然なことはない。
「ご迷惑だったでしょうか……?」
「あ、いえ。その、これまで来られた導師の方々はこんな朝はやくには来られなかったもので」
「先週案内された時はたしかに今日より遅かったですね」
「はい、その……お暇を持て余してしまうかもしれません」
まだ授業がはじまってないので、とキルシュが言う。
シェイラはその黒い双眸をじっと観た。観て、悪くは思われていないように感じた。瞳の動かし方、まぶたの閉じ方、目尻の寄せ方から、大丈夫だと判断する。
「いえいえ、そんなことはありません。ですが、皆さんの準備の時間を邪魔しては申しわけないです。適当に学園内を散歩して過ごしたいと思います。……あ、それとも、準備を手伝いましょうか?」
提案すると、ぶんぶんと首を横に振られた。ヴェッセンダリアの導師、雑用みたいに扱えないということだった。
……雑用でもなんでもやるのだけれども。
致し方ない、と思ってシェイラは教導館をあとにした。一限目は中庭で体術であると聞いてから、言った通り敷地内をぶらぶらすることにする。
子どもたちが登校しはじめた。皆が長外套に身を包んでいる姿はなんとも微笑ましい。シェイラは朝の挨拶を交わしながら、五歳や六歳と思しき子たちが中等部の子たちに連れて来られる姿を目にする。
おそらくこの霧の大陸——サージェシアにある国々ではよく見られる光景だ。
魔法学園初等部・中等部、高等魔術学院、魔導大学府。教導目録によって統制され、大いなる魔導師を育むための教育機関の集合体。祖であるサージェストの時代より、綿々と広がり受け継がれてきた教育機構。
シェイラは、五歳になるかならないうちに、この機構の一部に取り込まれてしまうことが、いつもよいことなのか悪いことなのかわからなかった。
シェイラ自身は、自分が規格外であり、異端であることをわかっている。出すぎてしまっている釘だ。
だが、この機構や歯車に合わない子たちがいる。そういう子を、自分が育ったオルリアの学園でも、孤児院でも、見てきた。
(きっと、ユートさんもそういうひとりですね)
ぽつんと、ひとりで登校している姿を見つけて思う。
シェイラは魔法や魔術が好きで使いたくて、魔導を極めている。同じくらい、純真な子どもたちが好きだったから、魔法がうまく使えないというユートもどうにかしてあげたかった。
この縹色の少年は重要人物です。




