66話:仲直りの味
「…………」
ちらっとシェイラを認めると、途端にきまりが悪そうにする。足が逃げ出そうとしたのか、幾分動いたけれど、意志でその場に押し留まったように身じろぎした。
「あの……」
謝ろうと思っていたのに、意図していなかった場所だったので、シェイラもまた戸惑って言葉にならなかった。
気まずい空気になる。
「——あ、俺、喉が乾いたので果汁を買ってきますんで。三人分」
ちょっと待っててくださいや、と男がなんの空気を読んだのか、小走りで去っていく。
ますます気まずい空気が、暗幕のように落ちるようだった。手の平に汗が浮かんでくる。
なんて言おう。
第一声。
どうしよう。
シェイラが思い悩んでいるうちに、先に行動をしたのは、イディオンのほうだった。
白い長外套の懐から、ずいっと紙袋を出して、シェイラに突きつける。
「……これ」
シェイラの目を見ないように、紙袋だけ出されて、シェイラは条件反射で受け取った。
少しだけあたたかい紙袋。近くに来ると、フラウ麦と、香ばしさの混ざった油のにおいが食欲を刺激する。
シェイラの好きな、揚げ麦粉焼、だった。
思わず、イディオンを見る。
恥ずかしそうに、ぷいっと反対のほうを向いている。それでも、たしかめずにはいられなかったのだろう。少しだけ上ずったような高い音で、イディオンはシェイラに問う。
「怪我……しなかったか?」
「えっ?」
「本……投げたから」
こちらをもう一度、ちらっと見て落ち込んだように俯く。
そのさまに、シェイラは無性にイディオンの頭を抱えて、胸に引き寄せてやりたくなった。先日とはちがった意味で、目頭が痛くなる。
「……怪我、してないです」
急にそんなことをしたら、嫌われてしまう。
シェイラは問われたことだけを答えた。
怪我なんか、するわけがない。むしろ、
(イディさんのほうが怪我したみたいな顔をしています)
あの、お守りをさがしていた時みたいに。
「そっか……」
よかった、とイディはほんとうに胸を撫で下ろしているようだった。
本なんかで怪我をするわけないのに。そんなことよりも、ずっと、イディオンのほうが傷ついて、いやな気持ちをしたであろうに。
(心配せずにはいられないのですね)
イディオンの人柄がわかってしまうと、あの部屋を思い出してしまって、シェイラは胸が痛かった。
壁際に寄ると、シェイラはずりずりと背中をやって座り込む。長外套が後ろにもつれあって、気持ち悪かった。
「これ……」
シェイラは紙袋を持ち上げながら言う。
「ありがとうございます。——一緒に……食べませんか?」
座り込んだシェイラを、イディオンは少しだけ見下ろす位置になる。視線が変わったことで恥ずかしい気持ちが下がったのか、シェイラのほうをじいっと見る。
「はんぶんこ、しましょう?」
提案をすれば、イディオンは無言でシェイラと同じように座った。
座ると、大人でも子どもでも、そんなに目線の高さは変わらなくなる。一緒のような気分になる。
「……はい、どうぞ」
取り出して、半分にすれば、砂糖の粒が指にいっぱいついた。
そのまま渡したら、イディオンにも粒がついてしまうなと思って、袋のなかを見てみたけれど、余分な紙は入っていない。一枚だけ入っていたもので包んで渡してやる。
イディオンは無言で受け取ると、半分になった揚げ麦粉焼をしげしげと見る。
「おいしいですよ」
「……うん」
言えば、イディオンは小さくかぶりついた。
そうすると、目を丸くする。
もしかしたら、はじめて食べたのかもしれない。
「おいしいと思いませんか?」
「……たしかに、これはうまい」
「でしょう?」
「……うん」
イディオンが二口目を食べるのを見て、シェイラも口にする。
いつも揚げたてを欲するシェイラだったけれど、少し時間が経って生地に染み込んでいた油と砂糖がなじんで、べとっとじゃらっとした感じは、いやではなかった。
一口かぶりつくと、たまらなかった。
揚げたてじゃないのに、いつも以上にあまく感じる。麦の香りと砂糖と油が、知らず伝っていた塩分と混ざって、あまく口のなかで広がった。広がったものが、つっかえていたものまで届いて、香り伝いにのぼってくる。
「……ごめんなさい」
言うのが遅くなってしまった。
シェイラは、揚げ麦粉焼を頬張るイディオンをしっかりと見て、もう一度言う。
「ごめんなさい、イディさん」
イディオンが顔を上げる。食べるのをやめて、シェイラを見返す。
「勝手に部屋に入ってごめんなさい」
「…………」
「覗いて申しわけなかった、です」
「……もう、いい」
イディオンはシェイラの謝罪を受け止めると、俯いた。
一口、麦粉焼を咀嚼してからつづけられる。
「ぼくも、ごめん。……怒りすぎた」
「……怒って当然です」
「……本まで投げた」
「全然、痛くなかったです」
「……暴力はいけないんだ」
「そもそも、わたしがいけなかったんです。あれは、たまたま投げた方向にわたしがいただけです」
「でも、ちょっと当たった」
「当たることもあります」
「なんだそれ」
「投げたら、たまたま当たることもありますから」
「じゃあ、暴力じゃないか」
「たまたま当たったら謝ればいいんです。謝罪はもう、もらってます。これと一緒に」
シェイラが揚げ麦粉焼の袋を見せれば、イディオンは少しだけ笑った。
笑ってから、最後の一口をひょいっと放り込む。満足げな顔だった。
シェイラもほっとして、食べ進めた。一口一口がおいしくて、今まで食べたなかで一番、おなかに溜まっていくようだった。
食べ終えると、イディオンはシェイラの砂糖だらけの指に気がついたようだった。
「ごめん」
言うと、今度は懐から手巾を出す。それで無造作にシェイラの指をつかむと、拭いはじめた。高そうな手巾だった。
シェイラはされるがままになりつつ、苦笑する。水の魔術を用いれば汚れなんてすぐに落ちるけれど、それはしたくなかった。
(砂糖と油まみれにしちゃいました)
洗濯を担当するであろう下働きに申しわけなかったが、{洗濯}のかけ方をちょっと工夫すれば、どうにかなるかと思考が魔術の仕組みに移ろった。
ぶつぶつとつぶやきそうになったところで、イディオンの顔が上がった。
「……訊かないのか」
「はい?」
「あの部屋のこと」
拭い終えたのに、イディオンはシェイラの指をつかんだままだった。かすかに、震えのようなものが伝わってくる。
「……訊いて、ほしいですか?」
「…………」
震えが、びくっと一度大きくなった。
収まって、それからぎゅっとシェイラの指ごと力を入れられる。
「今は、まだ……」
訊かれたくない、とイディオンは言う。
「じゃあ、訊かないです」
「……うん」
「もし、話してもいいってなったら、話してください」
「……うん」
イディオンが肯けば、ふたりのあいだに、気まずい空気はもう流れていなかった。




