64話:シェイラの過ち
(だから、少し期待したいんですが……)
王子宮に着いてみれば、やっぱり部屋はもぬけの殻だ。
とほほ、といつぶりかの気持ちが湧いてくる。
(いけないですいけないです、シェイラータ)
勝手に期待していたのは自分のほうなのだ。思った反応が得られなくても、がっくりと来てはいけない。
いつもどおり、やろう。
いつもどおり、やればいい。
けれど、少しだけ残念な気持ちもあって、シェイラは気分転換を兼ねて長椅子に腰かける。溜息をついて、肘かけに寄りかかった。そのまま横たわる。視線を動かして、頭をどんどん後ろに傾ければ、逆さまの世界に扉が目に入った。
欄間の彫刻は大理石だろうか。象牙色の扉との相性がいい。
——あんな扉、あっただろうか。
王子宮にいることがほとんどなかったので、気づかなかったのだろう。
シェイラは起き上がると、その扉に近づく。
応接間の奥には、もうひとつ扉があって、寝室につながっていることを会話のなかで聞き知っていた。
なら、この扉はなんだろう。
シェイラのなかで、好奇心が出てくる。
覗いてみたい、と欲が出てくる。
銀の把手に手をかける。手の平に装飾のぼこぼこが伝わってきた。回転して押すと、扉は内側に開く。
埃のにおい。少し湿気も感じる。長らく使われていないのだろう。
薄闇にあるものが見えなくて、シェイラは{灯火}を描いた。いくつか小さな火がシェイラの横に浮かぶ。そうすると、部屋の様子が薄ぼんやりと浮かんで見えた。
壁沿いの上から下までの本棚に、本という本が押し込まれていた。歴史書や哲学書から魔導書まで、入らなかった分はいたるところに積み上がっている。あいだに挟まる、ルペドの植物紙、羊皮紙、仔羊皮紙、竹簡、木簡。粘土板も所在なさげに積まれていた。
書き物机には、大きめの羊皮紙が広げられ、計算尺や円規が転がって、途中まで陣が記してあった。
他にも、緑柱石や水晶などの貴石、夢結輪などの魔除け、木製立てにささる試験管には乾燥花が無造作に入っている。
机の背後には、できあがったと思われる魔法陣が壁に貼られ、円に三角、四角、古代帝国文字や、ガルバディアの音声文字がびっしりと書き込まれていた。
——元素魔術の魔術式。
シェイラにはわかる。
そういう、魔法に関わるあらゆるものが、貼られたり転がったりしていた。
一方で、隅には割れた薬水瓶の欠片や、くしゃくしゃになったパムの植物紙、壁紙には、切り裂いたようなあとがあった。使用した小刀も、抜身のまま放置されている。
(これは……)
胸を突き上げてくる気持ちに、シェイラは痛切を感じて、時を止める。この空間に押し込められているものが、埃の厚みとともにシェイラを圧倒する。
足が、動かなかった。
「——なにしている」
束の間、シェイラは心ノ臓が停止した。
いつもならすぐに反応できるのに、空間に呑まれすぎてしまって、背後に感じた気配を感知しても反応できなかった。
振り向けば、爛々と怒りをたたえた縹色の瞳が目に入った。
「イディさん……」
「なにしているんだ、ここで」
「わたしは——」
「勝手になにしているんだ!」
小柄なシェイラより、もっと小さいのに、イディオンはまるでシャドゥーラの森に棲まう怒る獅子だった。
動かなかった足が、一歩後ろに下がる。
「ごめんなさ……っ」
「いい加減にしろよ!」
「イディさ——」
「おまえは、なんだ! ずかずかとやって来て、なにも言わなければ、なにをしてもいいと思ってるのか!」
「ちがいます!」
「じゃあ、なんだ! 人の部屋に勝手に入って、おれをなんだと思ってる!!」
「なにも、なにも……ただ、わたしは——」
あなたを、という言葉をシェイラは継げなかった。
青白い猛炎となったイディオンに、書を投げつけられる。床に転がって、ぱっと開かれた先は、ユベーヌの呪いを記した線上文字が記されていた。
シェイラはそれを見て、目頭が痛くなる。
「出ていけ! もう来るな……っ!」
狂ったようにイディオンは叫んだ。
シェイラは滲むものを、唇を噛んでたえる。
「……ごめんなさい」
横を通り過ぎて、ただそれだけを言う。
他に言いたいことをすべて呑み込んで、それだけを言った。
{転移}を使う。視界が、薄紫の光る粒子でいっぱいになる。
最後にイディオンの、項垂れたような銀の髪が目に入ると、たえていたものがこぼれ落ちて、{転移}の光とともに一緒に消えるようだった。




