62話:恩師のにおい
ターニャは、木戸を二度、控えめに叩く。待っていると、外を歩いてきたからか背に汗を感じた。
室内で人の立ち上がる音がすると、ややもせずにしっかりとした体つきの男が姿を表した。
「よく来てくださいましたね」
冬の暖炉を思わせる温和な声を聞いて、ターニャは、頭を下げた。
ターニャが恩師のご夫君に会うのは今日で三度目だった。一度目は亡くなったと聞いて弔問に訪れた時、二度目は一周忌、そして三度目が今日だった。
もしかしたら、ゆっくりと話すのは、今日がはじめてかもしれない。
「どうぞ、おかけください」
ターニャが立っていると、ご夫君は台所で薬缶の湯を沸かしながら言った。
促されるままに座る。腰かけた木の椅子には、アベル織りの座布が敷かれていた。流れ星と峻険な山の意匠が織り込まれている。
師の、においがする。
ターニャは、ぼうっと木組みの壁を見ながら感じる。
家全体から、ふくよかなあたたかさを持った師のにおいが香られて、懐かしさがよみがえってきた。師が、ターニャにほほ笑んでいた時のことを思い出す。
「——お待たせしました」
からん、と氷の入る音が鳴って、硝子の杯が差し出された。美しい切り込みの入った杯に、薄緑の茶が入って、光が幾重にも伸びている。杯の下に敷かれた小ぶりの敷物は、切嵌陶板。洒落た雑貨が多かった。
「妻がこういった工芸品が好きでして」
ご夫君は苦笑する。なかなか高いものもあった、と付け加えた。
たしかに、恩師の持ち物はどこかこだわりのある意匠のものが多かったことを思い出す。
「私がたまに遠征先で土産物として粗忽なものを買ってくると、『趣味が悪い』と言ってどこかやってしまうのです」
「先生がそんなことを?」
「はい。言われたものしか買わなくなりました」
ご夫君の言いように、ターニャは笑みが浮かんだ。
教師としての顔しか知らなかったターニャにとって、恩師の一面を知ることができて、ほっこりする。
「……それでも妻は、教え子たちから受け取った手紙や土産物は、どんなに無造作なものであっても、大切に保管しておりました。手紙は、宝箱と称した気に入りの革張りの箱に、土産物は宝箱を置いた棚に。大事に大事にすべて取ってありました」
「はい」
先生は、そういう人だ。
「ターニャさんからの手紙も、何度も何度も読み返して、しまっていました。それから、あなたからの土産ものも」
「私のも?」
「ええ。自慢の教え子だと私によく話していました。先生みたいになりたいって言ってもらえてうれしかったと、一番下の娘のように喜んでいました」
想像がついてしまう。
師はとても感情表現が豊かな人で、豊かだからこそ、ターニャの心境もきっと工芸品の細工を吟味するように、見て取ってくれていたのだろう。
「妻の部屋を見ますか?」
「いいんですか?」
「はい。生前のままにしてありますから、ぜひ」
ターニャは出された氷茶を数口飲んでから、ご夫君に示された扉の先をくぐった。
一・五馬身ほどの小さな書斎だった。
彩鉛玻璃の横長の小窓に書き物机があって、その横の壁に棚がある。棚には書物が並べられ、ところどころに小物が置いてあった。少し大きめな革張りの宝箱もある。
(この棚かな)
きっとそうだ。
「もしよろしければ、好きにご覧になってください。妻もきっと喜びます」
「ありがとうございます」
終わったら声をかけてください、と言うと、ご夫君はターニャの後背に扉を閉めた。
師の、においがする。
隣の間にいた時よりも、さらにぬくもりのこもったにおい。
ターニャは見渡すだけで、目頭が熱くなった。
(先生……)
会いたい。会って、いろんなことを話したかった。相談したかった。
学環のこと。
校務分掌のこと。
受け持っている子どもたちのこと。——セレリウスのこと。
恩師だったら、どうしていただろう。恩師だったら、彼とどんなふうに向き合っていただろう。
当初、セレリウスに対して抱いていた気持ちを思い出す。
言われて仕方ない。陰口を叩かれても仕方ない。だって、空気を読んでないんだから。ターニャのように、どうにか目立たないようにしていないんだから、仕方ない。
そう思っていた自分が、みっともなくてたまらなかった。
(先生だったら……)
きっと、自分みたいに子どもたち同士の不和の根を見逃すことなんて、ありえない。
「——決めつけの根というのはね、たいがいは無理解と知識のなさからくるのよ」
恩師はいつだったか、授業のなかでそんなことを語っていた。
「知らないと、人間というものは、たいてい安心や、排除にいってしまうのよ。愚かなのよ、人間って」
「知らないことが、安心や排除につがる理由がわかりませーん!」
だれかが、手を挙げて面白くもなく意見した覚えがある。
ターニャは、黙っててよ、と思って聞いていた。これから話されるんだから、と。
「そう。じゃあ、あなた、斎王国の人間のこと知ってる?」
面白そうに、師はその意見してきた人間に問うた。
知りませーん、と屈託なく返ってくる。
「そうよね? じゃあ、斎王国の人間に対して思っていることを言ってみなさい」
引きこもり。
変な服を来ている。
大陸より遅れた文明の野蛮人。
そんな意見があがった。
「そうよね。それが知らないことによる、決めつけというもの。——でも、これを見てみて」
言って恩師は、寄せ木の教卓の下から、細工物を取り出した。
一見してなにかわからなかった。師は紐部分を持って、それを掲げる。
アジサイを模しているようだった。繊細な細工。白と薄色と桃色の花が咲いている。
「これは紙でできているのよ」
驚きの声があがる。
「コウゾ、という繊維の多い木片を使って作り上げている紙なのだって。その紙を使って、一枚一枚花弁を折って、くっつけて、折って、くっつけて、とても繊細な手仕事よ」
ゆっくりと手のなかで、その紙の花を回すように揺らす。
「これを大陸より遅れていると言える?」
だれからも返答がなかった。
反応がないことに、師は楽しそうに笑う。
「でも、仕方ないのよ。知らないのだから。私たちも、あちらも、線を引いてしまって、知りようがないから、異文化と決めつけてしまう。なにかわからぬものとするより、決めつけてしまうとほっとするから」
少なくとも自分も昔はそうだった、と師は言った。
「だから、私もあなたたちを決めつけないように気をつけるから、先生が勝手に決めつけてたら教えてね。あなたたちを、ちゃんと知りたいから」
そう、師は締めくくったのだった。
(そうだったな……)
先生は、そういう人だった。
決めつけず、一人ひとりを見て、趣味のいい工芸品を見つけるように、その人を理解しようとする、そんな先生だった。
(だったら、私も……)
なれるだろうか。
恩師のように、なれるだろうか。
「ターニャはね、前髪が長すぎて臆病になっちゃうのよ。見えるんだけど見えにくいことがあるのね。だからきっと、切ったらあなたの目は、いい目になる」
人を決めつけたりしない、いい目に。
ターニャは、恩師にあげた壁鏡の飾られた棚を見る。
(髪を切ったら、もしかしたら、変われるかな)
鏡のなかに映る自分の長い前髪を見つめる。
『ターニャ師がわかってくださったなら、セレリウスさんは心強いです』
休暇前に、シェイラ師から言われたことが思い出された。
「……切ってみようかな」
自分を変えるために。
恩師みたいな、決めつけたりしない先生になるために。
前髪を作ってみようと、部屋の持ち主に手向けるように、ターニャはそっと胸に思った。




