54話:葡萄色の長外套
「——〈雲虹〉に喰われたそうです」
つづけられた言葉に、シェイラは息を呑んだ。
ひゅっ、と気管が滞る。
「うん、こう……」
「はい。たまたまの出勤日に……」
極彩色の怪鳥。
あの目のない、丹頂に。
シェイラは言葉を継げなかった。
〈導師〉という立場を忘れ、シェイラ自身が己の恐怖の記憶と向き合っていた。
——〈雲虹〉は、シェイラから母を奪った〈蟲〉だった。
シェイラの前で、シェイラをかばって、母は〈雲虹〉に喰い散らかされたのだった。
遠い記憶に引きずり込まれる気がした。
いつも意識している呼吸が、止まる。
恐怖が足から駆け巡りそうになって、視界に赤紫の長外套が目に入った。
もうひとつの記憶が、鮮やかに色彩を思い出す。
「——ラータを、こわい記憶から守ってくれるように、そう祈りを込めた」
彼は——ヴィクトルは、調律の取れていない竪琴のような声をしていた。声変わりの時期だったのだろう。
言って、両手に乗せた衣を差し出す。
「長外套……ですか?」
シェイラは受け取って広げる。ふわっとエリスの根のかぐわしいにおいがする。
赤紫の葡萄色のきれいな色だった。織りに光沢があるのに、紬糸を用いているようで、あたたかみのある布地だった。
——手が込んでいる。
そう、すぐにわかる代物だった。
「うん。魔導師になるなら、いつもまとうだろう? 守りのまじないなら、いつも使うものがいいと思って」
「これ、いくらしたんですか?」
シェイラは貧乏な旅芸人上がりだったので、ついそんな無粋なことを訊いた。
ヴィクトルは、気分を害した様子もなく、紅玉の瞳にやわらかく弧を描く。
「費用はかかっていないよ」
「あ、もしかして、王族圧です?」
「失礼だな。……私が一から作ったから、かかっていないんだよ」
「へ?」
シェイラは思わず、間抜けな声が出た。
言うつもりなかったのに、とヴィクトルは少し恥ずかしそうに、けれど、少し知ってほしそうな顔で、そっぽを向く。
「……これ、トールが作ったんです?」
「そう」
「まさか、糸から?」
「そう、糸から」
「糸を撚るところから?」
「うん。それから、染料も自分で取ったよ。瑠璃はそんなに大変じゃなかったけれど、〈臙脂虫〉を見つけるのが大変だったなあ」
「…………」
「機織りも、はじめてだから最初失敗して。少し糸を無駄にしたけれど、多めに用意しておいたからなんとかなった」
工房の職人に手伝ってもらえばよかったのに。
シェイラは、なんとも言えなくなり、長外套を見つめる。指でぎゅっと布地を握り込む。
「……怪我はしませんでしたか?」
「ん?」
「〈臙脂虫〉を取る時に、怪我はしませんでしたか……?」
弱くても蟲ですから、とシェイラは消えるように訊く。
「していないよ」
ヴィクトルは、竪琴の中低音を鳴らす。
「怪我していない。これがあるから、大丈夫だったよ」
重ねて、左手首の腕環にふれる。
金の、紅いファル石のはまった腕環。
シェイラが、ヴィクトルにあげたもの。
「君のまじないが守ってくれているから」
「……そう、ですか」
「うん」
しっかりと肯かれる。
シェイラが気にしていることを安心させるように。
「……王子さまって、そんなに暇なんですか?」
恥ずかしくなって、誤魔化したくなって、シェイラは問うた。
ヴィクトルは一瞬、虚を突かれた顔をしてから、かすれたおだやかな音を出す。
「暇ではないね」
「……ですよね」
「だから、少し時間がかかった」
「……ですよね。なんかすみませ——」
「——そうしたかった。その意味、わかる?」
上から声がかかって、シェイラは、呆然と見上げる。
紅い瞳が、許さない、と言っていた。
誤魔化すのは、許さない。
「わ……、わかります」
シェイラは、からくり人形のようにかくかく肯く。
首筋から、なにか昇ってくるようだった。
「ほんとうにわかっている?」
「わかって、ます」
「ラータが言った」
「わたしが言いました」
なにを?
ただのオウムになっているので、シェイラは問いを呑み込む。
ヴィクトルはお見通しで、ひとつ溜息をついて、答えを言った。
「手間が大事なのだと」
「手間……」
「時間をかけて、手をこめて、そういったものに真の魔法は宿るのだと。いにしえの魔法は、そうした人々の祈りから、まじないとなって、魔法になっていったのだと、そう言っていただろう?」
「……言いました」
たしかに、なにかの折に話した覚えがある。
願いを叶えるような、だれかの幸せを祈るようなものは、ささやかな手間のもとに成り立つのだと、話した覚えがある。
それが、〈ユベーヌの呪い〉——呪いだと。
ほんとうは呪法や呪術ではなく、やさしい願いと祈りからはじまった魔法なのだと、シェイラはヴィクトルに語っていた。
(覚えていてくださってたんですね)
それを、形にしてくれた。
シェイラはもう一度、長外套を握り込んだ。
「……ありがとう、ございます」
「うん。わかってくれたのなら、いい」
「…………」
誤魔化しのない、淵黙だった。
「……ラータも、これに手間をかけてくれたから、ね」
ヴィクトルは腕環にふれる。気恥ずかしそうに、やっぱりそっぽを向いて。
エシア砂金でできた腕環は、たしかにシェイラが一から祈りを込めて、砂をさらうところから手間をかけ、作りあげたものだった。
シェイラの気持ちを込めたもの。
——十代前半の、もう帰ってこない、かけがえのない思い出の、ひとつだった。
シェイラは思い出すと、呼吸が戻ってきた。
過去から今へ、下ろした錨を道標に、呼吸を取り戻す。
目の前の、ターニャ師に向き合う。
今のシェイラは、導師。教師や子どもの相談に乗ることが求められている。
(ありがとうございます、トール)
シェイラは、長外套を握りしめて、それから、ふうっと息を吐き出した。
恐怖の強張りが、体から抜け出て霧散していくようだった。
「——……それは、ほんとうにお気の毒でしたね」
気づけば、シェイラは、ターニャへの寄り添いを思い出していた。
ターニャがこくりと肯く。
「……はい」
「せっかくだから、教師になった姿を見せたかったですね」
「……は、い」
「恩師と……、一緒に働きたかったですね」
ターニャが首だけで肯定する。
「おかえりなさい、って迎えてもらいたかった、ですね」
ターニャは、俯いた。
きっとこらえていただろうに。シェイラから見られていることが気になるであろうに。
ただ静かに俯いて、時折啜る音がして、琥珀をとかして、なかに潜んでいたものを取り出すようだった。
どれほどの間があったのかわからない。
気づけば、ほこりに曇る窓硝子から西陽が入り込んでいた。
「——シェイラ師」
顔を伏せていたターニャは、目を赤くした状態だった。
ちがったのは、部屋に入った当初のためらいではなく、決断をしたような色がのっていたことだった。
シェイラは視線を受け止める。
「大地の魔法……使ってみたいと思います。セレリウスに見本を見せたいと思います」
「……ありがとうございます」
シェイラは頭を下げる。
ターニャのなかで、揺らいでいたものが固まったようだった。
「うまく言語化できるように、考え直したり、使ってみたり、したいと思います」
「……感謝です」
「しばらく、使っていないので」
ターニャが後ろめたそうに言う。
シェイラは首を振った。
振ってから、いいことを思いつく。
「そうしましたら、授業そのものをもっと魔法が使いやすいところでしましょう」
「使いやすいところ……?」
「大地の魔法を使うと、どうしても規模が大きくなりやすいですからね。今の、あのお粗末な植物園ではなく、学院の外に場所を取りましょう。わたしから、学院長に打診をしておきます」
「いいんですか?」
ターニャが驚いたように目を丸くする。
「はい。それに、学院の外でやるほうが目立ちにくいですし、好き放題できます。そのほうがよくないですか?」
心を決めてくれたとはいえ、すぐすぐ人目が気になる性分はどうにもならないだろう。
シェイラがそう言った意味を込めて尋ねれば、
「助かります」
ターニャは、うれしそうに橙色の髪を揺らした。




