38話:〈猿猴〉
「——お前たち、どうした?」
全員がはっとしたのは、林の奥からオーズ師が姿を現したのを認めたからだ。
「……先生」
だれがつぶやいたのか、わからない。
だが、オーズは転んで倒れたレーネと、全員が直立したままでいるのをなにか異常事態が起きたのだろうと察する。すぐにまずはレーネに近寄った。
「大丈夫か? 怪我か? 立てるか?」
「……あっ、は、はい」
レーネの自失した様子にオーズは怪訝に眉をひそめた。それから体を起こして、自身の背をレーネに指し示す。
「よくわからんが、なんかあったな。とりあえず、おぶされ。出てから皆の話を聞くからな」
オーズがおだやかな声で言えば、全員が——リヨンも含めて小さく肯いた。レーネは甘えてオーズに背負われる。
担任教師の声に、束の間、ほっとした瞬間だった。
一弾指のうちに、五人全員にさきほどよりも強い緊張と、恐怖が走った。
がさっ、という音。
ぬめるような音。
重たい、跫音。
それを、認める。全員が視界に映す。
姿を現したのは、幌車二台分と同じくらいの距離先だった。
猿の上半身。鰐の下半身と尾。二足歩行でやってくる、それ。
紛うことなく異形であるとわかるのは、頭部が不自然に傾き、対称的であるはずの目玉が非対称に置かれ、くびかれたように長い舌が垂れ出ていたからだ。
全員の足が、釘で打たれたようになる。
のそっ、のそっ、とゆっくりとした重音に、凍りつく。
「……〈猿猴〉」
つぶやいたのは、霧詠みの母を持つセアスだった。〈霧〉が凝集した異形——〈蟲〉の化け物。
「——走れっ!」
オーズが一喝するように全員に指示した。
釘が抜かれる。全員が走り出す。さきほどと同じように、真っ直ぐに。
ただ、逃げているのは〈霧〉ではない。〈蟲〉だった。そして、〈猿猴〉という異形は人間の魔力を好む。喰らう。
ぎょろっ、と非対称の目がリヨンたちを捕食対象と認識したのは次の瞬間だった。
のろりとした二足歩行から、下半身の鰐の体を思い起こしたかのように、四足歩行へ。そして、動いた。俊敏に。捕食対象を得るために。
「うあああああああっ」
尋常でない場面で悲鳴を思い出したのは、ドランがはじめだった。それからレーネもセアスも声をあげる。
リヨンもまた心が悲鳴をあげる。その悲鳴が、全員に感応する。
恐慌として、オーズにも伝播し、だが、大人としての冷静さが杖を打ち上げる。救難信号を上空へ。筆頭教導師と討伐隊に異常事態を報せる。
〈猿猴〉は、ただの〈蟲〉ではない。
夏という季節に出るはずのない、化け物。人間を好み、猿の口と垂れた舌、鰐の歯で噛み喰らう。凶暴であり、ひとたび捕食対象とされれば、《《骨も肉も残らない》》。地上に出る〈蟲〉のなかで厳重注意とされる化け物だった。
元素魔術の才がないオーズでは、太刀打ちができない。
赤い煙玉が、打ち上がる。
そのあいだも、〈猿猴〉が近づいてくる。残り二馬身。
子どもたちの狂乱が続く。
「リヨン……!」
遅れを取るリヨンにオーズは手を伸ばす。背には怪我をしたレーネ。オーズの体力にも限界があるが、力を出し切る他ない。
オーズがリヨンの手を取った瞬間、頭のなかにはっきりと聞こえてくるものがあった。
《助けて……!》
それがリヨンの内なる声だとオーズが気づくのは、事態が収まったあとだ。
《だれか、助けて……! モーちゃん……っ》
残り一馬身ほどに迫った〈猿猴〉が獲物を噛み砕こうと、鰐の筋力で跳躍する。下りる先にはリヨンの黒髪があった。
今にも、猿の引き裂かれた口が、百本の歯を見せて開き、リヨンの頭部を噛み砕こうとした瞬間——
ばちっ、と落雷にでも遭ったのように、〈猿猴〉の頭部が弾かれた。
後方にすさまじい音ともに飛ばされる。
リヨンも、オーズも驚愕して、足が止まる。セアスとドランはわなないたようにその場に座り込む。
そして、リヨンのすぐ頭上に、雪華の陣が浮かんでいるのを見た。
リヨンの体よりもふた回りはかくやと言うほどの、ひそく色の雪華が花開いている。
「——フェノアの助言に従って、{遠隔}を付けていたのが功を奏しました」
薄色のゆるやかな髪をなびかせて、葡萄色の長外套がゆらめかせながら、その声は頭上から{転移}の光の粒子とともに、舞い降りる。
黒い長靴の踵を、苔と草の地に足を下ろす。
「わたしが、たまたま非番で、暇を持て余して{遠見}を使ったという偶然も重なりました。まさか、声が逆流するように伝わってきたのはびっくりしましたが」
瑠璃色の瞳が、オーズやリヨンたちに向かって優しくほほ笑む。
「運が、いいですね」
シェイラは言って、吹き飛んだ先の〈猿猴〉を見た。
ぬいぐるみの{遠隔}を伝いに、{防護}を施しただけだ。感触もなかったから、まだ〈蟲〉としての形を保っているはずだ。
翡翠スギの、緑青の堅い幹の背後から、のっそりと靄とともに体が持ち上がってくる。
「いつ見ても醜悪ですね、お猿さんは。見ているだけでほんとうに不快です。あなたの外見は子どもたちの寝物語に出てくる怪談に謳われるんですよ。子どもたちの傷になってしまったら、どうするんですか。……まあ、わたしは鳥さんたちのほうがいやですけれども」
ふつう、学園の実習でこんな体験をすることはまずない。学院に上がったとしてもだ。街なかで〈猿猴〉なんてまず見ないし、討伐隊にでも入らなければ、教科書に版画印刷された図画でしか見ない〈蟲〉なのだ。
こんな恐怖の体験をしたら、心の外傷となってしまう。
シェイラはあと片づけとして、子どもたちに施さなければならない癒しを頭で描きながら、立ち上がった〈猿猴〉に狙いをつける。醜い化け物が、シェイラを見る。
「今日は暑いですからね。冷たいものを差し上げます」
シェイラは右手の平に魔導を描く。
水の元素魔術を押し固めて、{冷却}を零度より下に合わせて発動させる。
ぱきんっ、ぱきんっ、と暑さに涼やかな音が鳴り響く。
「——ですがその前に、」
〈猿猴〉が跳躍した。リヨンに襲いかかろうとしたように、シェイラの頭上に陰る。
「少し、おとなしく座っていただきましょうね。物をいただく時はお行儀よくなくてはいけませんから」
左手に寸暇をおかずに、大地の魔術を発動させると、しゅるしゅるっという音とともにどこからか、根や蔦が伸びてきて飛びかかった〈猿猴〉を拘束した。
「それでは、——召し上がれ」
シェイラが笑んで指を鳴らした途端、当然現れた氷山のような塊が、根や蔦もろともに〈猿猴〉の体を覆った。
ひびが入ったように大きく、ばきんっ、という割れる音がすると、崩れ落ちるようにして冷たい風を当たりに吹かせる。大地が丸ごと呑み込んでしまったかのように〈猿猴〉の体は氷塊とともに散っていった。
シェイラはそれを認めると、くるりとオーズたちに向き直った。すぐにしゃがんで子どもたちの視線と高さを合わせる。
歯の根が合わなくなるほど震えている子どもたちの姿と、オーズの呆気に取られた、されど、ほっとした顔が目に映る。
「……皆さん、こわかった、ですね。もう、大丈夫ですよ」
声をあげて泣きはじめたのはだれが最初だったのか。リヨン以外の全員が幼い泣き声をあげ始める。緊張がゆるんだために出てきた声を。
リヨンは震えて、震えながら、その内なる声が、シェイラとオーズの頭をかすった。
《こわかった……こわかったよ、お母さま……っ、モーちゃん、……すごい、こわかった》
この声はいったい全体どうしたことなのかシェイラは考察しなければならなかったものの、右手に{遠隔}を描きながらリヨンの胸のなかのぬいぐるみを動かす。リヨンを抱きしめるようにして動く。
オーズもまた、リヨンと背のレーネを下ろしてやると、ふたりの頭を大きく撫でてやった。
そうすると、リヨンは声をあげないながらも、涙を零しはじめた。レーネがぬいぐるみごとリヨンを抱きしめ、リヨンもまたレーネに抱擁を返す。
泣き声の合唱となった頃合いに、筆頭魔導師のニカ師と討伐隊の面々が、やっとその場に到着したのであった。




