37話:{守護}
「——なんかおかしい」
ひと騒ぎを終えてから一時間くらい経った頃合いだろう。そう言うセアスに、リヨンもまた同じような心地を得ていた。
妙に静かだ、ど。
「そうか?」
「まあこのへん、たしかに他の班を見かけないね」
ドランとレーネが、茜羊歯の採集を終えて{保管}の瓶に入れ終えてから、言う。
セアスは周囲を見渡して、それから銀ブナと翡翠スギの木漏れ陽より先を見上げる。なにかを見極めようとする。
リヨンも違和感の正体を見極めようとする。気持ちの悪い感覚。いやな感覚。母から罵声を浴びせられたあとの残滓のような感覚。それを防霧林の木々の隙間から感じるようだった。
その時、湖の波打ち際を思い出すような音をかすかに聞いた。
さらっさらっ、という漣の音。
途端に、ぶわっと、肌が粟立つ。闇の、煙の先を感じ取る。
「……〈霧〉だ」
セアスが茫然とつぶやく。
そうして、腐ったあまいにおいが、つんとした。
「えっ?!」
「……うわあっ」
ドランが声をあげ、レーネが悲鳴をあげる。
〈魔導霧〉がリヨンたちを中心にするように、あっという間にたち込める。
先に感じ取ったセアスが我に返ると、
「戻ろう!」
と全員に声をかけた。
その声でリヨンも我に返る。いつもの自分だったら固まってしまったかもしれない。けれど、モレリーのぬいぐるみがあるからなのか、レーネたちがいたからなのか、体が自由に動いた。
セアスに指揮されて、全員が一直線に林の入口のほうに向かって走りはじめる。
八歳、九歳の子どもの足でどれだけ全速力を出せるか。息を切らす。
思っているうちに後ろでレーネの悲鳴が聞こえた。長外套で足がもつれたのだ。
倒れた先を振り向けば、〈霧〉がリヨンたちを追ってくるようにしていたのが、まるで倒れた友人にまとわりつくようになるのをリヨンは視た。
闇の魔術の血統であるリヨンだからこそ、視れた。
(ただの〈霧〉じゃない……!)
呪いに類するものだ。
いけないものだ。
これは守らなければ、弾かなければいけないものだ。
だが、
(声が出ない。出せない)
{守護}を、リヨンは唱えられない。
知っているのに。教わっているのに。
声帯が収縮してしまって、なにも絞り出せない気がした。恐怖がさらに締め付けるように雁字搦めにする。
そうこうしているうちに、レーネの周囲を描くようにして〈霧〉が濃くなる。悪意が、凝集する。
なにが起こるのかわからない。〈霧〉が人に集まるとどうなるのかわからない。
「レーネ!」
ドランとセアスが叫ぶ。レーネを助け起こそうと引き返す。近寄る。そうしているうちに、〈霧〉がなにかの形を象る。
短い時間のようで、長い時間だった。
そのあいだ、リヨンの額の裏で、友人との思い出がまたたいた。
優しさ、屈託のない遠慮のなさ、みんなと同じように接してくれた、さまざまなできごと。
それは、リヨンにとって、心強いできごとだったはずだ。救いだったはずだ。安心だったはずだ。
一時でも、体のこわばりを忘れられるさまざまなできごとだった。
もっと、喋りたかった。もっと、いろいろなことを話してみたかった。
これからもっと、レーネと仲よくなりたかった。
なら、リヨンが取るべきことは。するべきことは——
(できることは……)
喉が痛い。凍っている。体中が硬い。
それでも、できる。できるはずだ。できなければいけない。
今、なんとしても自分がやらなければいけない。
そう気持ちがまとまると、自分のなかの〈導脈〉が動いた気がした。
翠の魔力を感じる。魔力が、暗緑の砂を、闇を描く。
——今は、リヨンがレーネを助ける番なのだ。
リヨンは強く、呪文を念じる。
頭のなかで、教わったものを詠じる。
——我、闇を操りし者
その瞬間、レーネたちには耳の奥で頭のなかで、聞いたことのない声が鳴り響いた。鐘が鳴り終えたあとの残響のような音。けれど、同じ女子の声。
リヨンは、念じる。心で、唱える。強く強く、言の葉を思い紡ぐ。
我、其を言霊で縛りし者
ペリメルの血に連なる者
其を呼ばう
来よ、来よ、闇よ、安寧よ
包め、包め、闇よ、ぬくもりよ
其は——、{守護}なり
その詠唱は——リヨンの声は、レーネたちの頭のなかに直接聞こえてきた。
気づいたのは、研磨された翠の巨大な宝石が、自分たちをあたたかく包んで、〈霧〉を払ったあとのことだった。
元素魔術の闇。
あらゆる呪いを弾く、{守護}の魔術。
リヨン自身も、レーネたちも、なにが起きたのかわからず、その場でしばらく呆然と立ち尽くした。




