33話:シェイラとイディ(1)
タイトル通り縹色の少年イディ回。
ガルバディア王宮の中央尖塔より遥か空の上。
青雲のうえで、シェイラは腰より四枚の翅を羽ばたかせる。風の魔術と{浮遊}を合わせているゆえ、敏捷性が高く、空中での活動に向いているのがこの応用魔術だった。
——特に、今日のような、〈蟲〉との戦闘では。
「……やれやれです」
頭上から振り下ろされる尾をシェイラはよけた。
〈蜻蛉〉は、トンボのような頭部と胴体を持つ一方で、尾はサソリのようであった。
サソリと同様に魔の毒も持つ。ひとたび刺されれば、数刻のうちに死に至る。薬水や、{解毒}でなければ、無効化できない。
物理的な力はそこまで強くないものの、飛翔し毒を持つために、街に出ると被害が出るのが〈蜻蛉〉だった。
シェイラは夜の修行で、これの気配を感じて、上昇してきた。
翅を動かし、距離を取る。魔力のにおいを辿って、〈蜻蛉〉も追ってくる。
シェイラは間合いを詰めさせない。
利き手の平に、円環を描く。ユベーヌ線上文字、古代サージェシア帝国の記号文字の順番に、文字が浮かび上がる。〈ユベーヌの呪い〉によって括り付けたサージェシアの古代文字は、あらゆる魔法や魔術の媒介となる。ガルバディアの音声文字は、元素魔術を呼び起こす。
表象するのは、結晶。あるいは、貴石原石。
六大元素から練り上げる。
炎、水、大地の力で練磨させ、闇の淵から拾い上げる。
鋭く尖った、澄んだ白銀結晶がいくつも精製される。
あとは、ただ意志を待つのみ。
「——穿て」
シェイラが差し向けたほう、飛ばう複数の〈蜻蛉〉の群れに、矢のように俊敏に、剣のように正確無比に、結晶石は命中する。
ずぶっ、と生き物を貫く音がいくつもつづく。
貫かれたそばから、〈蜻蛉〉はその姿が瓦解し、雲散する。
最後の一体が消え失せれば、あまい残り香だけ漂っていた。
「つまらないですね……」
上空で戦うから、霧砂は集められない。強い風で飛んでいってしまう。
シェイラにとってのうまみはなにもない。ただ、被害を出さないようにするためだけの行為行動。
(……大事なことですが)
この力をもっと前に獲得していれば、と思わざるを得なかった。
もっと前から持っていれば、自分は母を亡くさず、婚約者との——ヴィクトルとの関係も失くさずに済んでいたのではないか。三年前のできごとも起きなかったのではないか、と。
考えても、仕方のないことだった。
母の死があったから、今のシェイラがある。三年前のできごとがあったから、今のシェイラがある。
それは思うだけで、天井から伸びた氷柱の雫が、体の奥底に音を立てて落ちるようであった。
シェイラはそう感じ考える自分さえも俯瞰する。
修行を経て、自分自身を俯瞰する術を得た今のシェイラは、たまに、なんの想いも意志も持たない空っぽななにかのように見える時がある。それが連関して、いくつもいくつも自分を俯瞰して、合わせ鏡のように感じる時がある。
鏡心にあるものが見えず、魔境に一歩、足を踏み入れてしまうような感覚だ。
「あなたの大事にしたいことは、なに? それを明確に抱きなさい」
さすれば魔境に踏み入らずにすむ。
目を閉じての瞑想も可能になる、とガザン師は言っていた。
——けれど、まだシェイラには、こうしたい、こうありたい、という明確な想いや願いは描けずにいた。
なんとしても魔法を得たい。子どもが好きだから関わりたい。
そういう表面的な願いしか、抱けずにいた。
シェイラはただ、魔導を極めようとする空っぽななにかでしかなかった。
思考にふけっているあいだに、シェイラの体は雲より下の、王都ガルバーンの輝きに近づく。
夜闇に輝く七色の光から逃げるように、高台の広場周辺の、急勾配に足を下ろした。
下生えの草が、夏だからか生い茂っていて、青草と土のにおいがむわっとする。
高台から続く斜面はほとんど手入れがされていない。光もなく、あるのは月に輝く草の緑がぽっと浮かび上がるだけだった。
今のシェイラの心境には、ちょうどいい。美しい輝きは、見たくなかった。
シェイラがふと先ほどまでいた空を見上げれば、夏の夜空に星々の舟が浮いていた。星詠みには、またちがった景色に見えるのかもしれない。
王城の左手に密集する防霧林の先には、遠く、星ノ国アベルの都を抱える山々が、うっすらと影で見えた。星都の占卜師たちであれば、シェイラの未来も視てもらえるかもしれない。——向かうべき先も、シェイラが願うべきことも。
にわかに、シェイラは風に揺れる草とは別の音を聞き取った。がさがさと下草を掻き分けているような意図のある音だった。
シェイラは、はっと身構えて、そしておそらく向こうも気がついて身構えた。
同時に顔が上がって、宵闇に薄ぼんやりと光る縹色の双眼とかち合った。
「……イディさん?」
その瞳の奥にかすかな〈導脈〉の光が見えた。捉えようとすると、奥底に吸い取られたように消失する。妙な違和感を覚えているあいだに、イディの罰の悪そうな顔がシェイラの視界に入り込んできた。
しまった、という顔。
まさかシェイラがいるとは思っていなかったようで、認識すると、背を向けて足に力を入れ、斜面を登っていこうとする。
「——ま、待ってください!」




